第38話

 暖かな空気と冷たい空気が溶け合うそこで、私にキスを逆さに落とした芹香は泣きそうな顔をしていた。私はと言うと、唇同士が離れてからしばらくは、そのまま膝を枕にしてぼんやりと彼女を見上げていた。


「言うべきことがあるんじゃない?」


 生ぬるい沈黙を破ったのは私で、なるべく優しげに口にしてみたものの、芹香は「重いからさっさとどいて」と素っ気なく、そして期待とはまったく別の返事をしてきた。

 私はゆらりと立ち上がり、廊下に置きっぱなしだったガトーショコラ入りの紙袋を素早く手に取り、芹香に「ん」と唇を結んだまま突き出した。正座している彼女は数秒、それを見上げていたが溜息と共に両手で受け取り、立ち上がる。ドアは開かれた。私の勝ちだ。って何の勝負なんだか。

 

「紅茶、淹れてくる。皿やフォークも用意してくる」

「じゃあ私も」

「ついてこないで」

「お互いに気持ちを静める時間が必要だね」

「思っても言うな」


 むすっとした顔だが、まだ赤い。私もそうなんだろうな。

 突然の口づけなのに、驚きがすぐに快感に変わったのは認めざるを得ない。まさか芹香は回数を重ねるごとにうまくなっている? いやいや、それは二人の心境に依るものだろう。あの不器用な芹香がそういうテクニックを身につけるというのは、なんだかずるい。


 見つかったらまたいい顔はされないとわかっていながらも、私は芹香が部屋に戻ってくるまで無許可で彼女の本棚を漁り、百合漫画を読み始めた。言い訳するなら、この後どういうやりとりをすればいいのか、何か参考にしたかった。

 だって、さかさまのキスがあまりにも不意打ちで、甘すぎたから。今度は私から仕掛けてやろう、などと画策するでもないが、とにかく私たちは話し合う必要がある。何をどうやって? 今の私たちに合ったシーンはないかなとぺらぺらとめくる。女の子同士でのキスシーン。伝え合う想い。


「好き」


 呟いてみて、存外、羞恥心に襲われる。初心にもほどがある。好きとキス。さかさまのキスって、そういうこと? そんな言葉遊びは純玲だってしないぞ。たぶん。

 いずれにしても、作らないと話していた手作りチョコレートを持参した私としては、今ここに至って退く選択肢はないのであった。




 黙々とガトーショコラを食べながら紅茶をいただいた。「見ていないであんたも食べればいいじゃない」とぶっきらぼうに、切り分けられて勧められたからには拒めまい。非常に義務的なトーンでの「美味しい」という称賛を彼女から貰い、こちらも紅茶について同様に感想を述べた。

 手が進み、舌が進み、しかし話は弾まず、転ばず。とうとうガトーショコラはなくなってしまった。こうなるんだったら芹香が引くほど大きなやつを焼いてくるんだった。それでも全部残さず食べてくれただろうか?


「映画でも観る?」


 それは芹香からの誘いだった。帰れと言われたらどうしようかと案じていたところに出された助け舟。なるほど、芹香としてもこのまま帰ってほしいわけではないのだと自分を励ます。


「どんなのが観たいの」


 私が賛成すると、芹香はそう訊ねながら準備し始めた。彼女は私と違って、部屋にいるための格好だ。私が来るからと言って着替えはしないんだ。着替えていたら茶化されるとでも思っていないよね。


「そうだなぁ。入院しているときに、ぼーっと何本も観たんだけれど……って、それはいいとして。ええと、明るい話がいいよね。誰も死なないやつ」

「そうね」


 入院の話はしなきゃよかった。また一段と表情が固くなった芹香に焦る。

 動画観賞用のタブレットは家族共有端末で、リビングから持ってきた。持ってくる前に、そのままリビングで観るかどうかを芹香が私に選ばせてくれたが「ここで」と私が言うと彼女はうんともすんとも言わずに、一人でリビングに向かった。

 ほどなくして戻ってきた彼女と隣り合わせで、でも身体が触れない距離を保って、タブレットを覗き込んで映画を選ぶ。


「うーん……。あっ、これなんていいんじゃない?」

「チョコレートってタイトルに入っているから選んだでしょ」

「ダメ?」

「いいわよ」


 二十年近く前の映画だったが、タイトルは聞いたことがある。児童書が原作のファンタジーハートフルブラックコメディ。主演俳優と監督は何度もコンビを組んで映画を作っているのだとか。


「音楽と踊りも高評価みたいね」

「ミュージカルっぽいってこと? インド映画並み?」

「さぁ。観てみればわかるわ」


 それから二時間足らず、私たちは静かに映画観賞に興じた。

 見入っている途中で、芹香と肩が触れ合う。彼女だって気づいているだろうに何も言わない。その手を握るのはやめておいた。そういうラブロマンス系の映画ではない。甘くはある。とってもワンダーでクレイジーでファンタスティックなチョコレート工場を練り歩く子供と大人たち、そして風変わりな経営者。


