第30話

 侮っていた。

 異性愛だろうが同性愛だろうが恋愛漫画なんてどれも似たり寄ったりだと。それにレーベルからしてマイナーだし、タイトルだって聞いたことなかったから、及第点の作品に違いないと。

 

「あんた、すごい顔しているわよ」


 勉強机で勉強していた芹香が思わず手を止めて、私を見てそう言うレベル。私はというと、ベッドを背もたれにして、平たいクッションに座って読んでいる。


「だって……ぐっときちゃって」

「そう。あんまり力こめてページ破いたり、泣いて汚したりしないでよ」

「ぜ、善処する」


 たとえばクラスの女の子が、夏に定番の青春映画を観てきて、感想として「めっちゃ切なかったー!」ってきらきら笑いながら感動を示すとき、私は少し冷めた態度をとっていた覚えがある。他にも、流行りの恋愛ソングを「すごい共感できるっていうか、胸が締め付けられちゃう」と身をくねらせているのには、まんまと乗せられているなぁなどとやはり斜に構えていたような。それと同じで、働いている書店で比較的売り上げのいい少女漫画に対しても目新しさを感じられなかった。「王道だからこそいいのよ」って芹香は言っていたっけ。

 そんな感受性放棄系女子の私が、あてられてしまった。百合の花の蜜と毒に。いやいや、こんな比喩使ったら芹香に花で、もとい鼻で笑われる。意外と「乙女チックね」って言ってくれるかな。


 一巻は十分余りかそこらで読んだのにやや分厚めの最終巻はもう途中からページをめくるのが怖い、でも気になるから読み進めるを繰り返してしまった。


「ね、ねぇ。ちょっといい?」


 二時間かけて全六巻読み終えた私は芹香に声をかける。 

 芹香のほうも勉強に対する集中力が切れたのか、勉強机の上で広げているのは参考書から漫画になっていた。こっちきて読めばいいのに。あ、閉じた。

 

「なによ」

「うまく言えないけれど、一人で余韻に浸っているのが堪えられなくて」

「はぁ? 語り合いたいわけ? 嫌よ、私はそういうのダメ。解釈違いがあったら、もやもやするもの」

「で、でも! あー、うん、とりあえずありがとう」

「作者や出版社の方々に感謝しなさいよ。……合掌してんじゃないわよ」

「はぁー……お腹、じゃなくて胸がいっぱい。今日はこれで終わりにして、べつのシリーズはまた今度にしようかな」


 本棚を覗く。アンソロジー本もあるんだ。これならサクッと読めるかな。


「借りていっていいわよ」


 芹香が指で器用にペンをくるっと回して、しれっと口にする。それから筆記用具を片づけ始めた。


「え? いいの?」

「あんたが運ぶ分には、何かあっても私は白を切れるし」

「じゃあ、お言葉に甘えようかな」

「紅茶、おかわりいる?」

「嬉しそうな顔。私が漫画を気に入ってくれたのが嬉しいんだ」

「あんたねぇ、そういうの気づいても言うもんじゃないわよ」

「もうすぐ三時だね。おやつの時間」

「……何か適当なのがあったら持ってくるわよ」

「ありがとう。至れり尽くせりだなぁ」


 芹香の顔は緩んだままだ。でもやたら指摘すると、また眉をひそめちゃうから、よしておく。そうして芹香が紅茶のおかわりと手頃なお菓子を探しに部屋を出ていった。独りになった私はふぅと息をつき、大きく伸びをする。ずっと座っているのも疲れた。でも人の家のカーペットにぐでんと寝転がるのも気が引ける。

 すぐ背後、芹香のベッドに目が行く。


「私が寝ていたら、上機嫌から一転、雷を落とされちゃうよね」


 出入り口のドアを見やる。大丈夫、そんなすぐには帰ってこない。少しだけ身を委ねるだけなら許されるはずだ。

 ベッドには乗らない。背もたれにしていた側面に、今度は前からぽふっと上半身を預けた。


「お布団の匂いだ……」


 芹香の香りではない。そうだと思う。だって、あの子の香りはもっとこう、ナチュラルというか、ええと、癒し系ではなくて、目が冴えるふうな気がする。そんなに真剣に嗅いだことってないけれど。とにかく違う。私が今、感じているのは布団の香りであって、芹香ではない。そうだよね? 変な気持ちだ。




