第39話

 花壇に植えられた寒咲きクロッカスが無事に、その淡い青色の花を咲かせているのを藤堂先輩と見届ける月曜日の放課後。バレンタインデー当日。

 芹香と交際し始めて、めでたしめでたしで終わることはなく。

 なるべく早くに解消しないといけない事案がいくつかある。いくつもでないのを祈っている。まったくもって悩ましい。

 

「悩みって一減ると二増えますよね」

「そう言うわりには、すがすがしい顔だよ、莉海ちゃん」

「褒めてもこれしか出ませんよ」


 私はポケットから、ひょいっと取り出す。

 今朝、コンビニに寄って買った安価なチョコレート。


「わお! 一目で義理だとわかるチョコレートだ!」

「正直なところ、いろいろあって先輩の分を用意するのを忘れちゃっていたんです。年長者への敬意が足りない後輩で申し訳ありません」

「そう言うわりには、申し訳なさげな顔していないよ?」

「ほら、下手に手の込んだチョコなんて贈ったら彼女さんが妬きますよね。つまり、これは私なりの配慮なんです」

「わぁ、よくできた後輩。……まぁ、嫉妬深い人なのはあっている」


 ちなみに三嶋姉妹には同じブランドのチョコレートを前々から買ってあり、それを渡した。芹香のために作った昨日のガトーショコラは二人だけの秘密だった。補足しておくと、それを作ると決めたのは姉妹のためにチョコを用意した後でだった。

 当日の今日は純玲からも貰えたが、芹香からはなかった。いずれきちんと何か渡すと約束してくれた。いつでもいいよと言っておいた。ねだるつもりはない。


「先輩がこのクロッカスが好きなのは、その彼女さんと関係があるんですか」

「えー? 全然ないよー」


 花の妖精がさも愛しげに眺めるクロッカス。クロッカスというと、春植えで夏咲きであったり、秋植えで春咲きであったりの品種があるが、世間一般だと春咲きのイメージが強いと聞いた。あと、色については青系以外に白色や黄色、赤色もある。藤堂先輩の人柄からすると、明るめの色の方が似合いそう。


「でもさー、これから思い出の花にするってのはありかもね」

「というと?」

「何輪か摘んで贈るとかさ。これから作っていけばいいんだよ」

「園芸部の特権ってやつですか」

「権利の濫用に近いかなー。押し花だってべつに正式には活動として報告していないし。今後はわからないけどね」

「そうだったんですか」


 園芸部員の不祥事はともかく、思い出を新たに作っていくというのには賛成だ。何気ないものでも、そこに色が付く。付けられる。とはいえ、芹香に花を贈っても微妙な顔するだろうな。現金なところあるから。こういうのも花より団子って言うのかな。


「それはそうと、やっぱりあたしの見立ては当たっていたね」

「何の話ですか?」


 藤堂先輩がにこっと笑う。えくぼがへこむ。その笑みにはどことなく悪戯っ子の雰囲気があった。


「莉海ちゃんが可愛くなっているって話。恋する女の子だもん、当然だね!」


 先輩に芹香と私の関係性を直接は報告していない。でも、わかっちゃうんだろうな。あの時、弓道場にいた人、というか私をそこに導いた人であるのだし。


「ははは……」

「愛想笑いもうまくなったね! はい、私からはこれ!」


 先輩がそう言って、ごそごそと取り出したのもチョコレート。なんと三つも。そして合計で百円しない。驚きだ。先輩の小さな手に収まるサイズ。


「ありがとうございます」

「いやね、ほんと嫉妬深い人だから、ごめんね」

「いつか紹介してくれますか?」

「ダーメ。莉海ちゃん、可愛いからもしものことがあったら困る」

「あ、はい」

「さて、と。それじゃテスト前になるから来週、それに再来週もお休みだね」


 そうして私たちは別れる。

 そうだ、まず一つ。課題として学年末テストが月末にある。入院していたのは結局、一週間に満たなかったが、しかしそこから完治まで時間はかかったし、芹香のことで頭がいっぱいだったのもあって、勉強は捗っていない。このままではまずい。純玲の数学の点数を気にかけている場合ではない。




 そんなわけで、勉強会を開くこととなった。

 けれど提案者は純玲で、その意図は半分は私を気遣って。もう半分は彼女自身のために。最初はクラスメイト数人でカラオケに行って、歌いつつなんて話をしていたのが、私がやんわりと今回は集中したい旨を伝えると、会場が三嶋家の純玲の部屋となり、参加者は三嶋姉妹と私の三人だけとなった。別日に純玲は他の友達の家で勉強することにもなったそうだ。


