第32話

 密室トリックなんて思いつかない。オートロックだったらなぁ。

 純玲が同行してくれて自分の家まで無事に辿り着けたはいいが、熱がさらに高くなっているのか、意識が曖昧になってきている。そうして純玲が自然に家の内側に入るのを拒めなかった。

 とんだ送り狼、可愛い狼さん、いや、なんの話だ。そうだ、鍵。純玲がこのまま部屋に上がって、私を寝かしつけてくれて、それでいざ帰るときに困るのは戸締りだ。オートロックじゃない。家の鍵を一時的に預ける。それが現実的かな。

 そうだ、郵便受け。うちのは自立したポストタイプのやつではないから、家を出てもらって、鍵をそこから入れてもらえばそれでいいんだ。帰ってきた家族が回収する。万事、オーケー。

 ふらふらと、自分の部屋へ純玲に肩を貸してもらって向かう間、私はそんなことを頭に巡らしていた。些末なことだ。なんだったら少しの間ぐらい鍵をかけずにいたからといって不審者なり強盗なりがこの家を狙ってくるとは思えない。どれだけ不運なんだ、それは。


「可愛い部屋ね」


 純玲の声が聞こえる。頭がガンガンとするけれど、その声は届く。待って。もしかして幻聴? 小汚い部屋ねって言ったのを都合よく聞き間違えた?


「着替えないとね」

「ひとりで、できるから」

「時間をかければそうかもしれない。でも、それだと倒れてしまうほうがきっと早い。今の莉海、それぐらいしんどそうな顔しているもの」

「ごめんね」

「いいわ。弱っている莉海もなかなかキュートよ。……えっと、さすがにこの状況で軽口叩いていられないわね。ほら、脱がすわよ」


 されるがままだった。

 着替えが部屋のどこにどうあるか指示するはいいけれど、純玲に部屋着や肌着を手に取られ、しかもその装着を手伝われるというのには、幻覚であってほしいと願う程度に羞恥が身を焦がした。

 熱が出ているからいくら赤面しても何も変に思われないのが幸い、そんな馬鹿げたことを真剣に考えた私だった。

 

 それにただ着替えるだけではなく、彼女はタオルで身体を拭いた。つつがなく、滞りなく、なんの躊躇いなく。帰ってきたばかりの自室は暖房をつけてもすぐには暖まらず、寒かった。私の胸の先っぽが硬くなってしまったのはその寒さが、あるいは体調不良が原因だ。生理的反応であり現象。そう言い聞かせた。純玲にタオルで汗ばんだ胸元を優しく拭かれた時に羞恥心は爆発しそうになった。下腹部のあたりはいくら純玲でも拭こうとせず、私に任せてくれた。


「芹香も、こうらって拭いれあげるの?」


 あの子も風邪を引いている真っ最中のはずだ。帰ったら、純玲はあの子の世話もこうしてするのだろうか。それを今まで何度もしてきたのだろうか。


「舌回ってないじゃない。あの子のちゃんとした看病は、そうね、小学校高学年が最後かしらね。ここ数年は身体を拭くってしていないわ。お風呂だって一緒に入るの嫌がれる」

「純玲はいっしょに入りたいの?」

「うーん……改めて聞かれると、そうでもないってのが答えね。ただ、クリスマスにバスソルトをあの子から貰って、年末にせっかくだから裸の付き合いもいいでしょって誘ったら『イヤ』って一言で却下されたの。ちょっぴり傷ついたわ。お互い見られて困る身体でもないはずなのにね」


 純玲と芹香の裸の付き合い。ダメだ。それは想像していいものじゃない。二人揃って私と比べて綺麗な肌で、出ているところ出ているし、引き締まるべき部位は引き締まっているのはずるくて、それに妬みや憧れとは別の感情がふつふつと自分の内側から湧いてしまう。


 純玲は私を着替えさせ、ベッドに寝かせるといくつかの質問をした。

 常備しているのであれば風邪薬がある場所。補給すべき水分を得られる場所。脱いだ衣服のうちで洗うべきものを置くべき場所。幸い、間取りが複雑でないから説明は口頭で充分にできた。


「それじゃあ、探してくるわ。眠いのであれば眠っていていいから」

「でも……それじゃあ、薬や水は……」

「それもそうね。口移しで飲ましましょうか?」

 

