第二章/在祝・#渦位瞬
あの日の夢を見ていた。或いは、思い出していた。どこまで現実で、何が創りものだったのか判然としない、曖昧模糊とした記憶。
春さんの母親の耳裏に繋がれたケーブルは三十センチ四方の白い正方形の筐体と繋がれて、それから更に伸びたケーブルを春さんは自身のBMIに装着した。僕が病床に入ると既に準備は終わっていて、春さんは緊張した面持ちでいた。
僕は立ったまま、出来るだけ視界に入らないようにこっそりと、その様子をじっと見つめていた。それでは繋ぎますね、と機械の担当者と思しき男性が装置を起動させると、春さんは目を瞑り、首が背もたれにぐったり倒れ、軽く口が開いた。
意識が繋がったということなのだろうか。それから時折口を開いて小さく何かを話したり、身体が一瞬痙攣したように反応していた。多分、会話をしている。何も伝えることができず、ただ受け取ることしかできなかった春さんのお母さんは、この数年間の苦しみをどんな言葉で伝えているのだろう。もう殺して欲しいという願いだろうか、病への呪いだろうか。
担当者はモニターで互いの脳波を観察し、看護師も念の為患者のバイタルを観察している。二人の心のやりとりは数値から見て取れるものなのだろうかと、パソコンに表示された数値の羅列、液晶表示された脳が玉虫色に蠢く様子を興味深く見ていた。
そろそろ飽きてきたので、病室の外へ出ようとしていた時だった。
「ありがとう」と春さんは呟いた。
その後「外していただいて大丈夫です」と担当者に声をかけた。担当者は機器の接続を落とし、BMIからケーブルを抜いた。春さんは光がとても貴重なものであるかのようにゆっくりと目を開いた。同時に涙が頬を伝って、落ちた。
当時の僕はその涙の尊い余韻を慮ることもなく「ねぇ、どうだった? どうだった?」とすぐに聞いた。春さんは目を拭ってから微笑んだ。
「呪ってなんかいなかったよ。瞬くんとも話したいってさ」と言った。
「え、いいの」と僕は興奮してすぐに椅子に座り、待機した。担当者と看護師はやや困惑した表情で互いに顔を見合わせ、春さんはそれを見て「この子は大丈夫です。お手数ですがもう一度だけお願いします」と頭を下げた。そして僕のBMIとケーブルを装着し、例に倣って目を瞑った。
しばらくすると意識が曖昧になってきて、眠る前のような心地になる。それに委ねていると、頭の中に白い三次元空間が広がってきた。図鑑に描いてあるような写実的な線画のカーネーション、紋白蝶、白い鯨、七色の陽の光、見知らぬ子ども、ピアノの音、青い目、皆既日蝕、燃える地下の教会、様々なイメージが脳に浮かんできた。驚いた僕は慌てて目を開けて、素早く呼吸を繰り返し、現実世界を身体に取り戻そうと対処しようとした。
「大丈夫? もうやめておこうね」と看護師がケーブルを外そうとした。僕は深呼吸して、心を落ち着かせて「大丈夫です。ちょっと驚いただけです」と強がった。看護師が春さんを見ると、春さんは人差し指を立て、その後両掌を重ねてジェスチャーした。看護師もそれに倣って人差し指を立てて、ため息をついて微笑んだ。
再び目を閉じると、先ほどの世界が広がった。上と下の感覚もなく、次々に位置が展開され、自分がどこにいるのかがよくわからなかった。
「瞬くん」とどこからともなく声が聞こえてきた。それは本当にどこからともなくで、近いか遠いかも分からなかった。僕は頭の中で「だれ」と思考した。
「春の母です」と返事が返ってきた。通じている。通じ合えている。
「春さんのお母さん。あの、先日は驚かせてしまいごめんなさい」と僕は言った。
「いいのよ。子どもはあれくらい元気じゃなきゃ」と返事がきた。聞こえていた。あの時もちゃんと聞こえていたのだ。
「春ね、あなたと会ってからよくあなたの話をするようになったわ」
空間に透明度の高い暖色系の波が立ち現れる。姿が見えなくても、表情が伝わってくるようだった。
