第35話

 実のところ美容院もそこそこ苦手な場所だけれど、病院はもっとそうだ。法的には病院扱いされない、街角の眼科や耳鼻科、皮膚科などの診療所には基本的に死の匂いはない。産婦人科だと話は違うかな。

「生きざま」は比較的新しくできた言葉なそうで、人によっては誤用だ、誤用だと言の葉を齧ってやまない岡っ引きが如く騒ぐ。「死にざま」の類推をして生まれた語であるのだという。言葉にも生き死にがあると気づいたのはいくつの頃だったか。それらは産声を上げることもはあっても、ほとんどの場合、人知れず死ぬ。

 夏の終わりに、古典が得意な純玲に現代人たる私たちが古典を勉強する意義を訊ねた覚えがある。「いとおかし」と返ってきた。彼女の見解が国家の教育方針と一致しないのを願うが、一理ある答えだとも思った。

 さて、大きな病院を訪れた最後の記憶というのが四年も前なのは恵まれているとみなしていいのだろうか。

 その四年前というのも患者としてではなかった。思えば、物心ついていからほとんど通院というのをしたことがない。風邪を代表に、自宅療養で完治する程度の病気や怪我で済んでいた。予防接種の賜物というのもある気がする。いずれにしても、中学生になってからの私にとって病院という施設は縁遠い存在だった。家の近くに総合病院はなく、強いていうなら小ぢんまりとして名前が難読の歯科医院があるぐらい。ああいった名前のルーツは古典の世界にあるのかもしれない。


 閑話休題、階段での転落から一夜明けて。混沌とした夢からの覚醒。


 清潔ではあるが、ふかふかと言い難いベッドに私はいた。看護師の不手際か同じ病室にいる誰かのせいなのか、中途半端に閉められたブラインドの隙間から暁の光が差し込み、ちょうどこちらを照らしたものだから、七時前には起きることとなった。冬はつとめてなんて大嘘だ。クラスメイトの多くが真冬でも六時台に起きていると聞いて仰天した私だ。鈍い痛みが全身のあちこちに走って、寝ぼけまなこであった私は否応なしに、自分の置かれた状況を再認識する。


 私が手術台に上がることはなかった。骨折を伴わない全身打撲。その中でも軽度であり、全治一週間との診断だった。入院期間も長くて一週間見込み。通院に切り替えるかは回復しだいだそうで、適切な処置をして安静にしていれば退院時にはかなり痛みと腫れが治まっているとのことだった。そして完治にはもう一週間かかると言われ、ようするに半月はこの怪我と付き合わないといけない。

 運がよかった、と言われた。そうですねとは返しづらい。たしかに打ちどころが悪ければ、とくに頭を強く打ち付けていたら大事になっていただろうから、頭にたんこぶ一つないのは落ち方がよかったといっていいのだが。

 

 場所は学校から車で二十分の市民病院だ。救急車でそこに向かったときはより短時間であったのかなと思う。全身を打ち付けた痛みで一時的に失われた意識は救急車が来る前に取り戻され、そこから搬送されるまでの記憶は継続する鮮烈な痛みのせいで不鮮明だ。ゆえに次のまともな記憶は病室のベッドで横たわる自分へと飛ぶ。注射を刺された覚えもあるのだが、二日目以降の鎮痛剤は湿布薬と内服薬であった。


 面会時間が始まってすぐの十四時過ぎに、三嶋家の四人が見舞いの品を持って、大変湿っぽい顔をして私を訪ねにきた。

 純玲は制服なのに芹香はそうでないのは、察するに登校していなかったのだろう。初めて出会った三嶋父は会社勤めの人らしく、早退してきたのか、それともこの僅かな時間だけ休憩として処理しているのか、ともかくスーツ姿だった。対してクリスマスのときに挨拶を済ませている三嶋母は私服。

 私の両親は居合わせていなかった。まずそのことを三嶋父がおずおずと確認してきた。昨夜のうちに帰ってもらいましたと応じる。手術不要、命に別状はなく、念のため脳の状態も検査済みで目に見える問題はないとされており、長居してもらうのがかえって気の毒だったのだ。そしてこのことは三嶋家族にも言える。