「ハッピーエンドでよかったね」

「ハッピーとは言えない体にされた人たちもいるけれどね。小さい頃に観ていたら、あのいかれた社長を好きになれたかも」

「エキセントリックって言うんだよ、ああいうの。満十六歳の芹香は、あのキャラクターを好きになれない?」

「あんまり。彼が家族愛を思い出せてよかった、とは思うわ」


 ぷつんと。芹香はタブレットをスリープ状態にしてしまう。私としてはもう一本観る時間があるにはある。芹香の側はそんな気分ではないのか、何か考え込んでいる様子だった。後半、いや、実を言うと序盤から映画に夢中になっていた私だから、いつから芹香がそんな面持ちでいたのかわからなかった。

 家族愛。それはたとえば、芹香と純玲の間にもあるものだ。

 芹香は……純玲が好きだ。それは姉妹愛として片づけるには重い。前に芹香は私に明かした。実姉である純玲に劣情を抱くことがあると。

 家族愛。それは私にとっても特別な意味がある。心の中に生きる三人。そして今、いっしょに暮らしている二人。大切な人たちだ。悲しませたくない。


「全部、なかったことにって無理よね」

「え?」

「私があんたに言ったこと。そして何度もしたキス。そういうのを全部、口の中で溶けたチョコレートみたいにさ。今日、あんたは友達として遊びに来てくれて、手土産にチョコレートケーキを作ってきてくれて。そこに特別はなくて。二人で映画を観て、楽しかったねって言い合って、それで解散。そんな日々がこれからも続いていく。それじゃダメなのかなって」

「チョコって甘いだけじゃないんだよ」

「は?――――んっ」


 私から芹香にキスをした。唇には、私からするのは初めて。甘い香りは幻想ではなかった。そこに確かにあった。


「あんた馬鹿じゃないの」


 唇を離すと、飛んできたのは罵声。控え目な。囁きに近い。


「いいかげん、名前で呼んでよ。ううん、そうじゃなくて……。あのね、芹香。よく聞いて。もう逃げないで。――――私じゃダメかな?」


 もっと言い方はある。他に言うべきことがある。この子にはストレートに想いを伝えないと、そうわかっているのは頭だけ。そいつが指令をきちんと出して、舌を回してくれればそれでいいのに。現実ってうまくいかない。


「浮気性なのね」

「それが不適切な表現だってのは私でもわかる。どうしたの? いつもみたいに正しい言葉を教えてよ」

「あんた、そんな煽る子だった?」

「いっしょにいたから、うつったみたい」

「そんなにいた覚えはない」

「そうなんだよね」


 私は肯く。時間。それは純玲と芹香の間に私との何倍、何十倍もの量があり、質だって私のほうが高いって主張はしづらい。


「怒らないで聞いてほしいんだけれど。あ、自信なかったらいいよ、怒って」

「あんたねぇ……」


 眉をひそめる芹香も見慣れた。でも私と彼女の肩はまだくっついている。離れていない。まだそれは離すときではない。


「純玲のことは今でも好きだよ。それは芹香も同じでしょ?」


 きゅっと唇を結んでしまう芹香に私は続ける。


「だから、そっか。案外、浮気性ってのは間違いじゃないのかも。浮ついて、揺れ動いてばかりだなぁ、私。でもね、たとえそうでも言わせて」

 

 私は芹香を見つめる。また泣きそうな顔。察しているんだ。私も顔に出やすいから。わかっている、私の気持ち。

 その時になって肩と肩とを離す。そうしなければまっすぐに彼女に向かい合えないから。同じ方向を目指す、同じ人を好きになった者同士で一方向へと隣り合わせで進むのもいい。けれど、今は、この想いを伝えるのにはそれではダメなんだ。


「好き。芹香が好きなの。恋に突き落とした責任とってよ」


 噛まずに言えた。後半が余計な気がするし、こういう表現は芹香っぽいけれど、それもまたよしと自己肯定。


「……私は嫌いよ」


 なんでやねん。

 午後三時過ぎだというのに顔を夕の色の染める彼女が朝露めいた小さな声を私に返してくる。ちぐはぐだ。


「私はね、もう五年間も純玲を想っている。本気で想っていたのよ? 憧れや執着心をこじらせただけじゃなくて。それなのに出会ってたった三か月程度、隣のクラスにいて、その存在自体を純玲から聞いたことしかなかったあんたが、私の心をかき乱さないでよ。なに、踏み込んできているのよ。ふざけんじゃないわよ。純玲が好きなんでしょ。私と同じなんでしょ。それでいいじゃない。それを許してあげるから、だから、私の心を揺らさないで。振り子にされるなんて御免よ」