 あっさりと。冗談なのか本気なのか。どっちにしても傷つく。

 黙った私に、純玲は申し訳なさそうな顔をする。そして私の前髪をあげ、そっと額を撫でた。


「ごめんね、こんな時まで。少しだけ起きていて。すぐにお薬もってくる」

「ありがと」

「どういたしまして」


 独りになる。

 私の傍を離れる彼女の袖を掴む暇は一切なかった。そうか、ああいう引きとめ方も漫画だけなんだなって。それに引きとめたって「大丈夫、寝付くまでは帰らないわよ」とでも言って薬を探したり、脱いだ衣服の処理を優先するだろうな。現実ってそうだ。入ったばかりの布団は冷たい。見上げた天井は無慈悲に遠い。横向きになる。それでも照明が眩しい。目を閉じる。浮かんだのはあの子の顔。

 

 芹香――――。この風邪、あんたのせいなんだからね。キスなんてしてくるから。

 

 でも……。

 今こうしている間に芹香が彼女の部屋で寝込んでいるとしたらと思うと、心が痛んだ。本来なら大好きな姉は早めに帰宅してくれるはずだったのに。風邪引きの友達と駅で遭遇したことで、そいつを家まで送らないといけなくなった。それから成り行きで部屋まで上がって看病までしようとしている始末だ。


 私は右手を伸ばす。ベッドの外へ。純玲がすぐ脇に置いたスクールバッグに。届かない。指先が届くまで身を動かす。落ちてしまぬわように。そしてバッグからスマホを取り出した。新着メッセージはない。私は自分の部屋の出入り口をちらりと見た。そこから純玲が再び現れるまであとどれだけの時間があるか定かでない。一分かもしれないし、五分かかるかもしれない。


 私は仰向けになって深呼吸をして、それからまた横向きになると後先考えずに、電話をかけた。芹香に。あの子が元気でいてくれたら気持ちが休まるのだから。

 五回目のコール音の途中で切れて「もしもし」と声が聞こえる。耳にあてずに耳元に置いての通話。私はたった四音では彼女の体調の良し悪しがわからなかった。


「砂埜です」

「知っている。登録済みだって。なによ」

「元気?」


 少し間があった。溜息が聞こえる。


「純玲から聞いたのね。問題ないわ。朝から二時間前ぐらいまでずっと寝たきりだったけれど、それでもうずいぶんよくなった。もしバイトがあっても出勤できたと思うわ。純玲が許してくれたかは別としてね。まぁ、そんなたらればはいい。ねぇ、聞いている?」

「うん」

「用件は安否確認のみ? じゃあ、切るわよ」

「待って」

「……なに」

「どうしてそんな平然としていられるの」


 言おうとした台詞と別の台詞が口から出た。間違った台本を知らず知らずに持っていたような。純玲の帰りが遅れるのを伝えるつもりだったのに。


 さっきより長い間が空く。

 私は耳をすます。


「直接見えていないからじゃない?」

「そっか」

「そうよ」

「ごめん。今、純玲借りているの」


 切られないために、私は今度こそ言う。芹香の答え、やっぱり全然納得できない。


「寄り道中ってこと? なるほどね、それで後ろめたくて電話してきたんだ。相変わらずあんたは……」

「とりあえずそういうことで。じゃ、またバイトで」

「うん? 待ちなさい。ねぇ、あんた声がなんか――――」


 切った。私から。詮索される前に。

 手を伸ばして、スマホを元のバッグにしまおうとしているところに、純玲が戻ってきた。


「もしかして親御さんに連絡?」


 純玲から見るとスマホを取ろうとしている素振りに見えたのだろう、彼女はそう言った。薬と水の入ったコップを持ってきてくれている。衣類も処理できたみたい。


「ううん、芹香に」

「え? どうして?」

「……心配だったから」

「友達想いなのはけっこうだけれど、今は自分の心配をしなさいよ」


 そうじゃないんだよ、純玲。もしも芹香が風邪を引いたままだったら、こうして純玲を家に上げているのが云々と説明する気力がなかった。代わりに芹香が回復したのを教えた。


「朗報ね。莉海も見習って」

「そうする」


 純玲が探し出してきてくれた錠剤は、彼女たち姉妹が生理痛を和らげる際にも服用しているものだった。使用年齢が十五歳以上なので、高校生になってから使い始めたそうだ。そんな情報は要らないよって口を動かすのもしんどかった。それでも純玲はいつもよりおしゃべりを抑えてくれているのはわかった。


