第34話
願掛けらしい。
藤堂先輩によれば、我が校の弓道部に続く伝統であるそうだ。一月下旬から二月上旬の間でどこか、天気のいい日に集まって行われる。受験生たちが試験で存分に己の力を発揮できるよう、一人でも多く志望校に合格できるようにと願って、現一・二年生が的に矢を射るのだとか。総数五十九。「合格」を無理矢理にもじっている。
この催し物の知名度は校内で低い。広報誌に掲載しない部類のものだ。曰く、その起源は四半世紀前にあるとのことで、伝統と呼ぶにはやや浅め。
もともと、大学入試センター試験で失敗して第一志望校の合否判定で最下位判定を受けた、時の弓道部員が私立入試を前に弓道場に足を運び朝から夜まで幾百の矢を放ち続けた―――矢の数については諸説ある。いや、ぜったい何百本もないでしょ。むしろ一本で締めるべきなのでは――――逸話に起因する。
めでたく彼あるいは彼女は逆転合格に成功したらしい。以来、弓道部員たちを中心に毎年行っているそうである。いつからか、当の受験生はその場に訪れずに彼らを応援する二年生以下の部員が射るのが主流となった。また、部員以外も立ち合いを許しており、これについては部員の友人や恋人が野次馬として見に来たのが始まりなのだと専ら噂されている。OG・OBの訪問も前例があるという。
「その日は平日だけれど、正装でしてくれるんだって」
藤堂先輩がにこにこして言う。弓道着はアイドル衣装ではないと思うし、たかだか一介の高校生たちが着る事実にそんなに興奮しなくても。
「ここまでの話、友達の弓道部員の子に聞いたんだけど、昔だったらきちんとした和服を着こんで臨んだ人もいたみたいよー。先生の中で五段だか六段だかの人がいて……」
なんだっけ。
和服を着るのは基本的には何段以上って決まっているんだっけ。
以前に芹香がバイトの休憩のときに級位・段位について簡単に教えてくれた。私たちの高校の弓道部では二段をとれる生徒はまずいなくて、中には初段もとらずに卒業する人もちらほらいるのだとか。近隣で弓道部がある中学校がないので、校外で取り組んできた人や引っ越してきた人でもなければ、高校生から弓道部を始めるというのは私も知っていた。
「それでね、あたしのお兄ちゃんが受験生なんだけれど、共通テストでやらかしちゃったんだよねー」
「笑いごとじゃないような」
「まあね。第一志望と第二志望はどちらとも国公立で似たり寄ったりなところ。安全を期して第二志望にするかどうかを検討中なんだ。もう出願期間中」
その年子の兄は他校に通っているのだという。先輩も妹だったのか。妹系だとは思っていたけれども。
「妹のあたしとしては家族間の空気を考慮すると、うまくいってもらうに越したことないんだ。というわけで、神頼みならぬ弓頼みに行っておこうかなーと」
「けれど、私には受験生の知り合いっていません。のこのこと同行してもいいんでしょうか」
「いいんじゃない? 気晴らしだと思って。どうせなら打たせてもらえば?」
「バッティングセンターじゃないんですよ。ド素人がすぐに弓を引くことってできないそうですし」
「そうなの?」
「まずは作法、いえ、射法を身につけないといけないって」
「言われてみればそんなこと話していたような。あれ、ひょっとして莉海ちゃんも友達に弓道部員がいるの?」
「ええ、まぁ」
「ちょうどいいね。その子が受験生を応援するところを応援しに行くって名目で入場すれば。でも、そっかぁー、打たせてもらえないのかー」
残念がる先輩であったが、私が彼女と連れ立って弓道場に足を運ぶのは決まりらしい。無論、先輩なりの励ましであり厚意であるのは察している。
気晴らし、か。まさか私の煩悶の元凶たる少女がそこにいると先輩は推し量っていないに違いない。
芹香、願掛けについては話してくれていなかったな。参加しないのかな。クリスマスに呼ぼうととしていた弓道部の先輩って二年生だったよね。親しい三年生がいなくて、強制参加でないのなら、あの子は参加しないのかも。
翌日、快晴。時刻は午後四時半。
しんとした弓道場には弓道着姿の部員たちが八名。うち女子五名。そして私と先輩を含めて観覧者が四名。加えて、顧問の教師も同席している。芹香がその指導について、熱心ではないが怪我対策だけはきっちりしていると評した人だ。皮肉かな?