 途中、何度か生意気な口を塞ごうとしたがやめた。そういう方法は姑息でしかない。しかし、言われっぱなしの私ではない。


「えいっ」


 掛け声と共に芹香の肩をぐいっと掴んで押し込み、床へと倒す。予期していた抵抗がほとんどなく、かえって戸惑うが彼女の顔を今度は私が見下ろすと、どうでもよくなった。


「何が『許してあげる』なの。そもそも、芹香がキスしてこなかったら、こっちもそんなに意識しなかったんだよ。自分のことを棚上げしないでよ。棚卸業務はバイトのときだけにして」

「なんで……泣くのよ」


 たしかに芹香の顔に水滴が落ちていた。涙は重力に抗えず、そこに落ちていく。


「嫌いって言わないでよ。好きなんでしょ。好きでいてくれるんでしょ、こんな私でも。それじゃダメなの? 芹香は遊びで、誰とでもキスして、顔真っ赤にして、優しくして、心を開くわけ? そんなの嫌だよ。どうして好きって言ってくれないの」

「私は……純玲には敵わない」

「え?」

「あんた自身が言ったでしょ。今でも純玲を好きだって。そうよ、私も好きよ。だから、わかる。知っているのよ、あの子がどんなに魅力的かって。私とあんたがここで結ばれたって、どうせあの子への想いはなくならない。きっと、いつかはどちらからともなく、本心を偽って慰め合っているにすぎないって思っちゃう。ままごとだって」


 芹香は涙を避けるように顔を横に逸らす。ちがう。涙ではなく私の濡れた眼差しを、その表情を見続けていたくないからだ。

 私は涙を拭わず、代わりに芹香の肩を掴む力を強くする。これでもかと、消えない痕ができればいいと。


「舐めないで。私の告白が、ただ好きだって伝えるものだって、思っているわけ? 大間違い。さっきは、うまく言えなかっただけ」

「……どういうことよ」

「振り向かせてやるんだから」

「は?」

「純玲から、芹香の一番をとるんだから。私のことを一途に想うように、これからあんなチョコレートなんか目じゃない甘い言葉も、キスも、なんでもするんだから」

「そんなの――――」

「だからっ! 芹香もそうしてよ! 純玲から私の心、奪うつもりで芹香の好きを私に精一杯くれればいいでしょ! このすっとこどっこいのあんぽんたん!」 


 こんな時なのに涙だけではなく鼻水まで出てくる。これを芹香の顔に落とすのは気が引ける。なんでもするとは言ってみたものの、いきなりそんな高度にマニアックなやつを強いる私ではない。芹香が持つ百合漫画でもせいぜい一つの飴を交換して舐めたり、吸血鬼でもないのに首筋に噛み痕をくっきりつけたりしていたぐらいだ。


 言いたいこと言い切って、力を緩ませたのがいけなかった。芹香がその隙をついて、拘束を抜け出す。それから呆気にとられている私におそらくボックスティッシュを「ほら」と渡してくる。よく考えずに私は滲んだ視界でそれを受け取り、さっと彼女の視線を避けるように鼻をかむ。音はどうしようもない。風情も情趣もない音。そいつをゴミ箱に捨てる。目元を拭う。痛いほど擦る。


「あんぽんたんって初めて言われたわ」

「すっとこどっこいは?」

「前に純玲が『すっとこどっこいとどっこいどっこいのどっこいって同じ?』って訊いてきたことがある」

「へぇ。それですっとこどっこいのどっこいはどっこいどっこいのどっこいと同じ意味のどっこいなの?」

「そんなの今はどうでもいいでしょ」

「うん」

「好きよ」

「うん?」


 芹香が凛としていた。あの弓道場のときとはまた違う。何がちがうんだろう。

 きっと、心にある。今の芹香は内まで凛としている。二、三分前の迷いがその瞳からなくなっている。好きだと思った。切実に。


「も、もう一回言って」

「好きよ、莉海」

「もう百回」

「欲張るな。この……うすらとんかち」

「え、もしかして悪口の語彙力豊富系女子を目指しているの?」

「言いなさいよ」

「え?」

「好きって、言ってよ。もっと信じさせてよ、この馬鹿」

「言った分だけ返してよ?」

「…………努力はする」

「そう考えると、私ってまだお返しが済んでいない」


 私はキスする。ううん、私たちはキスをする。そのとき初めて、一方的ではなく二人が互いに好きを確かめるために。目を閉じて。長い時間。何に喩える必要もないキス。離したくない。離れたくない。

 そのまま芹香を抱きしめる。心臓と心臓を近づけ合えば、聞こえるだろうか。私のこのアホほど高鳴っている音が聞こえる? 芹香の心音を聞くことはできる?


 ガトーショコラも紅茶も気にならない、芹香の香り。愛しいそれを私は飽くなくほしがった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る