 金曜日の放課後。私と純玲と芹香の三人で学校を出て三嶋家へと行く。純玲を真ん中にして歩いたり話したりするのか思いきや、いつの間にか私が真ん中にいる。なるほど、両手に花ということか。


「そういえば話したっけ。桐谷先輩と副部長が付き合い始めたの」

 

 電車の中、純玲がぽんっとそんなことを言い出した。ロングシートの端っこ。私と純玲が並んで腰掛けていて、芹香は隅にいる私の横に立っている。じゃんけんの結果、こうなった。

 いろいろあったせいで、演劇部の見学にはほんの数回行ったきりだなぁ。脚本が書きあがったのは聞いたけれど。


「ううん、初耳」

「桐谷先輩、部活中に告白したの。先週のことよ」

「大胆だね」

「ちょっ、莉海! 抱いてなんていないわよ。どうしたのよ急に。なによその脳内ピンク発言は。そんな子に育てた覚えないわ」

「純玲、そういう冗談は公共の場ではやめて」


 冷ややかに芹香が言い、私に視線を投げかけてもくる。あんたが悪いのよ、って目つき。いや、今のは純玲でしょって目で返す。


「彼、ずっと副部長のこと好きだったんだって。最初に役者志望だったのも嘘。端から脚本担当に集中したかったけれど、文芸部だと副部長といっしょにいられないから。少しでも同じ空間にいたくて、振り向いてもらいたくて懸命だったみたい」

「それであのでこ……ん、ん。副部長さんは、すんなりオーケーしたの?」

「まさか。『こんな、ムードもヘチマもない告白、ありえない』って一刀両断。周りの部員、シーンってなっちゃって」

「芹香、どうしてヘチマもないって言うの?」

「今は純玲の話に集中しなさいよ」

「ここからが山場なのよ。最高潮、クライマックスね」


 純玲がぐっと右の握り拳を顔のそばで掲げて、目をきらきらとさせて言う。


「桐谷先輩が『君のせいだ。こっちが練習しているのを熱心に観察して、アドバイスをくれる君の姿も声もよすぎるんや。好きなんだ。誰にもとられたくない』って」

「へぇ、それで?」


 純玲の声真似のクオリティの適切な評価をしようと、桐谷先輩の声をどうにか思い出そうとしている私をよそに、芹香が続きを催促する。あ、私、あの人の声って発声練習のしか知らない。


「部員たちがおおってどよめくなか、副部長は『二人称に君だなんて使うの、劇だけにしてよ、キモ』って」

「辛辣ね」

「でもね、あの副部長がそのときは早口で心なしか頬も赤く染めていたの」

「照れ隠しなんだ」


 誰かさんを思い出す。その誰かさんに目配せすると、眼鏡を指でクイッとして睨まれてしまった。


「えっと、純玲はそこで『押せぇ!いったれー!』って叫ばなかった?」

「よくわかっているわね、莉海。でも残念ながら他の部員に止められた」

「残念……?」

「それでね、桐谷先輩が『俺が君をどこへでも連れていくから。本気や。君といっしょにどこまでも』って、気障ったらしい台詞をすらすらと言いだして。でもね、まったく芝居がかっていないの。いつもの先輩の口調」

「それであのカレー、もとい、副部長さんを桐谷先輩はお姫様だっこして、部室を出ていったの?」

「ところが現実ってそうはできていないの。『考えさせて』って小さな声で副部長が答えて、それを見計らって部長が練習を再開させた。で、数日後に私個人で副部長に突撃インタビューを決行したら『そうね、あいつでも杖代わりにはなるんじゃない?』ってクールに言われたのよ」

「素直じゃないんだ。芹香といっしょ」


 べしっと。頭を叩かれた。暴力的な彼女だ。


「どうする? 芹香も莉海も、情熱的に求められたら。ああ、桐谷先輩はさほど熱い人ではないけれど。たとえばクラスの男の子から……」

「ないない」

「ないわね」


 ほとんど同時に似た反応をよこす私と芹香。


 純玲にはまだ私たちのことを言っていない。

 これも課題の一つ。打ち明けるか否か、芹香とそこまで話し合ってはいなかった。避けている議題? どうだろう。避けては通れないとは思うが、芹香と付き合い始めて一週間も経っていないのだ。もう少し先延ばししてもいいだろう。……いいよね? 私は芹香に流し目をよこすが、彼女はぷいっと逸らしてしまった。しかたない、か。


