第40話(終)
この町の桜並木をちゃんと眺めるのは今年が初めてだ。
たとえば通学路から脇道に逸れて、少し歩いた先の河川敷。桜色の道だ。その春が一秒でも長くそこに留まるように、雨風さえもが見入ってしまえばいいのに。俯き気味で過ごすか、必死に走るだけの日々を経て、ようやく私はこの町の桜に出逢った。
三月末に私たちの住む地域でも開花し始め、時期としては平年並みだそうだ。私は両親を花見に誘った。次に三人ともが休みの日に。場所取りもお弁当作りもしない、散歩のようなものを予定している。それでも私から休日に彼らをお出かけに誘うのは、いっしょに暮らし始めて五年近くになるが初めてだった。
自分の部屋で「お母さん」「お父さん」と言う練習をしてみた。こういうのって、思い切って一回目を言ってしまえばその後は楽だと思う。芹香が私の名前を当たり前のように呼ぶようになる前に、とは考えている。
一つの区切り。夏にお墓参りに行った時には特に報告したいことってなかったのに、今ではあれもこれも伝えておきたくて、そわそわしている。大丈夫。焦る必要はない。元気でいることが、今は亡き三人を安心させることだと信じている。
花見には三嶋家から誘われてもいる。春休み期間中。私他、友達数名。女性比率が高い。三嶋家全員で毎年訪れている名所というか穴場があるそうで、旧年度に別れを告げて新年度を迎える催しでもある。「お父さんにね、会社でそういうイベントないのって訊いたら、げんなりした顔になって『四年前の悪夢を思い出させないでくれよ』だって」と純玲が言っていた。花見にも在り方は様々だ。
……あの日。
芹香とのキスを純玲に見つかったあの勉強会。
芹香ったら、この世の終わりみたいな表情になったものだから、私はそれで冷静になって純玲に事情を打ち明けた。途中、芹香が口を挟もうとするのをすべて突っぱねて、純玲に話した。彼女が私と芹香それぞれに、その直感をして心配してくれていた「悩み」の正体がまさにこれなのだと。純玲への想いをありのままに告白したのではない。私と芹香の二人は最初から惹かれ合っていたのではなく、むしろ間には斥力が働いていたこともあった。でも同時にその反発しあう関係が、引力へと変わるきっかけで、私たちは今こうして恋仲にあるのだと説明した。「ちょっと何を言っているかわからない」と返されてしまったが、その台詞とは裏腹に、純玲は納得した顔をして「今日は赤飯ね」と笑ってくれもした。
祝福。純玲からそれを受けるのは複雑な心境であったが、しかし拒みはしない。私たちが選んだことだ。胸を張るべきだろう。私たちは彼女よりも先に恋を知った。それがはじまりで、今のところ一つの終着点でもあるというだけ。
三嶋家主催の花見当日。三嶋家から自動車で一時間の花見スポットだ。右も左も自然に満ち溢れた場所。私たち以外にもそこそこの人がいるが、桜が呆れてしまうほどの数ではない。参加する友達のうち、年の離れたお兄さんが運転手としてついてくる子がいて、三嶋家所有の車と二台に別れて乗ってここまで来た。もとよりお酒は持ってきていないからそのあたりは問題ない。
しばらく全員で飲み食いしながらおしゃべりして、それから私と芹香は二人でふらっと散策に乗り出した。
「誕生日、何かほしいものある?」
私は隣を歩く芹香に訊ねる。あと一週間もすれば彼女たち姉妹の誕生日だが、まだ芹香の分のプレゼントを用意できていない。純玲へのプレゼントについてはつい先日、早めに芹香と買いに行った。芹香はルームフレグランスを、私はハンカチを選んでいた。
「そうね……」
「あ、新しい友達ってのはなしだから」
「人から贈られるものじゃないでしょ、それ」
正論だった。
比較的暖かく、よく晴れた日となったがまだ上に何も羽織らずに出歩くには寒い。薄手のコート、いわゆるスプリングコートを二人とも羽織っている。似たようなベージュ系の色合いに似たデザイン。他の同級生がいるからもあってか、芹香の髪型は基本のサイドテール。近頃は「せっかくだから」と私が推して、いろんな髪型を試してもらってもいる。もちろん、私たちの手先でアレンジできる範囲でということだが。なんだかんだ、あの弓道場で目にしたポニーテールが私のお気に入り。芹香の魅力が引き立つ。馬の尻尾なんてクラスメイトに何人もいるんだけれどなぁ。贔屓目、いや、惚れた弱味か。
「というか、プレゼントって本人に訊く? ただの友達じゃないのよ」
「恋人からは誕生日に特別な贈り物がされたい。できればサプライズ感ありで。そう言えばいいじゃん」
「言わなくてもわかっていてほしかった」
「たしかに」
「なに、合点しているのよ。はぁ……。真面目な話、高価なものなんていらない。そうね、前みたいに押し花の栞は? 季節が変わって春の花が咲いているでしょ。風情があっていいじゃない。季節を閉じ込めるなんて」
「でも芹の花ってないと思う」
「そんなのこだわらないっての」
「そっか。それじゃ、まずは花の栞。スプリングバージョン。それとあともう一つ何か秘密裏に準備を進めておくね」
「今、言っちゃっているから秘密でないわよね」
実はペアアクセサリーが以前から候補にあって、オンラインショップであれこれと選びあぐねているうちにもう直前になっていたのだった。二人で実店舗に買いに行けばいいかな。
あてもなく歩いて進んでいくと、ふと方向転換して人気のないほうへと芹香が入っていく。猪や熊は出るまいな、と一抹の不安を抱きながらその背中を追いかけた。長閑な景色に、デンジャラスなハプニングは不要だぞ。
「芹香?」
彼女が足を止めてこちらを振り向く。その表情は何か言いたげだ。今さっきの流れで別れ話ってことはないはず。ちがうよね?
