第29話

 予報通りの寒波が私たちの暮らす地域を凍てつかせた。時が止まった。明日のない今日を迎えて、遠くに去った昨日をすぐ傍に想う。

 誇張だ。深夜から早朝にかけて外気温がギリギリ氷点下まで下がっている程度。日中に外を出歩けないレベルではない。この土地では珍しく、昨夜には粉雪が舞ったそうだ。私はそれを見ていない。暖かな部屋でぼんやりしていた。今もそうしている。飾ってあるガリレオ温度計。思ったより、球が浮き沈みしないから五分も眺めていたら飽きちゃうな。

 

 本棚の奥に隠されているという百合漫画を読ませてもらう約束を芹香に取り付けたのは、彼女と二度目のキスをする少し前のことだった。前日か前々日。

 けれど、それを思い出したのは当日の日曜日になって。行こうか行くまいか迷う。約束をしたときは、日曜日だからまたクッキーやマフィンでも作って、それを手土産かつ対価として渡してあげようかなと計画していた。それを話したら、芹香は「よかったわね。純玲に食べてもらえて」と返したっけ。


 その純玲は買い物に行くんだったよね。

 

 私が芹香と約束をした後、教室でクラスメイトの女の子たち何人かが純玲を誘っていた。その子たちはついでに私も誘ってくれもした。そう、ついでに。

 先約があるからと私が断ると、純玲が「うちの可愛い子猫の相手をしてくれるのよね」とまた冗談を言って、女の子たちのうちの一人が本気で猫だと思ったらしく、話を掘り下げてきたのを覚えている。猫ではなく芹香だとわかると「え、なんでそんなしょうもない嘘をつくの」って顔をしていた。あえて口にはしていなかったが。そこからは、私と芹香の二人もぜひにという話にならず、純玲とその女の子たちで行くことにまとまった。

 

 あくまで先約だったからだ。

 結果的に芹香を優先した形になったが、そこでいたずらに自分から予定を変えるのが不義理だと思ったのだ。でも、芹香がこのことを知ったら「馬鹿ね。純玲たちと遊べばよかったのに」と言うに決まっているよね。


 そしてそのときには、芹香ともう一度キスすることになるなんて夢にも思っていなかった。一度目のそれは、芹香なりのけじめというか、私が彼女の知らないところで純玲とキスした件に対する、ある意味で報復。これもまた芹香の流儀……と言いたいところであるが、この間接キス問題は私が言いだしたのがきっかけ。


 あれから三日、か。


 軽く昼食を済ませてから、私は三嶋家を訪れることにした。

 芹香からは何も連絡ないし。仮に「来ないで」って四文字を送ってきたらどう返しただろう。意地張って「行くから」かな。それとも「わかった」か。


 こうも冷え込んでいると、買い物を取りやめにして純玲は家にいるかもしれない。メッセージ一つ、電話一本で確認できるのに私はそうせずに、厚着をしてほとんど手ぶらで家を出ると、気づけば電車に揺られていた。朝方にはダイヤの乱れがあったそうだが、昼過ぎになると正常に運行していてよかった。

 純玲に会えるのを期待して、と自分に言い聞かせてみたところで、あるいは予定どおりに芹香が持っている百合漫画を通じて女の子同士の恋愛模様を学ぶためだと意欲的になってみても、それらが私自身を誤魔化しているに過ぎないとわかっている自分もいた。


 とはいえ、芹香と会ってどう話せばいいか定かでない。謝罪がほしいのだろうか。休憩室で、屁理屈こねて私にキスしてきた事実に。釈明してもらって、納得したいのだろうか。彼女の心境というのを。どんな? 知らない。知りたい。でも、知らないほうがいい?