「何しているのよ」


 上方からの声。芹香からのそれで、自分がうとうとしていたのに気がついた。焦って、身を正す。数分そこら経っていた。


「えっ、あ、いや、眠くなっちゃって」

「はぁ。本気で寝入ったら面倒だからやめてよね。ほら、これでも飲んで目を覚ましなさい」

「う、うん」


 よかった。優しいままだ。

 芹香に勧められて、紅茶をいただく。いい香り。彼女もテーブルを挟んで向かいに座った。お菓子も見つかったみたい。市販のチョコレートチップクッキー。ファミリーサイズで個包装。しっとり系で、レギュラー商品に生地がバニラとココアのがあるやつ。あれ、でもこれは……。


「関西限定味?」

「ええ。親戚で西のほうで働いている人がいて正月に貰ったままだったのを今の今まで忘れていた。でも賞味期限はまだまだ先よ」

「へぇ、見たことある気がする」

「そうなの? あんたってもしかして西の出身?」

「まぁ、いちおう」

「たまにイントネーションが違うからそうなのかなって思っていた」

「なんでやねん」

「なぜそこでツッコミ入るのよ」

「ところで決まった? 漫画のお礼」


 芹香は「まぁね」と言うと、上品に紅茶を一口飲んだ。濡れた唇に目がいって、慌てて逸らす。


「あと一カ月もすればバレンタインデーでしょ?」

「そうだね。書店でもフェアってあるの」

「さぁ。私も初めてだから。店長より上の人、というか企業からの指示しだいだと思うわ。あるのなら、クリスマスよりも恋愛色強めになるんでしょうね」

「チョコレートのイメージが強いから、恋愛無関係でもチョコレートにまつわる本の特集を組むってのもありかも」

「そうね。そもそもバレンタインデーの起源は……って、そうじゃなくて。話を巧妙に逸らさないで」


 芹香が唇を尖らせる。けっこう乗せられやすい子だなぁ。


「そんなつもりないって。で、バレンタインデーがどうかしたの?」

「あんた、お菓子作りができるでしょ」


 声量を一つ落として、渋々といったふうに芹香が言う。

 そんな納得できないことか。あと、押し花だって作れるんだぞ。 


「漫画のお礼に作るのを手伝えってところかな。純玲への手作りチョコ」

「そう」

「せっかくバイトしているんだから、ブランドものの少しお高いやつを早めに予約して買って渡すのがいいと思う」

「は? なんでそうなるのよ」


 キッと睨み付けてくる芹香だが、私は涼しげに応じる。

 実際には眠くなるほどに暖かい部屋だけれど。


「素人の手作りなんてたかが知れているから。真心が大事ってのは建前だよ。この一カ月でチョコレート職人でも目指すつもり? ちがうよね」

「そんな言い方しなくてもいいでしょ」

「もし仮に手作りしたいなら今の時代、評価の高い動画を参考にするのが手っ取り早くて確実。間違いなく。調理器具と場所が必要なら貸してあげてもいい」

「急に上から目線ね。そんなふうに返されるとは予想外だわ。悪い意味で」


 芹香はまた一口、紅茶を飲むがそこにはさっきの余裕が、言い換えれば優雅な雰囲気が欠けていた。


「怒らせたいわけじゃなくて。私じゃ役不足だと思って」

「それ、誤用……よね? まぁ、いいわ。そういうことなら今のはなし。でも、あんたはどうするの? 純玲のためにチョコは作らないの?」

「さっき言ったとおりでいこうかなって。バイト代を使ってブランドもののチョコレートを用意する。不本意だけれど、純玲の妹のためにも。バイト先でお世話になっているし」

「本人を前に、不本意って言わないでよ。嫌だったら贈らなくていい。ううん、それよりも純玲だったら、手作りのほうが喜ぶと思うわよ?」

「それで好きになってくれる?」

「は?」

「わぁ!こんな素敵な手作りチョコレート作ってくれる女の子がいるなんて、ああ、恋人にしたいわ!って。なると思う?」

「見返り求めて贈るのが間違っているんじゃないの」

