第33話

 火曜日は大事をとって一日休むことにした。

 純玲は「お見舞いに行こうか?」とメッセージを送ってくれたが、病み上がりの芹香が私のいない分までバイト先であくせくと働いているのだから、甘えるわけにいかなかった。それは建前であり、本音としては昨日よりも遥かにはっきりと意識で、純玲と自分の部屋で二人きりになるのは怖かった。諸々を吐きだしてしまいそうで。

 いっそそうしたほうがいいんじゃない? そう勧める自分もいる。あの日、勉強会の帰り道に芹香に恋心を指摘されて自覚してから二カ月。私は何歩、前に進んだ? むしろ絶えず前後不覚の心地だ。そこに芹香からのキスまで加わって、もはや朦朧とする恋路であった。

 

 純玲は芹香だけではなく私の悩みも気にかけてくれている。

 原稿用紙一枚ちょっとの手紙に、彼女からの親愛をひしひしと感じて胸が締め付けられた。天井を見上げて純玲との日々を思い出せば、そこに芹香もひょっこり現れて、あのツンツンとした口調がなんだか少し恋しくさえなった自分の額に手をやり、熱があるせいなんだと自ら諭す。


 水曜日の朝。

 すっかり体調が回復した私はいつもより一本早い電車で、学校に向かった。寒いのに早く起きるのは予想以上につらかったが、怠惰な身に鞭を打った。教室に入ると、純玲がすぐに近寄ってきてくれて、私の顔をまじまじと見つめてきた。それから「うん。もう大丈夫みたいね。よかった」と微笑みかけてくるものだから、ああ、もうこのまま今朝の時間を全部、純玲と過ごしてしまおうかとくじけそうになった。隣の教室にいる芹香に直接、バイトのことで謝罪と感謝を伝えておこうと考えて、早く来たというのに。こういうのはなるべく早く済ませておかないと。


「芹香と話してくるね。バイトで迷惑かけた件で」


 自分の席に荷物をおろして、純玲に改めてお礼をしてからそう口にした。


「ついていこうか? コバンザメみたいに」

「ううん、大丈夫。純玲がいたら遠慮して、いつものトゲトゲとした言葉が聞けないかなって」

「そんなの聞きたいの? 莉海ってば変わっている」

「ハリネズミの針ってね、普段は寝ているから触れても痛くないんだって」

「こらこら、人の妹をハリネズミ扱いするものではないわよ。あれ? 前に私が喩えたのだっけ。とにかくそれなら針を立たせぬうちに帰ってくることね」


 ふふふと品よく笑う純玲を残して、私は隣の教室へ。

 思ったよりまだ人が来ていないのが幸いだ。知り合いはとくにいないので、ずかずかと入っていくと窓際で文庫本を読んでいる芹香の隣に立った。机上、ペンケースの下に押し花の栞。律儀に学校でも使っているんだ。誰かから訊かれたらどう答えるんだろう。近所のお花好きのおばあちゃんに貰ったの、なんて説明していないよね?


「教室、間違えているわよ」


 芹香、と声をかけようとした矢先、彼女はちらりと私を見やり、そして視線を本に戻して言った。さっそくジャブをかましてくる。


「ごめんね、それにありがとう。バイトの件。もしも逆の立場になることがあったら、頑張るから。私じゃ代わりは務まらないかもだけれど」


 言いたいことをさっさと口にする。長居は無用。「それじゃ、またバイトで」と去ろうとしたら芹香が本を読んだまま喋り出す。


「謝るんだったら店長に。それに後半は余計」

「一方的に頼ってもいいってことかな」


 返事はなかった。代わりに、しっしと手のひらであしらってくる。

 私はぐるりと周囲を見た。誰の注目も浴びていないどころか、私という異物に気づいていないふうだった。それがあたかも私とここにいる、同じタイミングで風邪を引いた天邪鬼の二人きりの舞台に思えた。だからうっかり、これまた余計な勇気を出してしまう。勇気と呼ぶのが不適当であるのなら、気の迷いとでもすればいい。


「あっ、ムササビ」


 芹香だけに聞こえる声で、私はすぐそばの窓を指差した。「は?」と芹香は視線を窓に向けてくれた。期待したほどにはその顔の向きは変わらない。しかしそれでもその一瞬の気の緩みにつけこみ、私は彼女の頬にキスをした。