「だから私、はじめましてだけど意外とあなたのことは知っているの」と笑った。
僕はそれを少し恥ずかしく思った。すると空間に雲のような煙がやってきて、ぼんやりとしたまま浮遊して回遊していた。
「どんなこと話していたんですか」と僕は聞いた。
「いろんなこと。あなたがどこの学校に通っているかとか、病院食のミックスベジタブルの不味さだとか」
雲の中から僕が見ていたアニメの猿のキャラが出てきた。僕は咄嗟に見られてはいけないものを見られた気分になり焦った。すると猿は霧消した。
「昔ね。あの子心臓が悪かったの。そのせいもあってちょっとしたストレスや、環境の変化で不整脈が起きて、パニックになってしまうことがあって。あなたと昔の自分を重ね合わせて、気がかりだったんじゃないかな」
廊下ですれ違ってはお菓子をくれたり、話しかけてくれたりした理由がやっと少しだけ分かった気がした。
「だからこれからも仲良くしてあげて」
僕は頷いた。白い大地に咲いた芽はすくすく成長して大木になっていて、その脇に細い若木が育っていた。大木はやがて樹皮がひび割れ、朽ちていき、大地に倒れた。倒木は少しずつ土に還っていき、若木はその栄養を吸収するように太く、大きく、育っていった。陽光は惜しみなく若木の葉に光を送り、この木が倒れていった大木のようになり、花を咲かせ、受粉し、実を落としていくまでがありありと想像できた。
春さんのお母さんの声は、こんな呪いみたいな病気でいるにも拘らず穏やかで、優しくて、辛くないのだろうか、無理していないだろうかと考えていた。
「気にしてくれてありがとうね」と春さんのお母さんは答えた。
ここで何かを思うことはそのまま世界に伝わることなのだと分かった。
「身体が動かせないのは辛いけど、それでも世界は美しいと最近は思えるようになってきたの」
言葉と同時に、この世のものとは思えないほど鮮やかなスミレがゆっくり花弁を開かせていた。本物の紫色に初めて出会ったような、見惚れる美しさだった。
「もう結構時間が経っているはずよ。あの子、そろそろバイトの時間だから行ってあげて」と声がした。
僕は時間の感覚がすっかり消えていて、ハッとした。
「何か伝えておくことはありますか?」と僕は聞いた。
「さっき全部伝えたから大丈夫よ。ありがとうね。でも、そうね、私は多分もう長くはないから、一つ遺言を預かってくれる?」
そうして唱えた遺言はなぜか、妻の
・
「次は大雄山、大雄山です」
山、空、窓、電車、少しずつ意識が世界を言葉として認識していき、夢で昔を思い出していたことに気づいた。隣を見ると、百永花はいなかった。何の夢を見たのか、もう忘れかけていた。短時間だが久しぶりに深い眠りについた気がする。普段はなかなか眠りにつけない上に、朝は決まった時間に起きてしまうので、ほとんど睡眠時間が取れていなかった。意識がぼんやりしたまま大雄山で降りて、バスに乗って地蔵堂まで向かった。
バスを降りると里山の風景を見渡しながらしばらく坂を上る。途中、無神花認証を受けていない農家の畑に、育てられている野菜の量子情報からプリントアウトした生前の人物写真が貼れらていた。ダイアンサスの抗議活動だろう。夕日の滝まで到着し、山の中まで入っていく。フミヅキタケが群生したクヌギを目標にその奥まで進んでいく。ホームレスの老人は黄色い小さな花を摘んで眺めていた。
老人に掌をひらひらと振り、微笑んで挨拶して近づいた。
「それ、なんですか?」と僕は訪ねた。
「おお、渦位か。こりゃセイヨウミヤコグサだ。どこにでも生えているから、見たことくらいあるだろ」と老人は僕の方を一瞥したあと、また花に目を移して話した。
「言われてみれば」と僕も花を眺めた。
「いわゆる帰化植物だな。日本のミヤコグサに比べると花弁が少し大きく、数も多い」
どこにでもある花であれば何をそんな熱心に見つめていたのだろうと思った。
