第37話

 弓道場から靴も履かずに突如走り去った一年女子という怪奇譚は、幸いにも流布されずに二月半ばを迎えた。

 できればバレンタインデー当日がよかったけれど、平日だと芹香とふたりきりの時間を充分に作るのは難しいから、前日である日曜日に出向くことにした。家を訪れてしまえば逃げられる心配はなさそうだし。昼前に焼き上がったガトーショコラは粗熱を取った後で、さらに二、三時間冷やせば、きちんと美味しくなるだろう。三時のおやつに合わせて会えれば満足だ。

 それに今日であれば、純玲はちょうど演劇部の集まりに出かけており、三嶋家にいない。演劇部の男女・先輩後輩が入り混じって休日に集まり、演技力向上の校外トレーニングという体裁で遊ぶのはそれが初めてではないらしい。

 英語禁止ボウリングをしたり、カラオケで点数勝負したり、インスピレーションを得るために美術館にも行ったりしたと純玲から聞いた。そういう過程もあって例の元彼氏さんは純玲に惹かれたんだろうな。

 

 部屋着から着替える。気合の入った服装をするつもりはなかったのに、迷いに迷った。結局は着慣れたニットのカーディガンにデニムを合わせた、無難な格好になってしまったのもご愛嬌。外歩きする予定もないから過度な防寒対策はいらない。いつものコートを羽織ればいい。

 万一、両親とでも出かけられていたら困ると考えて、私は事前に芹香に連絡しておく。最初は何も考えずに勢いで通話しようとした。けれど思いとどまった。今日という日は、そんなふうに勢いで突っ走ってこれ以上気まずくなりたくない。

 メッセージを送って様子を見よう。返信が三十分もなければ、電話しよう。


『今、どこで何しているの?』


 送信しかかって、思い直す。

 硬すぎるかな。尋問めいている。知りたいことを過不足なく訊くにも、可愛げがあったほうがいいのかもしれない。


『家で暇している人~!』


 ダメだな。これだときっと返信してきてくれない。日頃からこういう調子で話しているならともかく。


『私、砂埜莉海。今、あなたの家に向かっているの』


 都市伝説か。

 ウケ狙いである必要はないはずだ。スベるよりはいいけれど。


『会いたい』


 …………。

 間違ってはいない。飾らぬ気持ちである。ついでに『話したい』と加えてもいいぐらい。そこはかとなく気恥ずかしさがあるものの、作戦や演出なんてのは私に不向きだと自己評価を下すと、これで送ろうと決めた。

 ただ、予想としては『こっちはそうでもない』みたいな返信がきたら、次はどうすればいいんだろう? 『まぁまぁ、そう言わずに~』ってかるーくラリーを続けてその気にさせればいい?


 ええいままよ!

 結果的にやっぱり勢い任せだった。人のこと不器用と言ってられない。


 正直、ドキドキした。返信待ちの時間。世の恋するうら若き女子どもは、好きな男の子あるいは女の子、ううん、ひょっとしたら大人の人と会う時間を作る際にこうも胸を騒がしくさせているのか。

 一分間、ディスプレイを睨みつけても何の変化もないので、一旦手から離す。

 ベッドに寝転んだ。天井を見上げて深呼吸をした。

 一世一代の愛の告白をしにいくってのではない。諸々のもやもやを解消しにいく。けりをつけにいく。できる範囲で。あの子の本心を、あの時聞けなかったそれを聞きにいく。あとは流れで、どうにかなる。今日ですべてを変えようだなんて思っていない。変わるのを望まない私もまだいるにはいる。あの姉妹との関係性。これからの自分にとって、誰とどうありたいか。そんなのをクソ真面目に逐一考えていたら、また藤堂先輩や純玲、それから芹香にも笑われ、呆れられる。きっとお姉ちゃんにだって。


『純玲なら出かけたわよ』


 そんな返信が十七分後にきた私の胸中を推察していただきたい。なんだ試しているのか、こいつ。


『芹香に会いたいの。離したいことがある。今、家にいる? こっちはいつでも出られる状態なんだよもう』


 一分経たぬうちに返してから誤字に気づく。どうなっているんだ。変換候補は「話」のほうが優先ではないのか。最後に使った時に何があったんだ。

 スマホを握る手にグッと力が自然と入って、そういえばこれを部屋で投げ捨てたこともあったっけと思い出す。あれも芹香とのやりとりだったよね。あの子が純玲に恋人ができたのを知って、私のその夜に電話してきたのって……芹香自身が独りで抱え込むのがつらかったからなのかな。私がどう感じているか、どうするかをうかがって、それを判断材料にしようとしていた。あの子は今はどれだけ純玲を想っているんだろう。たとえば今日、演劇部の人たちと遊んでいる純玲。そこに嫉妬はどれぐらいあるんだろう。

