第31話

 冬の雨は弱くとも身を震わせるには申し分ない。

 水墨画のような風景を歩く自分の心の内も彩りを失っていく気配がした。そうして描き出される濃淡と明暗は自分でも捉えがたい。逆かな。私の心が色を求めていないから、景色が色褪せちゃう。今朝から鈍い頭痛が続いていた。


 園芸部の活動を手短に終えると、校舎に入り直す。

 学食近くにある自動販売機コーナー、その前にある簡素なソファに藤堂先輩と並んで腰掛けて、温かい飲み物を奢っていただく。漢字四文字の商品名で知られる、ミルクティー。先輩は漢字三文字の緑茶を買った。


「莉海ちゃん、聞いたよ。演劇部の件」

 

 どうやら藤堂先輩は例の、でこカレー副部長とクラスメイトなのだった。


「あの子が莉海ちゃんを気に入ったって聞いて、驚いちゃった。人の評価で出てくるのってだいたいマイナスばかりの子なのに。言い方が陰湿なふうでないから、あたしは嫌いじゃないけどさ」

「私はカレーってそんなに好きじゃないですけれど」

「ええっ!? そんな人いるんだね。あ、でも、あたしもなんだかんだ、いまだに甘口を好んじゃう子供舌だなぁ。このこと言ったら、あの子にぜったい酷評されるよ。まさに辛口評価ってね!」


 うまいこと言って得意げな顔をする藤堂先輩。可愛らしい人だ。


「ほんと、悪い子じゃないんだよ? あの右足……あの子なりに苦労してきているんだろうし。って、こんな同情的な態度が一番気に障るかな。それはそれとして、莉海ちゃん」

「はい」

「演劇部、入るの?」


 じっ、と。藤堂先輩が私を見つめた。

 草花の様子をチェックしながら外を歩いていた時から、どこか落ち着かないふうだったが、この話をしたかったからなのか。


「いいえ、入りません」

「きっぱりだ! どうして? 莉海ちゃん、日に日に可愛くなっているのに」

「えっ?」

「あちゃー、気づいていなかったかー。でも、マジのマジ。偏差値六十は超えたね」

「そういう数値化は素直に不快かなって」

「ご、ごめん。いやぁ、もったいないなぁ。あたしはさ、あの子から莉海ちゃんが演劇部に殴り込んできたって話を聞いて、なるほど、ついに始まったかーって思ったよ。快進撃っていうのかな、劇だけに」


 一体、誰が敵で、私はどこへと進軍しているというのだろう。

 甘ったるいミルクティーを飲みながら、苦々しい気持ちになる。


「えーっと、今のは半分冗談。けどね、可愛くなっているのは本音! アンモビウムに誓うよ」

「アンモビウム?」

「キク科の花。花言葉は不変の誓い」

「重いですね」

「ちなみに永遠の悲しみってのもある」

「重すぎません?」


 私の言葉を受けて藤堂先輩がその小さな額をぺしんと自分で叩いて「あちゃー」とまた口にした。


「そっかー、入らないのかぁ。あたしや他の幽霊部員に気を遣っているわけじゃないんだよね? 兼部だってできるはずだよ」


 幽霊部員。そういえばいるんだっけ。会わずに卒業しそうだ。


「友達に誘われて覗いてみただけなんです。副部長さんに気に入られたのもその友達のおかげってだけで。私は舞台に立つのに向いている人間でもなければ、裏方で舞台を作るのに協力したい人間でもないんです」

「仲良いんだ、その子と」

「はい」

「もしかしてその子がバイオレット嬢?」

「そのあだ名、定着していたんですか」

「あの子はビオレッタのほうが高貴な響きがあるって言っていた。よくわかんない」


 私も同感だ。今度の舞台で貴族社会をテーマにでもして、そういう役柄が純玲に与えられるというなら話は別だが。というか、あれって自称だっけ。まさか校内全体に広まらないよね?


 それはさておき私の側からも話したいことがあった。


 喉を過ぎてなお舌に残る甘さが、逆に甘くない紅茶を思い出させる。つい昨日に飲んだ紅茶。そこでの出来事。芹香とのやりとり。私はぐいっと一気に飲み干すと決心した。一度はやめておいた悩み相談。適任者を血眼で探してはいない。結局、交友関係から考えると、この人しかいなかった。


「先輩、私の話も聞いてくれますか」

「え? あ、うん。……あたしでいいの? なんだか、すごく、えっと重そうかなって。バイオレット嬢には言えない話?」


 私は肯く。純玲には話せない。少なくともまだ。あるいはずっと。


「もしかして前に訊いてきた話と繋がっている? 好きでもない人とどうとか」

「そうとも言えるし、そうでないとも言えます」


 藤堂先輩の頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。表情にも思い切り「どういうことなんだ」と出ている。