「いやな、珍しくもなんともないんだが、こいつは重要な植物だ」と老人は僕の心を読んだかのように話し始めた。初めて会ってから約九ヶ月が過ぎ、それからもう何度もここに足を運んでいた。彼の生態が興味深かったこともあるし、行くたびに植物について知識が増えていくのも愉しかった。そして念の為、安否確認という目的もあった。
「カール・フォン・リンネ。植物学の父だ。リンネはこの花をきっかけに、植物の睡眠について考えるようになって、名を馳せた。植物の睡眠は重要だ。まだわからないことが多い」
リンネ、植物の睡眠、Sheep社とも何か関係があるのではと訝しんでいた。思えばSheep社の親会社も眠りにまつわる名前だ。
「例えば植物は動物と同じように夜の間、姿勢を変える。中には葉がかつて芽だった時と同じ姿勢をとる種類もある。人が眠る時に胎児のような姿勢で寝るのと似ているな。若い時ほどよく寝て、老木になる程目覚めている時間が長いのも動物に似ている。睡眠という点で何かと共通点が多いんだよ」
僕は老人の膝まで小さい蟷螂が登ってきているのを注意深く見つめながら「不思議ですね」と言った。
「そういえば昔、世界中の人類が眠れなくなってしまうホラー映画を見たことがあります。すると人々は三日目を超えたくらいから、どんどん凶暴になっていくんです。支離滅裂な思考で他者に怒りをぶつけ出す。植物がどうかはわからないですが、もしかしたら互いに争わないために睡眠は必要なのかもって思い出しました」
「休まねぇと広い視野で世界を見れなくなるんだな」
野鳥が羽ばたき、蟷螂は何かを察したのか、老人の膝を下山し始めた。
「しかし、まだ分かってないことも多いんですね、植物って」
「そうだな。人間はまだこの世界の植物を十%程度しか発見できていないとも言われている。その僅かな種類の中だけでも、この世の医薬品の全成分のうち、九十五%は植物から抽出しているくれぇだ」
きのこを含む菌糸類も毎年千を超える新種が見つかっているが、研究が進んでいる植物でさえまだまだ余白がある。宇宙エレベーターが完成し、地球外活動が盛んになっているが、僕らはまだこの地球のことさえも本当はよく知らない。
管楽器と打楽器と人の声が聞こえてきた。ダイアンサスのデモ隊だ。昼下がりのこの時間、決まってこの道を通っているようだった。木立の隙間から様子を覗くと、茶髪の青年と目が合った。青年は足元に注意しながらゆっくりこちらに近づいてくる。
「どうしよう、なんか来ました」と僕は老人に言った。
「なんかってなんだ。山狩か」と老人は慌ててテントへ隠れようとしていた。
青年はこちらへ会釈し、話し始めた。
「はじめまして。渦位さん、ですよね? 私、ダイアンサスの
なぜ僕の名前を。探していた? なぜ。正体を確定させないよう、人違いの振りをするか逡巡していたところだった。
「おう、渦位に何のようだダイアンサス」と老人がテントから出てきて高圧的な返事をした。選択肢は一つになった。
「なぜ僕を?」と聞いた。
青年は茶髪にパーマがかかっていて、白いシャツを着た爽やかな装いだった。そして爽やかな笑顔で答えた。
「実は、うちの実質的な代表者があなたに会いたがっています。昨年ここで催されていたフェス、あれがダイアンサスの中でもとても好評だったもので。そこで、単刀直入ではあるのですが今度はうちでイベントを催していただきたく、お仕事のご相談です」
僕が考える間もなく老人が返事をした。
「あー、やめとけやめとけ。ろくなことじゃねぇ。お前らな、この際だから言っておくぞ。植物は植物だ。神じゃねぇ。人の物語に組み込もうとするな」
青年は無言で微笑みながら相槌は打たなかった。
「今日は、場が悪いみたいですね。また来ますよ、渦位さん。それから三田さん」と言い残して去った。
老人は威勢を失い沈黙した。
「過去にダイアンサスと何か?」と僕は横目で彼を見ながら聞いた。
「いや、なんでもねぇ」と老人は答えた。
・