 今度はすぐに返信がくる。


『何を離したいわけ?』


 挑発的な態度だった。まさか芹香も意図せず誤字したのではないだろう。

 まあ、いいんだ。むしろ敢えて弱味を示したことで芹香の側に気持ちの余裕ができたのだと思えば、あの誤字は役立ったはずだ。うん。


『そのへん教えてあげるから、そっち行っていい? 外出中ならまた今度にする』

『私は会いたくない』


 それ、このタイミングで言うの。


『嘘つき』

『嘘じゃない』

『行くから。お腹空かせて、手を洗って待っていなさい』


 外出していたらさっきそう返してくるはずだ。最初の返信で。本当に会いたくないなら初めからそう嘘をついてしまえばいいのにとも思う。会いたくないってわざわざ送ってこないでよ。そんな意思表明されたら、それが芹香のひねくれた態度だってわかっていても傷つくでしょ。こっちは会いたいって素直に突きつけているんだ。


『来ないで』


 芹香からそのメッセージがあった時には既に私は駅にいた。これから電車に乗って三嶋家の最寄り駅へと向かうところだ。この日のために安価な使い捨てケーキボックスも買って、それを入れるための紙袋も用意した。傍から見れば、貸し借りした漫画でも入っていると思われそうな紙袋。そうだ、まだ芹香から漫画を借りずじまいだ。ケーキを食べさせ、話をして、それで漫画を借りて帰るのは悪くない。それができる雰囲気で話を終えられればいいけれど。


『最寄り駅着いたから』


 私がそう返信をよこしたのは文面通り三嶋家の最寄り駅に着いてから。ここからの道はまだ慣れているとは言い難い。


 三嶋家に近づくにつれて、妙な緊張感が出てきた。足を止めこそしないが、向かい風にでも吹かれているようになる。芹香が本当に会ってくれなかったら。このガトーショコラを渡した直後に宙へと投げ捨られて、それが遥か遠くまで飛んで行って、大気圏をも超えて、お星様になったら。砕け散ったそれらが結ばれ、ガトーショコラ座になったのなら。気を紛らわすための空想はどこにもたどり着かない。それでいい。空想とはそうあるべきだ。芹香に会ったら、何か冗談でも一つ言って、ぽかんとさせてやろうかとも考える。純玲のような距離の取り方は私にできないかもしれないが、一触即発のにらめっこは勘弁だ。まずは芹香の針を寝かさないと。




 そうして三嶋家にたどり着き、インターホンを鳴らして三嶋母の声が聞こえた時になって、両親がいる可能性を考慮していなかったと気づいた。無自覚に自分自身を基準にしているから、誤った認識のままここまで来てしまう。てっきり、芹香とふたりきりになれるものだと高を括っていたのだ。

 私がインターホン越しに名乗ると「待っていて。今すぐ開けるから」と三嶋母がそう言って、こちらの用件を聞くことなしにインターホンを切る。

 玄関扉を開いてくれた三嶋母はぎこちない笑みを見せた。それから「純玲から聞いているけれど、身体の方はもう大丈夫?」と確認してくる。すっかり良くなり、体育の授業にも参加しているのを伝えると、ほっと胸を撫で下ろす素振りをして「よかった……」と自然な笑みが浮かんだ。

 

「芹香さん、いますよね?」


 私は玄関先に並んだ靴を見やって訊く。


「ええ。でも純玲は出かけているの」

「用があるのは芹香さんなので。ええと、もしかして出かけるところでしたか?」


 防寒具を羽織っているのと、すぐそばの床に置いてあるバッグに気づき、私は言う。それなら好都合なのだけれど。


「そうなの。ごめんなさいね、おもてなしができずに。ああ、でもただの買い物だからお茶の一杯でも淹れてから……」

「そんな。おかまいなく」

「それは?」


 三嶋母が私の持っている紙袋を指差した。


「えっと……借りていた漫画と、そのお礼の品です。あ、芹香さんに」

「そうなのね。あのね、莉海ちゃん」

「は、はい」

「難しいかもしれないけれど、芹香とも仲良くしてくれる?」


 急に真顔でそう言われたものだから、怯んでしまった。だが間を置いて私から出てきた言葉は素直なものだった。


「あの子にもっと近づきたくて今ここにいますから」


 予想していた反応と違ったのか、三嶋母は一瞬きょとんした。その後すぐに「ありがとう」と笑った。漫画の嘘、つかなくてもよかったかな。でも、芹香のために明日のバレンタインに先駆けてガトーショコラを手作りしてきたんですと言ったら、数秒は固まりそうだ。笑ってはくれるんだろうけれど。


 そうして私は三嶋母を見送ると、ゆっくりと階段を上がっていく。姉妹の部屋が並ぶ廊下。一人分の足音。芹香の部屋のドアをノックする。返事がない。


「芹香、いるんでしょ?」


 間取りからすると、部屋で音楽を聞いてでもしない限りはインターホンの音は微かでも耳に入ると思う。それに、来訪者が直々に事前に連絡をよこしているのであれば、それに少しは敏感になっていてもいい。不貞寝しているのだとしたら、それはそれでなんというか可愛いらしいが、今は望ましくない。もし万一、他の理由で返事ができない状態であるのなら困る。