「大嘘つき。ついさっき読んだ漫画で出てきた偽善者ちゃんだ」


 沈黙。それに耐えられない私は、紅茶を飲む。まだ熱いそれを。芹香が私のために淹れてくれた。クッキーも食べる。甘い。糖分摂取が肝心だ。


「……ごめん。なんだか前向きになれなくて。漫画に感動した自分がいて、それはつまり、自分もこうだったら、純玲との恋が綺麗に成就できればって夢を描きもするわけで。でも、逆の自分もいるの。これは作られた物語の中だからなんだって。だから紆余曲折あってもこんなにも綺麗なんだって。私の恋は……こうはできないだろうなって。どんなエンディング迎えたって、それでパタンと閉じて終われる人生じゃない。そうでしょう?」


 私の後ろ向きな告白に、芹香はしばらく黙ったままだった。ただ、紅茶は一口、二口飲むし、クッキーも食べた。それはちょうどいつかのカフェでの光景を想起させた。こんなことあったなって。あのときも芹香、何をどう言おうと迷っているみたいだった。

 真剣に考えてくれているのかな。そうみなすと、胸が熱くなった。同時に、私自身は嫌な女だなって卑屈にもなる。


 素直に従えばよかった? 

 芹香といっしょにチョコレート作り。ケーキでもクッキーでも、なんでも。同じ想い人のために。私にとっての友達。彼女にとっての姉。今はただそれだけの関係。いつか変わる? 変えられる? 本当に変えたいの?


「私…………純玲を好きでいいのかな」


 呟きが芹香に届いたのがその表情の変化でわかった。

 怒っているような、泣いているような。笑えばいいじゃん。馬鹿ね、この意気地なしって言ってよ。それとも初めから恋敵とは認めていなくて、どうでもいい存在だった?


 早々に芹香のカップが空になる。


「感情、揺さぶられ過ぎ。それともまだ寝ぼけている? そんな暗い顔しないでよ。私相手には生意気なスタンスとるんでしょ。しっかりしなさいって」


 ゆっくりと。まるでクッキーを一つ、一つ丁寧に型抜きしていくように。芹香が私を励ます。なんで優しくするのよ。


「あのね、芹香」

「……なに」


 名前で呼びかけたことで彼女の目元がぴくりとした。


「純玲が心配していたよ」

「詳しく」

「ここに来る途中、駅で偶然会ったの。芹香のことを相談された。去年は去年で悩みがある感じだったけれど、今年、三学期に入ってからは悩みが増している気がするって。直感が、そう、あの子の不思議な直感がそう言っているんだよ」


 俯いてしまった私は「そう」と短く返事する芹香の顔が見えない。


「訊かないの? バラしてないでしょうねって」

「訊かなくてもわかる」

「なにそれ、私のこと全然知らないくせに」

「それはお互い様でしょ」

「じゃあ、教えてくれる?」


 返事がなかった。届かなかったのかもしれない。

 それからさらに十秒、二十秒、そして三十秒。


「何をよ。何を教えてほしいのよ」


 届いていたんだ。

 私は徐々に顔をあげる。怒っていないといいなって。そう怖くなって。

 どうせ見るなら笑った顔のほうがいい。芹香の笑顔は……悪くない。

 

「芹香のこと。もっと知ったら、何か変わるのかな」

「そんなの……わからないわよ。何かってなんなのよ」


 午後三時過ぎの気怠い空気の中、澄んで聞こえる彼女の声、頭にこだまするそれに私は窮してしまう。自分で口にしておいてその答えに皆目見当がつかないでいるのだ。


 芹香を知ることで、純玲を好きでいいかどうかが確かめられるのだろうか。二卵性双生児の姉妹の繋がりにそんな効果があると信じられる? そんなのオカルトだ。わかっている。そうじゃないんだって。芹香の言うとおりだ。揺さぶられている。揺れている、心が。


「教えて。――――――どうしてキスしたの?」


 気づけば私は彼女をしかと見据えて、そう問いかけていた。

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