「これ。一カ月以上経ったけれど、バレンタインのお返し」
「え? ホワイトデーにたこ焼きを奢ってもらったよね」
三月になって例のカフェ近くにオープンしたばかりのお店だ。甘いものを飲んだ後にはちょうどいいかもしれないね、なんて話をした流れで買ってもらった。あーんって彼女の口に運ぼうとしたら「火傷するでしょ」と怒られた。こっちも恥ずかしかったのに。ふーふーと息で冷ますか迷って、やめておいた。
その芹香が今、たこ焼きみたいな面持ちで私に贈り物をしてきた。突然。これぞ棚からぼた餅ってやつか。芹香へのプレゼント、春のスイーツとしてぼた餅もありかな。でも、あれはお彼岸に供えるんだっけ。
「じゃあ、バレンタインは無関係でいい」
「いいって言われても……これ、渡すためにここまできたんだね」
「わかっているなら、受け取りなさいよ」
「うん。ありがとう」
小さい包みだ。芹香がコートのポケットに収まっていたサイズ。
「ここで開けていい?」
私がそう訊くと、眉間に皺を一瞬寄せた彼女だったが「どうぞ」と折れた。断られても開けるつもりだったのを感じ取ったのだろうか。
「これは………えっと、ネックレスってことでいいんだよね。この角ばった円錐は天然石? 花はともかく、石は詳しくないよ」
「アメジスト。そういう淡い色合いのはラベンダーアメジストなんて言われもするみたい。愛の守護石だとか異名もあるそうね」
「芹香ってスピリチュアルな知識もあるんだ。占い好きだっけ」
「そうでもない。良くも悪くもリアリストやらせてもらっているわ」
「だよね」
私は手にとってしげしげとその鎖のついた石を見た。
ラベンダー、か。なるほど、色はその花の如く淡い紫。香りはない。そのきらめきも控え目だった。奥深いと表現してもいい。私が身につけるよりも芹香に似合う気がする。伊達眼鏡を外して、こういう貴金属、そのうちでも光り過ぎないものを選ぶといい。それを身につけて、彼女の内に眠る大いなる魅力を…………そういえば、いつか純玲が私に言っていた気がする。あれはなんだっけ。海底のダイヤモンドだったか。あの時はいまいちわからなかったけれど、こうして石を眺め、そして愛しい相手を見つめると、わかる気がする。花も石もそれ単体で貴ばれるものであるが、それらは人を飾るのに用いることがある。そうしたくなるんだ。
「それね、ただのネックレスじゃなくてペンデュラムなのよ」
「ぺんでゅらむ?」
「水脈や鉱脈をダウジングするのに使われていたっていう振り子のこと。そして占い道具。ようは何か探し求めるために、そのゆらめきをあてにするの」
「ゆらめきって……勝手には揺れないよね」
「無意識や深層意識と呼ばれるものを頼りにして云々と語ってみたところで、私自身、そんなの信じていないわ。私がそれを莉海に贈るのは、ちょっとしたおまじないと願いを込めて」
「ふうん。……私に何か探してほしいんだ」
「そうとも言える。なんだかわかる?」
優しげに芹香が微笑む。ぐっと大人っぽく。美しく。桜が霞む。ずるいと思う。付き合い始めてから何度もそう感じている。日頃、むすーっとしているくせして、急にこれだもの。心、射抜かれっぱなし。
「芹香が今ここで、私にこれをつけてくれればわかるかも」
そう言って、私はそのアメジストのペンデュラムを彼女に差し出した。時間稼ぎだ。芹香が私に探してほしいもの。物質的な何かではないのは察しが付く。それはそうだ。金脈や温泉でも掘り当てて一攫千金よと求められても、戸惑いに埋もれる。では、観念的な……ううん、ようするに想いか。
「しかたないわね」
芹香がわざとらしく肩を竦めてみせてから、私の手からペンデュラムを引き取る。そうして私の首にかけた。躊躇いのない動き。かけやすいようにと半歩、彼女に近づいて頭を垂れて、かけ終わると、すぐ近くに彼女の顔がある。