 私は立ち上がると、空になったペットボトルをゴミ箱に捨て、そして戻ってくる。校舎は放課後の音で満ちていた。遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏だとか、体育館の使用に優先権がない運動部による廊下のランニング、下足箱へと向かいながら大きな声でなされる友達同士でのおしゃべり等々。

 聞こえてこない音もある。

 今頃、純玲は何を演じてどんな台詞を発しているのか。見学したときに観せてもらったエチュードでは誰もが自分自身とは別の存在になりきろうときていた。それを見守る私は自分の気持ち一つ整理できないでいた。

 他にもたとえば、矢を射る音。的に中る音。それを聞く日は来るのかな。


 藤堂先輩が「よしっ」と座ったままファイティングポーズをとった。


「いいよ。ばっちこい。莉海ちゃんの悩み、解決できるかわからないけどっ、園芸部、そして人生の先輩として親身に聞くから!」

「ありがとうございます」


 先輩がポーズを解く。それを合図に、すぅーっと私は息を吸い、吐く。まだミルクティーの匂いがした。大丈夫、頭痛は和らいだ。今なら話せる。

 藤堂先輩は純粋だ。だから、気持ち悪いって感じたらそのまま顔に出るかもしれない。それは怖くもあるが、でも覚悟はできた。

 

 私はたとえこの人に嫌われてもいいんだ。

 

 そう認めてしまうと口が動いた。自分がろくでもない人間なのだと意識する度に、開き直れば開き直るほどに、弱くも強くもなっていく。ううん、実際には治らぬ傷が増える一方なんだって頭ではわかっている。


「私が、女の子を好きだって言ったらどう思いますか?」

「えっ!?」

「友情ではなく恋愛として、です」


 花の妖精は目を丸くした。絵に描いた驚愕ぶり。瞬きを忘れて固まったかと思いきや、ぱちぱちっとまさしく目を疑うような瞬き。

 そして紅潮する顔。……なぜ?


「あっ、相手ってさ、あ、あたしじゃない……よね?」

「ちがいます」


 がくっと藤堂先輩がうなだれる。お茶、蓋を開けたままだ。もう残り少ないとはいえ、零れそうで恐い。いや、そんなことより。

 落ち込んでのがっくりではない、脱力しただけ。ようするに張りつめていた糸の弛緩。たしかに今のって遠回しな告白めいていた? でもそんな声色ではなかったと自覚はある。


「莉海ちゃん」

「はい」


 先輩はソファで身を丸めたままペットボトルの蓋をきゅるっと閉めた。それからぐわっと体を伸ばし、背筋を張って私を見る。不思議だ。私と先輩の今の距離って、この座っている距離感って、しようと思えばすぐにでもキスできる近さなのにドキドキはしない。私、可愛い女の子であれば誰でもいいわけではないんだ。その事実を不思議がってから、しかし、それでいいんだとも受け入れられた。


「ひょっとしてバイオレット嬢? あっ、言いたくなかったら、それでいいよ。えっと、うーん……まいったなぁ」

「すみません」


 次に私は何を先輩に明かすべきか、どう相談するべきか。ちがう、どうしたいのか、だ。それをあれこれ考えていたはずなのに、いざ困り顔されると頭から抜け落ちたみたいに出てこなかった。


「謝らないでよ! 話したかったんだよね? きっと誰にも言えなくてつらかったんだよね?」

「……もう一人、知っている人はいます」

「そ、そうなんだ。も、ももももしかして既に付き合っていて、それで次のステップに進みたくて、けど、どうすればいいかで悩んでいる、みたいな?」

「次のステップ?」


 私がそう返すと先輩はその場で座ったまま足をじたばたさせて、手のひらで自分の顔を扇ぎだした。


「キスより先ってこと!」

「いえ、付き合うどころか告白していないんです」

「それ早く言ってよぉ!!」


 顔を真っ赤にして喚く藤堂先輩に若干引いてしまうが、原因が私にあるのだからと思い直して、咳払いを一つ挟む。


「引きました? 私がレズビアンで」

「正直に言っていい?」

「はい」

「類は友を呼ぶんだって、びっくりしている。度肝抜かれたよ」

「はい?」


 藤堂先輩がスッと近寄り、私の耳に囁く。


「あたし、女の人と付き合っているんだ」


 藤堂先輩はそういう意味でも先輩だったのか。先輩の顔、どう見ても嘘じゃない。一大決心して告げたって書いてある。なんで私より覚悟決めているんだ。おかげで私の告白は全然大したものでないんだと感じている。


「じゃあ、例の家庭教師(仮)さんって……。え、でも社会人なんじゃ」

「う、うん。新卒一年目。出会ったときは大学生だったの」

「あの、藤堂先輩。さっきのステップ云々ってまさか」

「ぎゃあっ!」


 顔を両手で覆う先輩。私は周囲を見回す。よかった、誰もない。今更だが、今の先輩を見られたら、いらぬ誤解というか、人によっては興味が惹かれてしまうというか。


「ち、ちがうの! し、していないよ!? ほんとだよ!? あたしはべつに最後までしてもって思っている、ほら、子供ができちゃうわけじゃないし! けど、そう言ったら『そういう考え方、私は好きじゃないかな。卒業してからね。こっちだって我慢しているんだから』って! きゃぁーっ! 言っちゃったよ!」