 つまり、ぞろぞろと一家総出で来て、長くいられても困る。


「明確にしておかないといけません」


 完治にかかる日数を教えたあとで、私は重々しい空気に負けて、あたかもそれに従った調子で話し始めた。


「今回の怪我の原因、そして責任は芹香さんにないと私は思っています」


 誓って言うが、善人ぶりたかったのではない。

 三嶋父母の表情は安心と不安が混在していた。さっきまでは前者が微塵もなかったのだから、これは充分な変化である。とはいえ、「まぁ、そうだったの!」と三嶋母は口にしなかったし、三嶋父が三嶋母に抱き着いて「ああっ、よかった!」とも言わなかった。それはそうか。こんなものか。わからない。こういう場面に慣れていない。慣れている人間がいるとすれば、怪我の具合や症状を説明する医師、もしくは弁護士かな。


「純玲さんと芹香さんと三人でお話がしたいのですが」


 恭しく私は三嶋母を見据えてそう頼んだ。自分でも、どことなく慇懃無礼な振る舞いになっているよう思われた。厳かに、有無を言わさぬ声色で話していた。十六歳の少女らしく、いや、彼女たちの友達として振る舞えばいいはずなのに。

 私の要求をのんでくれて、三嶋父母は病室を出ていった。その前に両親の連絡先をうかがってきたので、自宅の固定電話の番号を教え、いるはずの時間帯も伝えた。その電話がほとんど置物になっているとは言わなかった。


「ねぇ、莉海」


 三人になった途端に、純玲が口を開いた。いつもの冗談を言う雰囲気ではない。青ざめた顔をしている。昨夜あまり眠れていないのが一目瞭然だった。


「嘘じゃないよ」


 私は純玲が訊きたがっていることを先回りしてそう言ってのけた。


「こうして家族みんなで来たってことは、芹香がどんなふうに説明したのかはなんとなく察しがつくよ。なんとなく、ね。もう一度、うん、もう一度だけ言うけれど、芹香は悪くない。私がドジだったの。それですべて。ほら、純玲……笑って」


 私がそう求めても、純玲は険しい表情を崩さなかった。

 芹香は……ずっと俯き気味で、その目は私と合わない。私は私で彼女を直視できずに、ちらりちらりと窺うのみ。


「さっき言ったし、見てのとおり重傷ではないよ。喜んでよ、純玲。『全身包帯グルグル巻きのミイラみたいなのを想像していたわ』って笑って。『首から上にかけてはまったく怪我ってないわね、ああ、こんなときでもお肌のケアを怠ってはいけないわよ?』とでも冗談言ってくれないと。じゃないと、心底気が滅入っちゃう」

「ごめん、莉海。それは無理そう」


 純玲はベッドの脇にあるスツールにふらっと腰掛け、そして震える手で私の頬に触れた。私はされるがままにしていた。


「心配したのよ……! ほんとうに……だって、階段から転げ落ちたって……私、莉海がもしも、もしもっ、こんなふうにおしゃべりできなくなったら……私は……」


 泣き出してしまった。

 私は立ち尽くす芹香を一瞥し、そして今日はもう見ないと決めた。そうするべきでないとわかっていた。私が、私こそが芹香に優しい言葉をかけないといけないって。でもそれができなかった。純玲をこの場に残したのは後悔していない。もし芹香と二人きりにしてほしいと頼んでも、純玲はきっと拒んだ。言い続ければ、三嶋父母に諭され、連れて行かれたかもしれない。

 

 芹香と二人きりになっても、今はうまく話せそうにない。

 結局は、そういうことだったのだ。


「忘れないうちに純玲に頼みたいことがあるの」


 頬に当てられたその手をとって、私は言う。純玲は涙声で「なに?」と聞き返す。私は三つ、彼女に頼んだ。

 

 一つは主に私の部屋から必要なものを持ってきてほしいということ。親にも頼みはしたが、日常的に親密な会話をしているわけでない間柄にあるので――――こうした婉曲表現に、純玲は涙を拭いながら訝しんだが、敢えて深くは訊いてこなかった――――力を借りたいと話した。「任せて」と彼女は応えた。そうして二人で話し合って着替え等の生活用品に加えて娯楽用品もメモした。

