第36話
十八歳の姉の重さを私は今も知ることなしに生きている。
彼女にあった重みの一部は凄惨な事故現場で肉片として散らばり、すべてを取り戻すことが適わなかったのは知っている。それは同乗者であった母と父よりも人体が原形をとどめていなかったのを意味する。
すぐに死亡が認められたせいか、別の理由なのか、病院の霊安室ではなく警察署の安置室で私は姉たちと対面した。
対面というのは不正確であるが、そもそも当時の記憶は深い闇に溶け込み、今や掬い取れない。掬おうとしない私側の問題ではあった。ここにおける忘却は幸福なものだと思う。
連日、ニュースに取り上げられたところで一カ月もすれば世間というのは忘れる。この忘却もまたある意味で幸せと呼ぶべきかもしれない。遺された十二歳の女子の辿る道に関心を寄せ続けるほうが変人だ。もちろん、それが身内であれば話は違う。
ほどなくして私は遠方、今いる土地に住まう叔父夫婦の養子となった。もといた一軒家は売り払われた。遺品の一部が今住んでいる家に運び込まれている。それら一つ一つに触れて思い出を確かめはしない。つらいだけだから。部屋にある写真立て、家族四人が笑顔で写っているそれさえも、過去に何度か遠ざけるか捨てるかしようとした。
思い出に埋もれることはそのまま自分が死に恋焦がれるのを許してしまいそうだから。それでも写真はそこにある。彼らの笑顔を忘れるのは死よりも怖い。
叔父夫婦とは年に一度会っていたぐらいの仲でしかなかった。叔父は彼にとっての姉、すなわち私の母とは仲がよかった。実際に、母を偲ぶ様を目にしたとき、そこに本当に深い家族愛があるのだと理解した。その愛こそが理由の大半なのだろう、私を引き取ることにしたのは。忘れ形見を彼はもらい受けたわけである。
加えて言うのであれば叔父夫婦には子供がいなかった。
記憶を掘り起こすと、小学四年生の私が親戚一同の集まりの場で「どうしていないの?」と直接訊ねたこともあった。大人たちがどう答えたのか今となっては不明瞭であるが、それが夫婦どちらかの先天的な形質に依るのだと後に知った。今もどちらなのかは知らないし、知る必要はない。
家族となって四年。私が十六歳になった今でも彼らを「おじさん」「おばさん」と呼んでいるのは事実だ。それは否定しようがない。ただ、それが彼らを忌避しているだとか、生理的嫌悪を抱いているだとかにはつながらない。何の解決にもならないが、人前では父、母と呼称することもある。そうしたほうが都合がよく、そこでこだわったところでしかたない。
補足しておかなければならないのは、彼らが私を冷遇していないことだ。そこには虐待の「ぎゃ」の字もない。やはり相対的にみれば幸運であり幸福だ。
階段での転落。
まず義母が、それから仕事先から義父が病院へと駆けつけてきてくれた。すっかり家族の顔をしていた。こっちが恥ずかしくなるぐらいに、彼らは私の身を案じてくれたのだとありありとわかった。
一歩でいいのかもしれない。私が一歩、彼らに歩み寄ればそれで、新しい家族はうまくいく。
もし仮に、そうなるための障害があるのだとすれば……。
それは私の心に住まう姉。
それを障りある害と捉えるのは忍びなく、結局のところ私の問題であるのだけれど、とにかくそろそろ決着をつけなければならない。春が来る前に。新しい春を快く迎えるために。私の心を揺らすあの姉妹への想いを整理するためにも。
お菓子作りは姉の趣味だった。いつだって妹である私の分も作ってくれた。けれど手伝わせてくれたことはほとんどない。彼女にとってお菓子作りというのはもしかすると趣味以上の何か、たとえば儀式めいた意義を持つものだった可能性がある。お菓子作りをしている最中の姉に浮かんでいた妖しげな微笑みが私にそう思わせる。