帰り道。ダイアンサスに入れば、Sheep社との繋がりができるかもしれないと思っていた。あれだけの規模でRingNe推しをするコミュニティと本体が無関係ということは流石にないだろうし、自作自演の可能性すらある。
Sheep社については分からないことが多すぎた。社内情報は厳重に管理され、合同会社のため株主総会もなく、外部から情報を知る術が殆どない。チャンスだったのでは、と思い直す。と同時に、僕の話なのに問答無用に門前払いする老人の豪胆さが可笑しくて、思い出し笑いを堪えていた。
家に帰ると、円が夕飯の準備をしていた。鍋を覗くと、キュウリとリンゴと鯖が味噌やケチャップで煮込まれていた。
「ただいま、円」
「おかえり、父さん」
夕暮れのオレンジ色が畳を照らし、そこに横たわるエノキ。鈴虫の声、風鈴の音。清らかな風が心地良い時間帯だった。
「ただいまエノキ」
と言ってもエノキは反応しなかった。エノキが子どもの頃に遊んでいた釣竿のような玩具を目の前に放ってみたが、それも無視した。最近あまり動かないし、調子が悪いのかもしれない。大人になったというべきか。玩具はしまって毛並みを揃えるように背中を撫でた。百永花ともよくこんな時間を過ごしていた。
「今日は母さんの命日だ」と風に乗せるように僕は言った。
そのまま風で散逸してもおかしくない声量だった。
「うん、水あげてきた」
円は振り返らずにそう言った。
踏み台を使ってキッチンに上がり、フライパンを振るう息子の背中、毎日のように大きくなっている気がする。
「ありがとうな。でも、植物は毎日水やりしなくていいんだよ」
「分かった」
円は振り返って返事をするとまたすぐに鍋をかき混ぜ始めた。
僕らが妻の命日を知ったのは、死後しばらくしてからだった。百永花とは互いにバックパッカーをしていた時に、タンザニアのレストランで出会った。二人とも皆既日食を見にきていた。相席で通された店で二人ともミールワームを食べていたことから、話が弾んだ。食への好奇心という共通点があった僕らはすぐに仲良くなり、彼女の自由奔放に遊び回る姿に惹かれながら、共に旅に出るようになって、自然と付き合い、結婚した。
円が生まれてからは旅に出る機会がなくなり、百永花は僕が在宅している際に限り、気晴らしなのか、よくどこかに外出するようになった。どこに行っているかは分からなかったが、夜までにはいつも帰ってきていた。夕食後は、家族で川沿いを散歩するのが日課になっていた。
夜は車が危ないからと、小さい円にはカーライトが反射する大きな黄色い蛍光色のレインコートを着させていた。
フードで顔まで隠れた円を見て僕らは「人というよりもただの光だね」と笑っていた。子どもって確かに光なのだろうと僕はその時強く納得したことを覚えている。
「どこに行っても私が見つけてあげるからね」と発光体になった円に百永花は言った。しかし見つけられなくなったのは彼女の方だった。
ある日の夜、百永花は帰らなかった。連絡もなくどこかに泊まってくることがたまにあったから、翌日の夜までは円と共に、いつものように過ごしていた。五日目、音信不通が続くと流石に不安になり、警察へ捜索願を出した。十日目、どこにも見つからず、手がかりすら掴めない。全国各地を自由気ままに飛び回っていた彼女の動向を絞るのは難しかった。
六十日後、RingNeで一度調べてみたらどうかと、警察から提案があった。RingNeで位置情報が表示されるということは、彼女はもう植物に成っていることを証明する。つまりもう人には帰らぬ存在になっているということだった。
きっとどこか電波の通じない場所へ旅に出たくなったのだろう、スマホを無くしてしまい、友人の家に転がり込んでいるだろうと思っていたから、そんな大袈裟な、と僕は笑い飛ばした。死んだ魚が笑ったような笑顔だったと思う。その場でRingNeを起動して調べることはできなかった。