 それから学校の勉強について。後でノートを写させてほしいから、丁寧にノートをとってほしいというのも頼んだ。このときになると、純玲の表情に柔らかさが戻ってきており「わかったわ」と力強く肯いてくれた。涙を流す効能ってあるんだな。

 最後に、バイトに関して。


「私は二週間はシフトに入れないから。純玲は要領がいいし、即戦力とまではいかなくても……」

「そんなの心配しなくていい」


 その時初めて芹香が口を挟んだ。


「そんなのって。言い方ってものがあるでしょ。莉海は真面目でいい子だから、こんな時までバイト先に迷惑がかかるのを心配しているんじゃないの。それをあんたは!」


 純玲が芹香に食って掛かる。


「じゃあ、また甘えていい? 私の分もがむしゃらに働いてくれる?」

 

 私の言葉に芹香がこくりと肯く。

 軽くなりはじめた空気がまた重くなっていくのを感じる。

 

「四つ目、いいかな」

「もちろん。なんでも言って」

「姉妹仲良く過ごしてね」

「えっ?」


 私のお願いに純玲はしばらく何も言わず私と、そしてやはり立ち尽くしたままの妹を交互に見た。


「ええ、そうする。たった一人の大切な妹だから」

「ありがとう」

「莉海が感謝するところじゃないわ」

「そうかな」

「そうよ」

「あのね、純玲」

「なに?」

「大好きだよ。あなたが友達となれてよかった」


 虚をつかれた面持ちをした純玲がまたその瞳に涙を溜めたそして彼女が私を抱きしめる。優しく。怪我に差し障りがないように。でも、痛い。痛み止めの処置がされているといっても、昨日の今日だ。この痛みを覚えておこうと思った。姉妹からの贈り物だとするには、ロマンの欠片もないけれど。


「私もよ、莉海。大好き。私の親友……!」


 そうして私は痛みの残る身体でどうにか純玲を抱きしめ返して、ゆっくりと時間をかけてその麗しい黒髪を手で梳いた。彼女が泣き止むまでずっとそうしていた。ドラマのワンシーンみたいだなって。


 


 翌日の午後五時過ぎ。

 荷物を持ってきてくれた純玲の顔は空模様と同じく曇っていた。

 晴れていても病室から望める景色はつまらないものだ。自分のベッドから時間をかけて身体を起こして、立ち上がり眺めに行ったのをひどく後悔したぐらいに。ただの四階からの街並み。壁に伝う蔦の葉といったものもない。


「莉海、あなたに謝らないといけないことがあるわ」


 荷物を一つずつ確認していき、それを所定の位置に収めた後、純玲がそう切り出した。母に代わって純玲が率先してまとめてくれて、ここまで運んでくれた。時間からすると部活に参加していないのは間違いない。


「心当たりないなぁ」

「当然ね。私が勝手に知ってしまったことだもの」

「もしかして家族のこと? それでどうして純玲が謝るの?」

「莉海自身から聞いたことってなかったから。おばさまが教えてくれたの。あなたの部屋で写真立てをまた眺めてしまっていた私に」

「隠していたわけじゃないよ。ええと、つまり積極的に話す内容ではないってだけ。私はそれを私の重大な秘密であったり、弱味であったりとは思っていない」

「そう、なのね」

「うん。だから、そんな顔しないで。純玲は笑っていたほうが綺麗だよ」

「あら、そんな口説き文句を言うなんて。……わかった、謝るのはやめる。でもね、莉海。こんなことをこんなタイミングで私から言うのも変だけれど……」

「あの人から何か頼まれた?」

「あの人って言わないで」


 笑ってほしいのに、純玲はいっそうつらそうな顔をする。


「頼まれたわけじゃないわ。ただ、莉海はまだおばさまのことを直接『お母さん』と一度も呼んだことがないんでしょう?」

 

 私は黙った。

 もし仮に「だってお母さんじゃないから。それにあの人もお父さんじゃない」と返したら、この子はどう返すのだろう。唇を噛みしめて謝ってきそうだ。それはきっと、芹香とは違う反応。

 芹香だったら……。


「そういえば、純玲たちの誕生日っていつだっけ」

「え? 四月六日だけれど?」

「奇遇だよね。私が独りになったのもその日なの」

 

 純玲の顔を見て、ああ、言わなきゃよかったと私は思った。

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