私が姉のお菓子作りをする様子を目にしている最古の記憶は、私が小学二年生で彼女が中学二年生の頃である。まるで魔女みたいだった。姉がそのとき焼いてくれたアップルパイをつまむのは躊躇した。そこに使われたリンゴは、白雪姫に出て来る魔女が差し出す毒リンゴなのだと、幼心に可笑しなことを思いすらした。
でも、現実としては美味しかった。
それは毒ではなくで魔法がかかったみたいに美味しかった。そうやって褒めた私の頭を撫でて笑う姉。忘れない。忘れたくない。
あの子に私は届けるつもりだ。死の香りではなく甘い香りを。
二月十三日。その日曜日に私はキッチンに立った。一人だ。両親は私が完治したのを確かめると、今までどおり日曜日は一人にしてくれている。そうだ、思い返せば「してくれている」のだった。
中学三年生の秋頃からだ、お菓子作りを始めたのは。その頃、ようやく私は走るのをやめた。そういう形で過去を、父と母、そして姉の死から逃れようとするのを諦めた。それは克服ではない。未来に対する前向きな姿勢ではない。ただ、もう走ってもどうにもならないと知った。
お菓子作りを始めた私に、義母が手伝おうかと言ってくれたのを覚えている。最初の日だ。そのときは日曜日に彼女がいないほうが珍しかった。
しかし断った。
我ながら当時すごい剣幕で断固拒否してしまったのは今でも後悔している。反射的に、衝動に任せて品性を欠いた言葉を猛烈に投げつけていた。後でさすがに叔父すなわち義父に問い質されたが、しどろもどろにしか説明できず、深々と頭を下げて私が謝ると、義母が涙目で逆に謝ってきて、その場は収まった。
それ以降、義母は日曜日は家を空けることが多い。
「代わりに私が現れるようになった、と」
カカオ含有量が六十パーセント余りのクーベルチュールチョコレート百グラム、タブレットタイプのそれをボウルに放り込んだ直後だった。
姉がふわりと姿を見せた。カカオの香りと共に。
「最初はびっくりした。お化けかと思った」
「お化けのほうがよかったんじゃない?」
「そうだね。うん。自分の頭がおかしくなったと考えるよりはずっといい」
「でも、現実はそっちに近い。純玲のこと、言えないわよね。あの子よりもずっと想像力に長けているのよ、莉海は」
「それは違うと思うな」
続いて無塩バター三十グラムを放り込み、湯煎の準備をする。
「純玲になくて私にあるのは空想する力でも演技力でもなくて、単に寂しさと喪失感。だから、こんなふうにいないはずの人を傍に感じる。話してしまう。全部、独り言ってわかっているのに」
「そう? わかっていないふりをこれまでしてきたじゃない」
「たしかに。そうだったからこそ、お姉ちゃんはお姉ちゃんだった。私が知っていることしか話してくれないのに、私はそこにお姉ちゃんがいるものだと感じられた。信じられた。嘘だなんて思わなかった」
「……莉海?」
姉は私を不安げに覗き込む。いないのはわかっている。その姿形は、私の心が満たされないほどにはっきりと像を持つが、今日はもう靄と変わらない。
「私ね、お姉ちゃんが大好き。お母さんもお父さんもだけれど、でも、やっぱりお姉ちゃんが一番好きだった。二人は忙しかったし。年が離れていたからかな、あんまり喧嘩しなかったよね。本当に可愛がってくれた」
「動物園では泣かしたけれどね」
「もう、今はいいでしょ」
「だって。今の莉海、泣きそうだもの。意地悪言っておくぐらいがちょうどいいでしょ? ほら、ちゃんと溶け始めているわよ」
チョコレートとバターをゴムべらで混ぜていく。今までただの一度だって重なることのなかった手が重なるのを感じる。