翌日朝、寝起きのぼんやりした意識を利用して、できるだけ何も考えずRingNeを起動し、検索する。半目で夢を見ているかのように画面を眺める。マップ画面にピンが立った。
二度寝を試みるも、懐で寝るエノキの体温が温かく、鼓動を打ち、確かな現実から目を逸らすことができなかった。頭が真っ白になった。息をするのを忘れていることに気づいた。慌てて大きく深呼吸をして、そのまま吐く息で地図情報を見ると、何故かSheep社前にピンが打たれていた。円にはそのまま事情を説明した。嘘で納得するような子ではないので、大人気ないほどそのままに。
そしてひとしきり大泣きした円と共に、僕らはSheep社前まで向かった。群生するカラスノエンドウ、タンポポ、ツユクサ、ヒルガオ、この中に百永花がいるというのだ。ピンを更にズームすると、数十本のツユクサまで辿り着いた。身内の
百六十センチほどの彼女の骨格、腰まであった長い黒髪、目や臓器、それが花になるリアリティを飲み込めなかった。RingNeを疑う気持ちがよく分かった。
だから僕らはツユクサを目の前にしばらく黙り込んでしまった。背後には車が通り過ぎていく。
そのありふれた植物を、まるで今日初めて見るかのようにただ、眺めていた。凛として、ごまかしのない緑の葉、神秘的なまでに青い花弁、小さく可愛い黄色いおしべ。百永花らしいと、思ってしまった。そうしてやっと涙が溢れた。
両手を合わせ、RingNeでツユクサの茎にそっと触れる。少しでも彼女がストレスを感じないように優しく、そっと触れた。百永花の情報が画面に表示される。一つも間違いはなかった。
そして命日が今日、七月十二日だった。死因は、極度の栄養失調による餓死と表示されていた。量子情報はSheep社前にのみ分布していることから、種子が風や鳥に運ばれて移動したとは考えづらい。一箇所にのみ分布している際は、死体が植物の土の下に眠り、分解されて養分になっていることが自然だった。
鑑みるに、飢餓で死んだ妻を誰かが堆肥化し、それをSheep社前のガーデンに漉き込んだ。他殺の線で再捜査することを、警察と合意した。最も不可解で訝しかったのはSheep社という場所だった。なぜこの場にわざわざ移動させる必要があったのか。僕はそれからSheep社のことを調べ始めた。しかし、代表はASIだとか、タイムマシンで未来から来ただとか、都市伝説レベルの情報ばかりで、有力な情報は得られないままだった。
「できたよ」
円が料理を運んできて卓上に置いた。仕上げに皿の遥か上から納豆を撒いて、完成と言った。大量の蜘蛛が降りてくるようで、素晴らしい演出だと感嘆した。味噌とケチャップと納豆の香りの壮絶なぶつかり合いが、非常に食欲をそそる。
食べ始めようとしたところ、ベルが鳴る。
「先食べてて」と円に言った。
玄関を開けると、昼間に公園で勧誘してきたダイアンサスの青年がいた。
「衣川です。やはり諦めきれず、来てしまいました」
「家まで調べていたとは」
驚いている様子を見せぬよう淡白にそう言った。
「我々のネットワークは渦位さんの好きなキノコのように広いのですよ。もしかしたら奥さんの情報も何かご提供できるかもしれません」と、衣川は爽やかな笑顔で言った。そこまで知られているなら逃げられないとも思ったし、むしろ都合がいいとも思った。
「分かりました、入ります。ただし仕事が終わるまでの期間限定ということで。あと僕は僕の目的のために動きます」
衣川は事前に決めていたような表情を見せて喜びを伝えた。
「はい、それで問題ないです。あくまでDAOですから。早速ですが明日我々の拠点まで御足労いただけますか。まずは実質的な代表である
連絡先が書かれた透明なカードが手渡された。時間になるとカードにキャラクターが現れて道案内を開始するとのことだった。夕飯の香りに気づいてか、衣川はそれを渡すとすぐに去っていった。
・