それはそうと。
芹香は参加していた。
眼鏡をかけていない。サイドテールをポニーテールにまとめなおしている。正座している彼女の目に私が映っていない様子なのがよかった。
本当によかった。
この顔、あの子には見せられない。きっとわかってしまう。あの日、あの時、純玲への想いを私の表情と振る舞いに読み取った彼女なら。
「莉海ちゃんの好きな人、わかっちゃったかも」
藤堂先輩が耳元で囁く。悪気なく。私の熱くなった顔が悪いからといって、でも言ってほしくなかった。聞きたくない言葉だった。ど突いて、一人で帰ってやろうかと思った。嘘だ。そんなとってつけた怒りは、まさに後になってとってつけただけ。そのときの私は先輩の囁きなんてのは流していた。
弓道着姿で座る芹香に見蕩れていたのだ。心を奪われた。
後ろ姿に近いというのに。はっきりと正面から見てはいないのに。まだ弓を射る動作に入っていないのに。いくら、どれだけ逆接表現を並べたところでどうしようもない。
黒髪、白い上衣、黒い袴。映えるコントラスト。既に胸当てもつけていた。眼鏡もかけていなさいよ、だらしなく横に髪を流していなさいよと不条理になじってしまう。彼女がそうしていたのならこんなにも心を絆されなかったのかなって。
凛とした香りに惑う。
そんなのするわけない。たとえしたとしても、ここまで漂ってくるなんてありえない。手が届かない距離に彼女がいるのがもどかしい。するはずのない香りが私に彼女をこれまでになく強く想わせる。
こっち向きなさいよ。
ほんの数秒前までと真逆の願いを真剣にしてしまう。
私を見なさいよ。その凛々しい面持ちに触れたい。口づけたのがもはや遠い日に思えるあの頬をそっと撫でてあげ、その澄んだ瞳に哀れな私を映してほしくなる。
すると叶った。
偶然だとわかっていても、芹香が私のほうへと振り向いたのだ。その瞬間、想いが弾けて熱がこもった涙が溢れそうになった。しかし俯いてはならない。零れてしまうから。この想いごと。そうしたらもう取り返しがつかなくなる。
だから、俯かずに見つめた。見つめ返した。芹香が確かに私をここに認めてその眼差しを送ってきたのだから。はじめ彼女の顔には驚きがあり、それから別の何かに変わる。切なげな目つき。この邂逅を喜びも悲しみもしているふうだ。
ぶつかる視線。こちらから逸らしてはダメだと思った。
逸らしてしまえば、ここにいない「彼女」ではなく、ここにいる彼女への想いを違わぬものだと、この身に刻まなければなるまい。
射抜かれてなるものかと私は見つめる。
逸らしたのは彼女が先だった。しかしそれは彼女が射る番が来たから。すっくと立ち上がり、その強かな美しさを保ったまま射法へと入る。
その場全体が凪ぐのを肌で感じた。
すべてが無音のまま、芹香が放った矢は離れた的の端に中った。的の上を北にするなら、西南西の端。香りが強まった気がした。が、直後に霧散する。幻であったのを私にとくと知らせるよう。
彼女の残心を眺めた。
一輪の花。
お菓子に喩えられない。そうするには頭の天辺から足のつま先まで、彼女は神秘的な美しさを纏っていた。それは決して触れられずに、ましてや口にできないと思い知った。それにもかかわらず、思い出されたのは彼女からの口づけ。
頭ではわかっていた。
馬鹿馬鹿しい。同い年の女の子を形容するのに、どれもが大げさで、誇張なんだって。それではまるで私が彼女に、彼女のことを、彼女が…………。
「莉海ちゃんっ!?」
後ろからそう聞こえた。藤堂先輩の声。