「何度もね、考えたよ。どうしてみんな、私を残していたのって。私もぺしゃんこにしてくれればよかったのにって。それでみんな血だまりで溶け合ってしまうほうが、幸せだった。そんな夢をよく見たの……」
「ダメよ、莉海。チョコレートをかき混ぜている最中に言うことじゃない」
混ぜる、混ぜる、混ぜる。手ごたえを信じて。艶やかに光を反射するチョコレート。そこにあるのは甘さと苦さであって、血みどろの過去ではない。
「逃げたくて走ったの」
「知っているわ」
「でも、逃げられなかった。影はいつもそこにあった」
「うん」
「疲れちゃって、甘いものが食べたくなって。それで、ああ、お菓子作り、私にもできるかなって」
「そうね」
「ちゃんとできている?」
「もちろん。私の妹だもの」
生クリームを入れる。混ぜる。ココアパウダーもあったから入れる。混ぜる。
香りが私を本当の姉がいた過去に連れていってくれる。あの頃、日曜日のキッチンには確かにこういう香りがあった。夕食を作るお母さんが顔を少しばかりしかめてしまう、香り。大好きな香りが。
「あのね、お姉ちゃん。私ね……」
「ゆっくりでいいのよ。舌を噛みそうになっているわ」
「うん。あのね、私、私は……もう、大丈夫かもって」
オーブンの予熱を開始する。
その間に、別のボウルに卵を二つ割って入れた。全卵。白と黄を分けない。いっしょだ。いっしょに混ぜ合わせるんだ。もとは一つなのだから。
「大好きなお姉ちゃん。日曜日毎に、付き合わせちゃってごめんね」
「謝らないでよ。知っているでしょう? ぜんぶ、莉海の頭の中の出来事だって。莉海の心が導くままに在るべきよ」
「それって少し寂しいよね」
「けれども莉海は今日、それを受け入れる覚悟をした」
「うん」
「それは褒めてあげたいわ。頭を撫でてあげたい」
「お姉ちゃんの背ってどれぐらいだったっけ。思い出すのはいつも大きなお姉ちゃんなの」
「よーく、そうよ、よく思い出すのよ、莉海。大丈夫、思い出せる」
ハンドミキサーでかき混ぜた卵に、グラニュー糖六十五グラムを投入する。グラニューって、つぶつぶざらざらのことなんだと教えてくれたのは姉だ。在りし日のお姉ちゃんだ。
「……ちょうど今の私ぐらいかな」
「そうね。それぐらいの身長だったはずよ。亡くなる直前の身長は小学六年生の莉海とそんなに変わらなかった。お母さんもそう大きくなかったっけ」
「そう、そうだった。間違いない。あの事故の一カ月からそこら前、私、お姉ちゃんのお古の中学の制服を着てみたんだよね。採寸も終わっていて新しいのを買ってもらえるのに、それでも早く着てみたいって。引っ張り出してきたんだったよね」
「それで、思いのほかぶかぶかでもなくて、なぁんだ、お姉ちゃんってそんなに大きくなかったんだって」
「生意気言うなって、ほっぺたぐいぐいしたっけ」
「生地を伸ばすみたいにぐいぐいしてきたよね、お姉ちゃん」
「でも莉海は私の頬の感触って知らないままね」
「うん……キスの一つでもしておけばよかったな。お母さんにも、お父さんにも。別れの挨拶ってできなかった。きっと、その日の前のおやすみだって、していない」
グラニュー糖と卵を、乳白色で滑らかになるまでかき混ぜる。そこに先のチョコレートを合わせる。ぼんやりとした黒と白は混ぜるごとにその中間色に近づく。黄昏時を過ぎた色。でも深き夜の色とも違う。眠るにはまだ早い。
「お姉ちゃん……私ね、実はお菓子作りってそんな好きじゃない」
「どうして?」
「お姉ちゃんを思い出してしまうから。最初はそれが目的で、離れないことが、忘れないことが第一だったのに、影から逃げるのをやめて、ただただ甘いその記憶に浸りたかっただけなのに。それなのに、作って、出来上がって、食べちゃったら終わり。食べるのだって、独りなのが多いし」