 バッと彼女が顔をこっちに向けて、片手が頬に添えられる。文庫本は机の上に倒れて、頁が閉じられた。芹香の愕然とした表情。ルージュがないだけよかったわね。


「ムササビとモモンガの違いって大きさなんだって。それじゃ」


 雑学を披露した私はくるりと彼女に背を見せて早足で教室を出る。一歩、不慣れな教室を出た途端に我にかえる。なにしているんだ、私は。刹那、振り返りたくなったがダメだと言い聞かせて歩調をさらに早めて教室に戻った。


 私なりの仕返しについて、芹香が授業間の休憩時間や昼休みに真偽を問い質すべく殴り込んでくることはなかった。もとより、そこには在るべき真も偽もなく、あるのは結果だと私は胡乱な理屈を一人でこねては、芹香のことを考えまいとした。

 そうして放課後になると、純玲が演劇部の見学に私を誘ってくる。実のところ、演劇部に入らないという意思表明は既に彼女と、それから副部長には済ませてあった。それでも彼女が誘ってくるのは一つに、文字通り部外者の存在がいい刺激になり得るというのがあり、そしてまた桐谷先輩が脚本をまだ書き上げられていないからというのがあった。


「そう言われても、桐谷先輩の力になれるとは思えないかな」


 窓の外は明るい。冬至から一カ月過ぎて、徐々に長くなる昼。純玲と二人で部室へ歩きながら私は正直に伝えた。


「こういう筋書きはどうですかって直に言わなくても、取り入れたら面白そうな要素を挙げてみるだけでもいいの。意外と進むかもしれないわ。莉海の着眼点って時々、面白いもの。私には引けない補助線が引ける」

「それは純玲が図形含めて数学全般、苦手だから」

「幾何学って字面は好きなんだけれどね」

「それこそ私にはない感覚だなぁ。……あのね、純玲」


 部室まではまだ距離がある。私の声色に何か察した純玲は「どうしたの?」と真面目なトーンで訊き返す。


「心配かけてごめんね。書き置き、嬉しかった」


 嬉しいだけではなくても、伝えたかった嬉しい気持ち。私は後を続ける、今は彼女からの優しい言葉をほしくないから。


「悩みはあるよ、もちろん。そんなの当たり前。こう見えて私だって十六歳の女の子だからね。思い悩む日々を過ごしているの。純玲にだってあるよね。学年末考査の数学を今から恐れおののいていたり、次の公演の役であったり、その他いろいろ」


 あの純玲が黙って肯いた。まだ私に話をさせてくれる。尊重してくれているのだと信じられる。その信用に寄りかかって、本心を潜めて体のいい文句を差し出す。


「相談したいなって思ったときに相談させてね。お互いに。友達だから」


 指切りはしない。

 彼女の善意を穏やかに拒んだ。 

 暗に、今はまだ話せないと彼女に示した。


「わかったわ。莉海がそう望むのならそれが一番だもの」


 純玲ならそう言ってくれるとわかっていた。

 あの日、恋を知らないと話した彼女は、恋愛感情以前に誰かの心に踏み入り過ぎないよう気を遣い続けている。もしくは怖がっているのだ、針に触れるのを。

「友人代表」と彼女が書置きに記したのを読んだ時、かつて私が自分よりも純玲と仲が良いとみなしていた女の子たちが皆、純玲に触れられずにいるのだと悟った。つまりその心に。私とて一昨日とあの聖夜の二度、その一端に触れられたに過ぎない。

 純玲の心的な距離の取り方を一つの弱さだとするのなら、溢れる冗談や空想は彼女の弱さを隠す技であり術なのかもしれない。意識的であろうとなかろうと。

 

 翻って私はどうか。そんなの考えるまでもない。純玲以上に、自分を曝け出せずにいる。それどころか揺蕩う心がいよいよ彼女以外にも熱を向けようとしている。あるいは手遅れか。それも人の道理だと達観するには長く生きていないのだった。


 純玲の頬を見やる。そこに口づけを突然したのなら。彼女はどんな顔をする。どんな顔をしたら私は満足する? 笑って許してくれるのが今は最も傷つくのかな。




 弓道部の見学に赴くことになったのは、藤堂先輩がきっかけだった。

 

 お菓子作りもせずに、ぼんやりと過ごした日曜日が明けて月曜日の放課後、園芸部員として私と先輩は敷地内を話しながら歩いていた。週に一度の決まったコースの散歩。いちおうはれっきとした活動の一貫ではあるが、そこに張りつめた空気は一切ない。ゆるくいられる。先輩が私の恋について部分的にでも知っており、それを受け止めてくれているという事情抜きでも気楽でいられた。