「よく似合っている」
「ありがとう」
キスしたいって思った。
「ダメだから。こんなところで」
「心、読まないでよ」
「表情を読んだの」
「……周りに人、いないけれど?」
「いいから、さっきの答えを聞かせなさい」
「答えしだいで、私たちの関係って――――」
芹香が私の唇にその右の人差し指を押し当てる。
「馬鹿ね。どうしてそんな弱気な顔しているのよ」
指を離した芹香が今度は左手で軽く、私の髪を撫でる。じれったい。私が「そんな顔している?」とうかがうと、彼女は「ええ」と肯く。
「あのね、芹香。幸せって怖いね」
「話してみて」
「あ、いや、今のは思い浮かんだのをそのまま口にした感じ」
「教えて。莉海が思ったこと」
とことん、こいつは卑怯だ。さっきにも増していい顔をこっちに向けてくる。髪から離れていくその手も恋しくなっちゃう。ああ、もう。
「こんなにも穏やかな気持ちで春を迎えられたのって、久しぶりだから。独りになってから、春が来るのが怖かったぐらい。中学の時に恋人はおろか親友と呼べる子もいなかったけれど、形だけの友達はいくらかいた。そういう子たちや義理の両親が、いなくなる夢を見ることもあったの。春の夜の夢ってやつ。……今ね、それをふと思い出した。そうなの。つい今の今まで忘れられていたんだよね。仄暗い過去ってのを。なんでかな」
花の香りに酔ったのか、口から出てくる言葉ひとつひとつにどこか浮遊感があって、風に舞っていくみたいだった。そうなのに、芹香は相槌を打って、聞いてくれているんだって安心できる私がいた。
「そんなに不思議がらなくていいじゃない」
「そうかな」
「幸せでいいでしょ。それをまっすぐ受け入れれば」
「芹香にまっすぐって言われるなんて」
「ほんと、私に容赦ないわね」
「私を幸せにしてくれる?」
「へっ?」
私は芹香にキスをする。ダメだって言われても、したいんだからしかたない。止められないんだから。誰に見られたっていい。他の人が何を言ったってそんなの関係ない。この想いは譲れない。重ねられた唇が離れると、私は芹香を抱きしめた。芹香は抱きしめて返してくれる。
私は彼女に囁く。答えを。私なりの。
「私の想いはまだふらふらと、揺れる振り子かもしれない。二度と触れられない人たちや、あの子のことを忘れられはしないんだろうね。だって、忘れたくないんだもの。ぜんぶ、私の想いなんだから。そのうえで今このときの幸せを受け入れる……芹香がそう言ってくれるなら、私はそうありたい。探さないとね。探したいって本気で思う。確かな私の心、それと――――」
私たちは体を離して、向かい合う。互いの瞳を相手でいっぱいにする。時がこのまま止まってしまえばとは思わない。そうじゃない。いっしょにこれからを進む。どれほど揺蕩う路でも標はある。
「私の大好きな、あなたの心。さっきは、幸せにしてくれる?なんて言ったけれど、やっぱりなし」
「それって……」
「幸せになろう、芹香」
たぶんきっと、桜が綺麗だったのが悪い。
私のプロポーズめいた台詞は後々になっても、私自身とそして芹香の頬を染めるのに大いに役立つこととなる。青い春の赤い思い出は色褪せない。
そうして私は芹香を誘う。今度の日曜日は私の家で二人でお菓子作りをしようって。花はもう散々見たから、次はたらふく甘いものを食べるのがいいかなって。芹香が笑う。私もつられて笑った。
風光る空の下、私たちは甘く美しい揺らぎに身を任せ、歩きはじめた。
スイート・ペンデュラム よなが @yonaga221001
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