「子守唄でも歌おうか?」


 もっと抑えてもいい。

 純玲なりに私を心配してのことだとは思う。その優しさを甘んじて受け入れられないのは、頭にあの子がちらつくからだ。

 私は歌唱の提案を丁重にお断りして、帰る際には鍵を郵便受けから入れておくよう頼んだ。思えば、今さっき玄関扉を開けたのは純玲で、私はうつろな意識下で、彼女に家の鍵を渡していたんだ。


「こういうとき、莉海にも面倒見がよくて美人でユーモアのあるお姉様が一緒に住んでいるといいのにね」


 純玲はそう言うと、部屋を見まわした。恥ずかしいから、あまりきょろきょろしてほしくない。


「温度計、飾ってくれているのね。嬉しい。私もブラシを毎日使わせてもらっているわ。元気になったら、また髪を梳いてくれる?」


 私は小さく肯いた。眠れそうで眠れない。まだ薬は効かないのか、頭痛がし続けている。何か訴えかけるように。何かってなんだ。テキトーなこと言うもんじゃないな。


「羊だわ」


 純玲が飾られた羊のぬいぐるみを見やって呟く。私が芹香の部屋でペンギンのぬいぐるみを見つけたときと同じ反応。


「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……目指すは荒野の向こう。三匹の夢はその先。彼らの物語ははじまったばかり。眠っている場合じゃない。むしろ覚醒の時なのだわ」


 小さな声で純玲が唐突に吟じる。独り言。その呟きを私の耳は拾ってしまう。

 純玲の頭の中にはいつだって空想の舞台があって、めくるめく劇が上演されているんだろうか。


「あら? あの写真って」


 ベッドの傍、つまりは私のすぐ横にいてくれた純玲が立ち上がる。離れる彼女のどこかを掴まなければ、そう思ったのに手が動かない。彼女を止められない。瞼がひどく重い。あの薬、眠くならないって話だったのに。頭痛が緩まると、一気に睡魔が降ってきた。その降臨になす術なし。

 途切れかけの意識で目にしたのは、純玲の背中。羊のぬいぐるみの隣に置いてある写真立てを見ているようだ。見られてしまった。


「ねぇ、この写真って。もしかして莉海にはおね―――――」


 意識が落ちる。その寸前、純玲が振り向くのを視界に捉えた。そのはずなのに、そこにいるのは純玲なのにその顔は彼女ではなく……。



 起きると暗かった。純玲、ちゃんと出る時に明かりを消してくれていた。淡い月明かりが独りを照らすのみ。

 そして彼女はテーブルの上に、一枚の書き置きを残していた。手紙と呼ぶべきかもしれない。彼女が眠る私の傍らでルーズリーフにシャープペンシルで記した文字列は『大好きな莉海へ』から始まっていて、ひどく照れ臭かった。


『時候の挨拶もあるべきなのでしょうが、そっちは割愛。

 おふざけはよして本題に入りますと、私には愚妹以外にも悩みの悩みがあります。そうです。悩みの悩み。それは私の大切な友人がどうも悩みを抱えている件について、私も悩んでいるのを意味します。共倒れしてしまいそう。事実、本日になってその子は駅で倒れかかった。その子の重さを身に感じたのは初めてかもしれません。もっと頼りにしてくれてもいいのに。

 私でよかったら聞くよ。

 これまでなぜそう言わなかったのかと後悔してる。心のどこかで、きっと自分から悩みを打ち明けてくれる子だと決めつけていたんだろうな。もしかすると、体調不良と悩みは相関性のないもので、そこに因果関係をもたせてしまうのは誤り? 全部が気のせいかな。

 そんなことないはず。お互いに友人代表みたいなところありますから。そうよね? 

 友人になって早九か月。こう書くとまるで恋人ですね。これは面と向かって言えない。

 

 数えてみたらここまでで約原稿用紙一枚分。勢いで書いて手、疲れちゃった

 よければ聞かせて、莉海の悩み。解決できるかはわからないけれど。聞きたいの。友達だから。


 追伸:ひょっとして芹香と関係ある?』


 私は一度読んだ後、しばらくその字を眺めた。純玲の字。勢いで、と表現したようにやや走り書き。でも綺麗。純玲の姿と心がそこに表れている、なんて。

 手紙を畳む。四つ折り。捨てるのは忍びない。


「友達だから、か」


 ふとカーテンを開いてみて、夜空を仰ぎ呟いてみた。

 揺れる想いを胸に、揺れない大きな月を遠くに望み、くしゃみがでた。

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