「最後のは工夫できるでしょう? いつも冷蔵庫に入れておいて、勝手に食べればってスタンスじゃなくて、二人といっしょに食べればいいじゃない」
「おじさんもおばさんも甘いものが好きじゃないって知っているの。知らないふりしているだけ」
「甘くないお菓子はいくらでもあるわ」
「うん……」
ケーキ型に慎重に流し込む。いつも緊張する。なぜ? 一度、見たことがあったから。お姉ちゃんが失敗しちゃうのを。怒った顔していた。お姉ちゃん自身に。それから悲しそうな顔。今ではどっちも見ることができない。思い出の中だけだ。笑顔以外の写真も撮っておくべきだったかな。
「私はお菓子作り、莉海にもっと好きになってもらいたいな」
「でも、それもこれも私の言葉だよ。ぜんぶ、妄想だもの」
「あなたのお姉ちゃんは、妹がお菓子作りが好きじゃないって言いだしたらどう思う人なの? 喜ぶ人?」
「それは……そっか、うん」
長い独り舞台もいよいよ大詰めだと悟る。
私は予熱が済んだオーブンにチョコレートが流し込まれたケーキ型をゆっくりと入れる。あとは焼き上がるのを待つだけ。待つだけなんだ。
「待っているだけでは解決しないことのほうが多いよね」
オーブンの蓋を閉めて振り返る。姉はそこにいる。たとえそれが幻想であってもそこにいるんだ。
「そうね」
「進まないといけない」
「痛みがあるとわかっていても」
「時にその痛みこそ頼りにして。それに向かって」
「これは二度目のお別れ」
「でも永遠ではない」
「たとえば、甘くほろ苦いお菓子の香りに私は偲ぶ―――」
大好きなお姉ちゃん。お姉ちゃんだけじゃない、お母さんが好きだった花の匂いやお父さんの部屋にあった大きな本棚の匂い。そういった匂いが思い出を運ぶ。目に見えずともそこに感じられる。音だってそう。家族四人でクリスマスに第九を聴きに行ったのっていつだっけ。お姉ちゃんが好きだったバンドの音楽。お風呂上がりにお母さんが口ずさんでいた歌だって、上機嫌なときのお父さんが運転中にしていた鼻歌だって、なんだって。目に見えるものならなおさら。触れられるものなら、なおさら。
それらすべてが私から喪われちゃうなら、そのときは永遠のお別れなんだ。けれど、そんなのありっこない。全部消えちゃうなんて。
そうだよね?
「消えないわ、ずっと。ところで、莉海。そのガトーショコラは誰のため?」
「これからを生きていく私と、大好きなあの不器用な子のため」
「認めちゃうんだ、好きって」
私は肩を竦めてみせた。やれやれって。
「だってね、あの子ったらここのところずーっと上の空。私は先週からバイトに復帰したけれど、そこでも失敗してばかりなの。純玲に聞いたら、休日でも部屋に引きこもりがちだし」
「それ、理由になっている?」
「なってないか。けれど、いつ死ぬかわからないと同じ。いつ恋に落ちるかなんて決められないの。そこに必ずしも真っ当な理由があるわけでもない。時に理不尽なのも同じだね。藤堂先輩の言うとおりだと思う。私はこの好きを理屈で証明しようって思わない。根拠を並べて、条件づけて、何か導き出す必要なんてない。ううん、そんなのしたくない」
お姉ちゃんが黙って微笑む。ああ。気づいた。純玲の微笑みってお姉ちゃんに似ている。この光景は私の頭が思い描いたもので、大切な思い出でできた何にも代えがたい甘く美しいものだった。
ふわりと。
姉の姿が消える。
私が消す。時が動き出す。滲んでいく視界、へなへなとその場で膝を折った私は「さよなら」と呟いていた。
大丈夫、前に進もう。偲ぶよりも深く慕う人といる今を生きたいから。だから、このお別れは意味があるんだ。
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