「莉海ちゃんさ、難しく考えすぎなんじゃないかな」


 それはあの時と同じパンジーとビオラの花壇の前に来た時の話で、私から先輩に、出会ってどれだけの時間、どういう時を過ごしたことで今付き合っている社会人女性と恋に落ちたのかを訊ねたのだった。


「というと?」

「誰かと交際に至るとなったら、これこれこういう経緯と理由があってどうこうって証明しないといけないと思っているみたい。いい? 恋愛に方程式はないんだよ!」


 花の妖精に相応しい笑顔が眩しく、私は続けて問うのを躊躇う。けれどこれは他でもなく、この先輩にしか訊けない。


「不安になりませんでしたか」

「へ?」

「ええと、その……女の人に対して恋愛感情を抱いたのを自覚したときに。いくら世間的にそういった立場の人への差別意識をなくす云々としていたって、それと当事者になるのは話がまた別じゃないですか」

「そうだねー」


 軽く。納得してくれる。肩透かしを喰らったようになるが、私は先輩なりの恋愛観を明かしてくれるのを待った。


「気づいちゃったんだよね。あんまり変わらないって」

「同性でも異性でもってことでしょうか」

「うん。いやね、そんなふうに思えるのってあたしがまだ社会を知らないひよっこだからというのは当然あるんだろうけどさー。でも、相手が異性だったら恋愛成就間違いなしなわけ? 告白成功率百パーセント? そうじゃないよね。そもそも恋愛に確率論はないの!」

「先輩、失礼なことを訊いてもいいですか」

「ど、どうぞ」


 先輩がきりっとして、小柄ながらも背筋を伸ばす。その様に私はまた躊躇う。今度はさっきと違う。言わなくてもいいことかもしれないな、とよぎる。しかし言う。


「もしも今、その人と付き合えていなかったら。好きになったはいいけれど、恋仲になれていなかったら。それでも、異性愛だったらと一ミリも恨みませんでしたか」


 先輩は私の問いかけに固まる、そう思っていた。どこか期待していた。割り切れない想いを抱えているべきで、必然なのだと。

 けれど先輩はすぐに「意地悪」と笑った。えくぼをへこませたのだ。


「莉海ちゃん、そういうところあるよね」


 嫌味っぽさのないその指摘が野茨の棘のように刺さる。


「聞きたいんだったら言おうか。思い悩むだろうね、苦しむだろうね、好きにならなきゃよかったって悔やんで、自分が『普通』じゃなのを呪っただろうねって。さぁ、これで莉海ちゃん、すっきりするの? しないよねー」

「……妙なことを訊いてすみませんでした」

「ちょ、ちょっとぉ! 怒っていない、怒っていないんだよ、あたしは!」


 そのわりにはいつもの笑顔にはない圧があった。


「あたしの結論はさっき言ったとおり。難しく考えすぎ。莉海ちゃんからしたら、あたしや他の人たちは楽観的なのかなー。でもね、肩肘張り続けていたらそのうち力の抜き方を忘れちゃう。人を好きになるのも嫌いにもなるのも一瞬だってあたし思う。千年でも万年でも終わらない恋をそれ相応の根拠と枝葉となる思い出で育てたいってのはゴーマンだよ、ゴーマン。これ、ガーデニング恋愛論ね!」


 理論はあるのか。ううん、今はそこじゃない。

 本当に先輩にとっては異性・同性関係ないんだな。こうなってくると先輩が両性愛者ないし他の性的志向の持ち主であっても不思議でないし、それが特別だとも思わない。彼女が楽観主義者で、私が悲観主義者であるという構図をとってみたところで何も解決しなかった。私ができるのは彼女を見倣って、自分の恋をありのまま受容することである。こんなふうに説明したら、きっと先輩はまた「小難しいなー」って笑う。笑ってくれる、明るく。それはありがたいことだ。


「ありがとうございます、先輩」

「苦しゅうないよ、後輩ちゃん。ところで明日の放課後って空いている?」

「え? は、はい」


 どこかいっしょに寄り道でもしようというお誘いだろうか。でも、今までただの一回もそういうことってなかった。それが藤堂先輩との距離感。


「よかったー。それじゃ、弓道場に行ってみない?」


 花を生けにでもいくのかなとその時は思っていた。

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