翌日。カードに従ってダイアンサスのアジトへ向かった。電車を二本乗り換え、二時間ほどの距離だった。石膏のような素材で作られた半円形のドームが見えた。建物を囲むようにピンクや赤のナデシコが自生している。ここがエントランスになっているようだった。ドアにカードをかざすと、開く。中に入ると、ちょうど衣川の乗ったエレベーターが開くところだった。
「遥々ようこそ」
衣川と共にエレベーターに乗り、下の階に降りていく。アジトは地下に生えたビルのようで、五階層のフロアでできていた。地下二階で降りる。地下神殿のような広大な岩壁の空間に3Dプリンタで作られたと思しき、有機的なフォルムの家や施設が並んでいる。中央には四十メートルほどはある巨大な白いクスノキが聳えていて、それ以外に植物らしきものはなかった。
湿度が高く、人もまばらにいた。人工太陽のような球体が浮かんでいるので、心地よく住んでいくための光も熱も申し分なかった。
「こちらです」と衣川が二階建ての建物の扉を開ける。室内には長い髪を後ろで束ねた端正な顔立ちの中年男性が、紺色のセットアップを着て、透明なソファーに座っていた。
「歩、ご案内ありがとう。渦位さん、はじめまして。ダイアンサスの中武です」
男性の挨拶に応じて僕も会釈を返す。衣川に着席を勧められたソファーに座ると、皮とも合成樹脂とも形容し難く、老年のサイに座っているような感触だった。
「渦位さん、今日は遥々お越しいただきありがとうございます。昨年のフェスティバル、実に素晴らしかった!」
彼は両手を開いて称賛し、僕はそう言っていただけて嬉しいですという表情をした。
「さて早速なのですが単刀直入に申します。渦位さんに我々ダイアンサスにおいて、とても重要な日に催す祭を、仕立てていただきたい」
「重要な日……」
「はい、まずはその話からいたしましょう。我々は
それは、神花になったら我々は何を感じることができるのか、ということです。これは贅沢な欲望です。ただもし仮に、一時的に神花となり、人間の意識で植物の感覚を知覚できるのなら、生きながらにして神の感覚を感じることができるのなら! と秘密裏に開発研究をしていたのです。そしてその技術が完成しました。この技術はプラント・エミュレーション、略してPEと呼称しています。祭はその技術を使った初の人体リハーサルです。偉大な一歩を讃えるため、催したいのです」
植物の感覚をコンピューターにインプットして、雪崩や地震の予測をいち早く行うグリーンターネットという技術のことを思い出していた。植物は二十を超える感覚野があるとどこかで聞いた記憶がある。その情報をコンピューターはまだしも人の脳で処理するイメージが湧かなかった。
「……すごいですね。でも今回人で試すのが初めてということで、リスクもあるのではないですか?」と僕は聞いた。返すまでの間や曇った表情を読み取られたか、彼は笑いながら話した。
「信じられないって顔をされていますね。ははは、それはそうだ! 僕も携わりながら、こんなことできるはずないってどこかで思っていましたから。しかしうちの技術担当、佐藤と言うのですが、彼女が天才でね。ある日、朝飯前のようにプロトを開発して持ってきたのですよ。まるで未来からの手土産でした」
彼は身振り手振りしながら、めくるめく豊かな表情で話す。組織の代表に適任の雄弁家だった。
「ああそれで、リスクのことですね。それは否定できません。BMIを通してニューロン接続するので、最悪の場合意識混濁、障害が残る可能性もあるとのことです。しかしいざ募ってみると大勢の応募がありましてね。皆いち早く試したいと血気盛んなものですよ」
「そんな。本当にいいのですか」
純粋な心配だった。組織の坩堝に溺れてないだろうか、同調圧力に流されていないだろうか。もしもそんな人が選ばれて、後悔しながら催す実験を祝うとしたら、僕にはとてもできない。
「心配無用です。ダイアンサスは宗教組織でも企業でもありません。匿名で、誰でもいつでも入って、抜けることができるDAOです。ここに組織的な人間関係のしがらみや強制力はありません。真に望んでいる人だけが、応募していますよ」