 ばたばたばたばた。

 あれ、なんかイラッとしたぞ。ちょっとだけ。


「大切にされているんですね」

「あたしの話はいいからっ。莉海ちゃんの話をしようよ。なに、どうしたいの? 勇気が出ない? わかる! でもあたしが下手に背中を押すのも怖い!」

 

 素直すぎる、この先輩。

 

 そうして私は詳細を明かせぬままその日は藤堂先輩と別れた。訥々と話してくれたのろけ話は参考になったかな。うん。勇気はもらえた。

 

 それでも言えなかった。肝心なこと。秘めたままだ。純玲が好きだとは言える。言ってもよかった。でも、今、私を悩ませているのはそれだけはなくて。純玲への恋心と違って、一人で抱えていたくない、もやもや。

 不可解なやつ。それを理解したら何かが決定的に変わってしまうんだ。誰かに話してみたかった。自分にはない答えが欲しかった。

 それなのに先輩に言えずじまいで別れてしまったんだ、私は。

 あの子へのこの想い。なんなんだ。




 独りの帰り道。雨が降り続いている。

 頭がまたズキズキとしだした。勝手になされる回想と共に。

 思い出すのは何度目かわからない。まだ昨日の出来事なんだから当然、鮮烈な記憶として在る。それが何日経ったら、灰色になってくれるのかわからない。


 あの生ぬるい部屋で芹香が私にのキスをした。

 二度目のキスの理由を訊ねたはずなのに、その答えとしてはあんまりだ。何が最も気に入らないかと言えば、芹香自身が戸惑っていた情況だ。それを彼女の面持ちから悟った。三度目のキスの後、彼女の瞳に見つけた惑いと悲痛、そして熱。それらが私を傷つけた。

 芹香の言葉を思い出す。私が傷に悶えて、彼女から顔を背けているうちに、あの柔らかな唇が紡いだそれらを。


『あんたと同じ。純玲を好きでいいのかなって、最近悩んでいる』


 私はそれになんて返したんだっけ。「好きになるのに良いの悪いの、そんなのないでしょ」って自分の発言を棚に上げて言い返せたっけ? ううん、できなかった。漫画を借りずに、逃げ出すのが精一杯だった。三度も人の唇、奪っておいてなんだ、その言い草。どうしてそんなつらそうな顔をあんたがするのよ。一言、二言、悪態つくこともできずに逃げ出した。




 駅に到着して傘を閉じて水を切っていると、見知った人物が近づいてくるのがわかった。幻覚かと思った。だってこの時間帯にここにいないはずだから。


「ああ、やっぱり莉海だったのね。後ろ姿でそうかなとは思ったんだけれど。……ねぇ、どうしたの? 顔色悪いわよ。芹香といっしょに風邪引いたってこと?」


 純玲がそこにいた。

 そっか。純玲、今朝教えてくれたっけ。何気なく。「芹香ったらまた風邪引いたみたいで休みなの」って。なるほど、だから早めに演劇部を切り上げてここにいるんだ。合点。でも、この出逢いを喜べない。今の私を見られたくなかった。言われたとおりだ。ひどい顔しているんだ。


「わっ」


 純玲が驚く。私に。そうして私は彼女に身体を寄せるどころか預けてしまったのに気がついた。抱き着くとは違う。もたれかかっているんだ。そのことに遅れて気がつく。頭が重い。先輩と話している間は、ここまではなかったのに。


「熱があるじゃない!」


 純玲が私をしっかり支え、私の額にその手をあてた。額同士ってさすがにないよね。少女漫画の中だけだな、あれは。


「ひんやりだ、純玲の手」

「莉海のおでこが熱いの!」

「副部長、つるつるだよね」

「えっ? たしかにあのでこ出しスタイルは、叩いてみれば文明開化の音がしそう、って馬鹿! ど、どうしよう、救急車?」

「落ち着いて。大丈夫、ふらっとしただけ」

「送るわ」

「え?」

「家まで送る。拒否権ないから。吐き気はある?」

「ない」

「そう。咳もしていないわね。よし。行くわよ。最寄り駅は知っているわ。駅からは遠いの? 親御さんは迎えに来てくれそう? お家に薬はある?」

 

 これ、幻覚でも妄想でもないんだよね? 

 私は純玲から一旦、身を離す。

 そして一つずつ純玲の質問に答えながら、ホームへと二人でゆっくり歩きはじめた。肩を貸すわよと純玲は提案したが、断って自分の足で歩く。


「この意地っ張り。せめて手を繋ぐのは許しなさいよ」


 初めて繋いだ手。

 その冷たさはやがて温かさに変わっていくのだった。

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