「純玲はどうなの? もし誰かに告白されたら試しに付き合ってみる?」


 そう問うのは迷った。でも純玲から言い出したのを好機に、彼女が恋愛観をあれから更新しているのか、桐谷先輩と副部長のやりとりに感化されてないかを確認しておいて損はないと感じた。


「どうかしらね。それこそムードと台詞によるかもしれないわ。相手が小学生でも場合によってはきゅんとするもの。ダメね、流されやすい女で」


 そう言うと色っぽく溜息をつく。十六歳のそれではない。ごくりと唾を飲むと、また芹香に頭を小突かれてしまった。痛いぞ。



 

 純玲の部屋で一時間、三人で姦しく勉強した後、小休憩をとることになった。あの日と同じく四角い机を三角囲みだ。「目に物見せてぎゃふんと言わせてあげるわ」と純玲が紅茶を淹れてくれるそうで、部屋を出ていった。

 日が沈んでいた。芹香がレースカーテンの先の暗闇を遠ざけるようにオリーブ色の遮光カーテンをサッと閉じた。純玲の部屋には芹香の部屋にいるペンギンに相当する同居人はいない。それに関して芹香に訊ねると「どうでもいいでしょ」で返されるかと思いきや、意外な答えが返ってきた。


「ここだけの話、いたのよ」

「家出したってこと? それとも出家?」

「……前に、初恋の話をしたの覚えている?」

「サッカー部の男の子だっけ」


 純玲と付き合うという結果になった、芹香の初恋相手。


「そう。そいつね、中学に上がると同時に転校したのよ。理由は莉海と違って、ありふれた親の転勤だったはず」


 あのバレンタインデー前日、想いを伝え合った後で私は芹香に家族の話をした。しようと思っていなかったのに、気がつけば糸を紡ぐように話して、また泣いた。あの時の芹香、私の瞼にまでキスしてきたけれど、ああいうの少女漫画やドラマで得た知識なのかな。ぎゅっと抱きしめてもくるから、余計に泣くことになったのは許してあげない。


「その男の子にあげたの?」

「そういうこと。餞別にね。アザラシよ、白いアザラシ」

「海洋系男子だったの?」

「ちがう、と思う。あげた純玲自身が言うには『あんまり喜んでいなかった』って。それはそうよね。これを私のことだと思ってとアザラシ渡されても」

「意外と愛着が湧いて、今では将来の夢になっているかも。寿司屋になることが」

「なんでよ。水族館関係者や学術研究者でしょ。水棲哺乳類の研究となると進学先選びそのものは楽かもね。かなり限定されるらしいから。経済や法律学ぶのと比べると、どうしても環境と設備が必要だもの」

「物知り芹香先生だ」

「ちょっと調べればわかる表面的な部分よ」

「もっと教えてくれる?」

「はぁ? そう言われても私、海に関する本ってほとんど読んだことないし、ドキュメンタリー番組もからっきしよ。中学生の時にメルヴィルの『白鯨』を読みはしたけれど、あれは小説で……」


 私はぷっと笑った。芹香が小首をかしげる。


「芹香のことをだよ」


 そう私が微笑みかけると、彼女は「だったら、そう言いなさいよ」と唇を尖らせ、そして顔ごと目を逸らした。こんな些細なことで照れていた。


「ねぇ、莉海」


 しばし芹香の横顔を眺めていると、彼女がそう呟いた。そしてこっちに向き直ると、じっと見つめてくる。


「なに?」

「一つ教えておくと、私は……けっこう焼き餅するほうみたいなの」

「美味しそう」

「ふざけて言っているんじゃないの」


 芹香が私の傍に座り直す。ふわりといい香りがして、まずいなと思った。


「自覚を持ちなさい。私にとってあんたはもう特別なのよ」

「私にとってもそう」


 何度か注意しても、まだまだ「あんた」呼びが抜けない芹香だ。というか「持ちなさい」って言い方好きじゃない。「持ってよ」や「持ってくれる?」でいいでしょ。対等なんだよ私たち。


「不服そうね」

「べつに……。ほら、純玲が来る前に、机の上をきれいに整頓しておこうよ。もしもノートを紅茶染めでもされたら困るでしょ。ハイセンスが過ぎるよ」

「謝らないから」

「え? んっ!?」


 芹香がキスしてきた。純玲の部屋、勉強会の合間に。おいおい、妙な背徳感を与えないでよ。しかも深く、長い。ついつい私からも求めちゃっている。


 だから。

 気づかなかった、足音に。


「ねぇ、芹香。檸檬が冷蔵庫のどこにもないの。あったはずなのよ。もしかして、本屋の棚に――――え?」


 純玲が戻ってきた。

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