彼の言葉には説得力があった。大きな瞳で真っ直ぐ見つめて堂々と話す、その話術にも揺さぶられ、僕はそこで引き下がった。
「なるほど、わかりました。ではどんな祭にしていきたいか、まずはお話伺えますでしょうか」
その後僕らは一時間ほど意見交換した。帰り際、静観していた衣川は中武に妻の話をした。どうしてSheep社の前に運ばれたのか、妻は何故消えたのか。僕がダイアンサスに協力している動機を代弁した。中武は顎を指で支え考えていた。他の者にも聞いてみますよと言い残して、去っていった。
・
その後、衣川から施設の案内をしてもらっている。地下五階に着いた。
「このフロアは全面核融合発電施設になっています」
融合炉と思しき巨大なドーナツ状の装置を中心に、無数の巨大な金属群が囂々と稼働していた。
「自家発電って規模じゃないですね」
「トカマク方式なので古いモデルですが、譲り受けたそうです。ダイアンサスには匿名ながら世界中に信じられないような資産家や権力者が所属しているので、自分たちでもよく分からないことが起きています」と衣川は言った。
地下四階。
「ここは農園です。神花しないよう、地下で厳重に管理して作物を育てています。無神花認証の管理もあの施設で」と球状の建物を指差した。どういう構造で自立しているのかよく分からない建物だった。フロアは人工太陽が輝き、視界に収まりきらないほどの作物が育てられていた。
「ダイアンサスのイールドファーミングに参加するとここから毎月、安心安全な野菜が届きますよ」と衣川はメリットを付け足した。
地下三階。
「ここは製木所です。木を育てるのは時間がかかるので、特殊な3Dプリンターで
「二階にあった楠も……」
「はい、ご明察の通りです」
ダイアンサスの技術レベル、そしてその実装力は想像を超えていた。世界中で百万人を超えるメンバーを持つDAOの底知れない調達力があれば、プラントエミュレーションもあるいは本当に可能なのかもしれないと思うくらいに、無から木が生まれる光景は魔法的だった。
地下一階。
「ここはメンバー達の自治区です。住んでいる人も、店を出して商売している人もいます。流通する通貨は全てダイアンサスのガバナンストークンです。流通するほど森林保全に寄付される仕組みになっているので、見ての通り活気に溢れています。地上とは大違いでしょ?」
お祭り騒ぎといった模様だった。人工太陽の穏やかな日差しに、甘い草の香りが立ち込めていた。江戸の市場のような威勢で客寄せをする男性、至る所で起きている大道芸やストリートライブ、裸で走り回る子ども、老若男女の活気が溢れていた。
人工太陽で常に温暖な気候であること、経済を滑らかにする流通ルール、何より神花を神として信仰する共通のコンテクストが、この世界の生きやすさを創っているのだろうと思った。地上に出て毎日デモ活動をしている僕らの知っているダイアンサスは氷山の一角で、この豊かな土壌が動力源になっているのだと感じた。
「ゴジアオイ火災の一件以降、日本のメンバーが急増しましてね。非常に賑わうようになってきました。それから、あちら見てください。あの山も創ったのですよ」と言って衣川が指を刺した方向に小高い山があった。緑色に茂った木々はピラミッドのように綺麗な四角錐形にまとめられ、頂点には天井の天窓のような箇所から、一筋の光が落ちていた。
「あの木々も創木したものですか?」
「その通りです。全て植樹しました。よければ近くまで行ってみますか?」
僕は頷き、十分ほど山の方まで歩く。町の喧騒もなくなり、山の麓に辿り着く。鳥や虫の声がないことが異様に不気味に感じられた。
「あの光は地上から射しているんですか?」
「そうですね。ダイアンサスにはいくつかの儀式があるのですが、天然の太陽光がないとできない種類のものがありまして。多分今も山頂でやっていますよ」