私は駆け出していた。弓道場の外へ。ちがう。あの子の元へ。今日は演劇部がある日だ。部室。そこにいてくれるはずなんだ。でも、何をどう伝えればいいんだろう。わからない。会ってどうする。どうなる。
春にあの子の重さを知って、その微笑みに惹かれて、少し遅れて友達になった。それから夏と秋を過ごして、あの冬の日、恋だと気づかされた。
純玲。愛しい名前。彼女に恋焦がれ続けるのだと信じていた。終わるとすれば、彼女が私を拒むのが閉幕の合図なのだと。終止符を打つ資格は彼女にあり、私にはないのだと。彼女に恋人ができたとき、それは打たれなかった。心はまだ、確かに彼女にあった。
思い浮かぶ顔がある。
二つ。
いや、三つ―――――あの日、純玲に見たあの顔も。今や追憶にしか存在し得ないもの。
走って、走って、それはあたかも中学生の自分に舞い戻った感覚だった。影から逃れようと必死になる。
校舎内。演劇部の部室にたどり着く前に、息苦しさがピークに到達して、廊下に前のめりに倒れてしまった。心臓が持たない。バクバクと。空気がひどく薄く感じる。
それからやっと、靴を弓道場に置きっぱなしなのに気がついた。
地面を蹴ったことで早い段階でソックスの裏側に、土や砂がある程度付着してくれたのが、かえってすべり止めとなったのかな。廊下でつるりと転倒せずに、器用にここまで駆けてきた。
受験生の合格を願う催し物なのだから、滑らなくてよかった。
そんなふうに考える余裕が出てきたのは、人気のない廊下に独りで突っ伏してぜぇぜぇと喘ぎはじめてから数分してだった。視界が滲む。自分の情けなさにとうとう涙が出てきてしまった。
誰も私を助けに来ない。独り舞台。猛スピードで弓道場を飛び出して校舎内でぶっ倒れている一年女子。妖怪の類ではないか。涙を拭うと今度は笑いがこみあげてきた。でも、うまく笑えない。
さらに数分を経て、身体が落ち着く。汗で冷えていく身体に震える。汚れたソックスを脱ぐか悩んで、素足にこの時期の廊下は冷たすぎると思ってやめておく。ここ何日か晴れであったから、臭い泥まみれではないのが救いか。
目指すか、引き返すか。
選択しなければならない。こんな格好だ。髪も服も、そして心乱れて、純玲と会って何を話すというのだろう。純玲は優しい。その優しさをやんわりと拒んだ私が、今このときにおいて、それに甘えるのは友達といえども容易くない。しかも私の心中にあるのは友情とは別の感情なのだから。
そうだ。純玲が好きだ。愛している。あんな形であろうと、あの子とのファーストキスを忘れられはしない。その炎がこの身から消えたとは思えない。
それでいてなお、あの香りにも囚われている。香り。名は体を現すというが、なるほど、香りがあの不器用な妹君の武器であったか。純玲ならどう表現するだろう。それとも恋を知らないあの子では決して感じ取れない香りなのか。
嫌な奴。あいつが悪い。私が悪いんじゃない。
そうであってよ、お願いだから。
「あいつが……キスなんてするから。あいつが、あんなに綺麗で、凛々しい姿で射るから。馬鹿……芹香の、馬鹿」
ふらふらになりながら、廊下を歩いた。
階段。降りれば、玄関。そこから出て弓道場に何食わぬ顔で戻って靴を履き、そして帰る。何事もなかったように。藤堂先輩と知り合いでないように振る舞いでもして。昇れば、演劇部室が近づく。まだ少し遠いが、近づく。そこには何も知らない純玲がいる。器用な姉君。
「嘘…………」
降りもせず、昇りもせずにいた私の視野に彼女が入り込み、つい呟く。同じ階の廊下を歩いてくる。ゆっくりと滑らないよう。その白足袋に合う履物はなかったのか。