 もう一度、ノックをして、それでもあの子の声が返ってこないのでドアノブに手をかけ、回す……うん? なぜか回らない。

 室内ドアなら開き戸より引き戸のほうが、前後の開閉スペースが不要だし、ストッパーがなくても開いた状態を維持できるから荷物の搬出入に都合がいいんじゃないかな……いや、そんなのどうでもいい。変だ。内鍵も外鍵もついていないのに。


「え、もしかして内側から自力で?」


 お茶目が過ぎるぞ。


「芹香、開けてよ」


 ドアノブをガチャガチャと。

 私は一旦、ノブから手を離す。困惑していた。ノックしたときに「入らないで」って言えばいいでしょ。そうやって牽制してきたのなら大人しく従う、なんて私ではないけれども。


「こういうとき、サスペンスドラマだったら蹴破るか全力タックルだよね」

「やめて」


 やっと返事があった。そういう台詞を聞きたくて来たんじゃないのにな。とはいえ、空室に向かって独りで話しかけているのではないと証明されて安心する。


「わかった。いいよ、ドア越しでも」

「よくない」


 一度声を出したせいか、すぐに返答があった。


「お母様はもう出かけたから、私と芹香しかいないよ」

「だからなによ」

「他に誰かが聞き耳を立てていたら言いにくいこともあるかなって」

「あんたと話すことなんてない」

「あのね、今日はチョコレートケーキを焼いて持ってきたの。いわゆるガトーショコラ。本来は焼いたチョコレート菓子全般を指すんだけれどね。紅茶にも合うと思う。芹香が淹れてくれると嬉しい」

「勝手すぎる」

「うん。でも明日だと渡しにくいし、保存状態もよくないかなって」

「明日って……どういう意味よ」

「教えてあげるから開けて」

「イヤ」

「意地っ張り。じゃあ、いいよ。黙りこくって、二人でケーキ食べて、紅茶飲んで、それで今日のところは我慢してあげても」

「それもイヤ」

「わがまま言わないで」

「どっちがよ」


 背中でドアを開くのを抑えている彼女に倣って、私はドアに背を向け、それからすとんとドアを背もたれにその場に座り込んだ。三嶋母に言われて、コートはラックに吊るしたから今は少し肌寒い。来客用のスリッパを履かせてもらっているから足裏には冷たさを感じない。試しに、右の手のひらで廊下に触れてみる。ひんやりしていた。チークのフローリングの深みのある色合いに時の流れを感じる。ここを姉妹が、というより三嶋家四人が幾度となく歩いてきたのだろう。私がもといた家、その床の感触は残念ながら思い出せない。一階部分廊下はカーペットだったのは覚えている。特に意識せずに歩き回った廊下、その床材の色味は既に曖昧模糊としていた。


「芹香、聞こえている?」

「なによ」

「今更だけれどごめんね。優しいひねくれ者の芹香のことだから、あの転落について罪悪感がけっこうあるよね。でも、知ってのとおり今はもうぴんぴんしているから」

「私はべつに、あれはあんたが……。いや、あれは、私が悪くて。だから、そう言えばよかったじゃないの。それなのにあんたは」


 思った以上にたどたどしい返事。蒸し返したくはないが、しかしこのまま芹香に後ろめたさがある状態では、言いたいことも言えない。


「大丈夫だから。なんだったら、あの日、泣き顔で私の名前を呼び続ける芹香、おもしろ……ん、ん。可愛かったから」

「面白くも可愛くもない!」

「そうだね。そのとおり。芹香はもっと普段から笑って、それでごく普通に私のことは名前で呼びなよ。そうしてほしい」

「なによそれ」

「あのね、あの時に言いそびれた言葉。聞きそびれた言葉。今日はそれを確かめに来たの。こんなドア越しってのは嫌だけれど、でもしかたないかな。このまま帰るほうが嫌だから」


 芹香からの声が失せた。聞いてくれてはいると思う。息を呑んで、待ってくれているんだろうか。芹香は待ち望んではいないのだろう。恐れている気配すらある。私だって完全に吹っ切れたわけではない。だからこそ形にする必要があった。

 この想いを。


「あのね、芹香。私は――――――わっ!?」


 ドアが内側へと開いて、そこを背もたれにしていた私はそこへ転がり、倒れる。頭をごんっと床にぶつける。そこには敷物がない。かくして芹香の部屋で仰向けに。入っているのは上半身だけで、下半身はまだ廊下にいるのが奇天烈だ。

 あの日はなかった頭の痛み、その原因に抗議するべく起き上がろうとすると、彼女は私の肩あたりを持ち上げて頭をその膝に乗せた。思いがけない膝枕。

 見下ろしてくる芹香。

 あ、今日は髪を結んでいないし、眼鏡もかけていない。

 そんなことを思った矢先、彼女の顔が近づいてきた。


「んっ……」


 器用な、さかさまのキスだった。

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