ぜひ見てみたいと僕は言って山頂まで登ることにした。自然と見分けがつかないほど精巧な人工樹の根の階段を一段ずつ登っていく。山頂に辿り着くと狭い円形の平地が広がっていた。無数の撫子が円形に広がり、円の中で数名の人々が仰向けに寝転び、太陽の光を浴びていた。よく見ると皆、極度に痩せ細っていた。僕が質問をする前に衣川が小さな声で僕に話した。
「サンゲイズという儀式です。あくまで一部の人はですが、植物と同じように食事は太陽光と水だけで生きることを志向し、実践しています。より植物に近い感覚で生きるため、地上に上がり我々の保有する山の中で土に埋まって、不動のまま光と雨で過ごす儀式もあります」
プラントエミュレーションが求められていた理由の一つが分かった気がした。彼らは既にリスクをとって神に近づこうとしている。これに比べればPEはまだ低リスクなようにも見える。旧来、人智の及ばない畏れ多きものが神として崇め奉られてきたが、ごく身近に存在していて既知なるものが神になった時、人はそれを信仰するだけでなく、自ら神になろうとするらしい。人外の存在を目指すという人類の長年のアジェンダに則って。
ただ、人が死ぬことは植物という神になる祝うべきことなのであれば、それまでの間はせめて、人で在る時間を愛しむことができないのだろうか。人として生きて死んでいくまでの時間に呪いをかけてしまっては、生命が報われない。そんな時代はもう終わったはずだ。いち早く植物に成っていくことを祝いたいという与件と、人で在ることそれ自体を祝いたいという個人の願いとを、どう止揚すべきかと悩みながら下山した。
・
それから毎週月曜に、祝祭の定例会議が始まった。コアメンバーも概ね顔や性格が割れてきた。精神的な主軸となり実質的な代表者を務める中武が主に会を進行し、PEをはじめダイアンサスDAOのスマートコントラクトを書き、技術的な主任を務める佐藤がCTO的な立場をとり、儀式やデモを仕切る、植物主義過激派の
平位は普段担当していた儀式の仕切りをぽっと出の僕が担当することに、不快感を持っているようだった。この三名が中枢となり、その他数十名の幹部陣が支えている。Sheep社との関わりはまだ見えてこなかった。
祝祭は、八月十一日に開催することが決まった。今日はPEの使用方法や段取りについて話し合われていた。オンライン会議には千人以上が参加し、英語、中国語、スペイン語の同時通訳を副音声で聞くことができた。画面上で中武が話す。
「前に話した通り、最初に転生するメンバーはunek《ウネク》くん、衣川くん、
少し間が開いてから、unekというハンドルネームの日本人女性が手を挙げて、不安そうに話した。
「いち早く転生させていただけることはとても光栄なのですが、正直なところまだ、意識を手放したまま戻ってこられないのではないかという不安があります……」
佐藤がそれに対してすぐに返答する。
「大丈夫だ、私が保証するよ。それに君たちは胎児だった頃、物心がつく前、そして日々の睡眠の中で既にそれと同じことを経験しているじゃないか。何、いつものことさ」
ギャラリービューで無数に並ぶ人々から拍手のスタンプが送られていた。続けて中武も話しはじめた。
「不安な気持ち、よーく分かります。もし、万が一unekさんに何かあったらと考えると、僕も強い不安と心配に苛まれます。しかし逆に考えてみてください。神花になればこの不安とも金輪際別れることができるのです。それどころか、人の内では感じることのできないこの世界の神秘を余すところなく感じることができるでしょう。だからこそ、私はあなたがもし旅立って行ったとしても、それを祝福したいと思っています」
拍手のスタンプやクラッカーを鳴らすスタンプが画面を埋め尽くした。unekは目を潤ませて感謝を述べた。
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