「なんで、ここにいるの!」
私の叫びは響かずに壁や床に吸い込まれた。どうして他に誰もいないんだ。
芹香がすぐ目の前まできた。静かに怒っているのが伝わってくる。私を心配して探しにきた表情ではない。
「あの場所に来てほしくなかった」
「っ! さ、最初に言うのがそれなの」
声が普段通りに出ない。怖い。今、彼女に近づかれるのが。触れられてしまうのが。同時にそれを望む自分もいるのが何より嫌で嫌で嫌で、でもなす術がない。
「弓道場はね、私に残されたいわば聖域だったの」
「聖域?」
「そう。笑いたければ笑いなさいよ。でもね、あそこでは考えずにいられた。純玲への想い、それから最近は……あんたのことも。ねぇ、わかる?」
芹香はその瞳で私の瞳を覗き込む。息が詰まる。何も言えない。
「私ね、純玲に恋してそれからしばらくは一卵性双生児であったらよかったのに、もっともっと純玲と同じがいいって思っていたわ」
「どういう意味?」
芹香と少し距離をとって私はそう返すことができた。
「中三のときかな、それじゃこの想いは叶わないって気づかされた。たとえどんなに私が純玲に近づいても純玲にはなれないし、純玲が純玲自身を求めるかというと、そうではないものね。むしろ、あの子はあの子自身から遠ざかろうとしている気配さえある。……私たちって目元、そっくりでしょ? それを鏡で見るのが嫌になったのよね。純玲と同じではダメなんだって。強迫観念に近い」
「だから、伊達眼鏡を?」
「そう」
「髪型も?」
シンメトリーのカール。アシンメトリーのサイドテール。
芹香は肯くと微笑んだ。かと思ったら、その微笑みは失せる。
「約束して。二度と弓道場には来ないって」
「そんなことを言いに、ここまで来たの?」
今度は私から近づくと、芹香の表情が歪んだ。隠しきれない動揺。
「約束する。代わりに、答えて。逃げないで」
芹香に言っているのか私自身に言っているのか定かでなかったが、ここで決着をつける覚悟ができた。意図せず彼女の聖域を侵した私は裁きを自ら下す。
「芹香、私にここでキスできる? したいって思う?」
私は彼女の手をとった。
細い指先。純玲と似ていると最初は思った。でもバイトしている間に動かしたり、本の頁をめくったり、そして弓に矢を番って射たりするそれを見ていると違うのだとわかった。そうだ、純玲の指とは違う。芹香の指だ。その色白でほっそりとした様は官能的だった。それらに触れる。繋がれる手。あの公園ではそれまでだった。
「芹香は私のことを――――」
指を絡めようとした。しかし未遂に終わる。
芹香が私の手を払いのける。勢いよく。その顔に浮かんでいたのは怒りではない。差した茜色は怒気ではなく、私は安堵する。
けれど。
芹香の顔が遠くなる。物理的に。
落ちている?
私の手を芹香が払いのけた拍子に、私は足を滑らせたのだった。そして傍には階段があった。昇り階段と降り階段。どうして、私は降りの近くにいたのだろう。弓道場へと行くことに決めかかっていたのだろうか。そこに行って、本当はただ靴を取るだけではなく、そこにいるはずの芹香に、この想いを伝えようと……。
転げ落ち、強い痛みに襲われる。
これが罰か。
急速に淀み、途絶える意識が最後に耳にしたのは芹香の叫び声だった。必死に「莉海」と何度も呼んでいた。馬鹿、どうせなら甘く囁きなさいよ――――。
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