「どうせ、あの子自身にもわかっていないんだろうなぁ」


 三嶋家の最寄り駅で降りて、改札を出たところでついつい独り言が漏れる。


「あの子ってだあれ?」


 すぐ隣からそんな声がした。後ろから手で目隠しをするときのイントネーションで訊いてくる。可憐な声。よく知っている声。心臓がはねる。


「えっ!? 純玲……どうしてここに」


 純玲がいた。コートにマフラー、手袋までしている。暖房の利いた電車内だと暑いだろうな。顔を見た感じ、血行はいい。家からまっすぐ駅まで来たのだと思う。


「そっか。今から買い物いくんだ」

「そう。初歩的なことだよ、ワトソン君」

「……それ、推理した側が言うんじゃないの?」

「ではご希望に応えて、推理いたしましょうか。莉海が口にした『あの子』というのは、ずばり! むむむ~っ!」


 寒いのにテンション高いなぁ。むむむ~っ、だなんて口にするキャラでもないのに。今やどんなキャラが出てきてもあの純玲だからなぁで片づけられる気がする。


「芹香でしょ?」


 しかも当ててくる。絶好調だ。


「何を根拠に」

「家を出る前に声をかけたのよ。『莉海によろしくね』って。そうしたら『ああ、やっこさんなら、ここには来ねぇよ。今頃、海の底で鮫の餌にでもなっているんじゃねぇかな。さしずめ、らっこさんってな』って」

「ラッコって海上で眠るときに海藻を体に巻くんだって。沖合に流されないようにするためと、鮫などの天敵に見つかりにくくするために」

「へぇ。貝を叩き割っている印象が強いわ」


 そう言うと、純玲はお腹に自分の両腕を振り下ろす仕草をする。水上でラッコが仰向けでやるあれだ。ちなみに例の動物園調査の際に仕入れた知識だ。


「割るのに使う石ってその都度、探しているんじゃなくて脇の下にずっと持っていたり、陸地の特定の場所に置いていたり、大事にしているんだって」

「そうなの? やけに詳しいわね。言われてみれば、莉海ってちょっとラッコ、いいえ、カワウソに似ているかも」

「それ、褒めている?」

「もちろんよ。可愛いじゃない、カワウソ。それより芹香ね、『たぶん来ない』って言っていたわ。なに、喧嘩でもしたの?」

「ううん、寒いから行くかどうか迷っているって予防線張っておいたの」


 嘘だった。そんな連絡、よこしていない。


「あー、わかる。それは、うん。私も迷ったもの。じゃあ、二人で暖かくしていなさいな。二人羽織りでもして」

「宴会芸だよね、それ」

「ねぇ、莉海」


 急にかしこまった面持ちで純玲が私の名を呼ぶ。私が首をかしげると、そのままの表情で続ける。


「三学期に入ってから、あの子に悩みが増えていない?」

「え……」

「それはまぁ、昨年からあのハリネズミみたいな性格は健在だったけれど。あ、可愛いハリネズミよ?」 


 以前、純玲と弓道場の近くでしたやりとりを思い起こす。が、どうもそのときに純玲が芹香に感じていると吐露した「悩み」とは別らしい。

 思えば、あのとき純玲は言い当てていたのか。女の子が好きだって。まさかそれが実姉に、すなわち純玲自身に向けられている特別な好意だとは推理できなかっただろうが。


「変なのよね。前にも増して普段から苛々しているっていうか。眉間に皺を寄せるなって顔を合わすたびに言っている。家族なんだからほぼ毎日よ? 正月気分が抜けていない感じではないわね。それはどちらかというと私」

「えっと、もう少し具体的にどんなふうにそれ以前と違うのか教えてくれるかな。喩えなしでお願い」

「うーん、喩えるなら……」

「純玲」

「ちがうのよ? 私なりに真剣。あの子のお姉ちゃんなんだから。でもね、がらりと変化があったのではないの。相変わらず伊達眼鏡サイドテール主義だし。なんとなく、そう、直感的におかしいのよ」


 姉として。その直感は正しいのだと思う。私だって実体験として、クリスマス以前の芹香さんと今の彼女は違うと感じている。


「莉海は何か心当たりない?」

「なきにしもあらず、なんだよね」

「そうなの? 教えて」

「それは……」


 純玲の目はもう笑っていない。妹を心配する姉の眼差しが痛い。私の心を裸にしようとするその視線。


「大真面目に推理してみせていいかしら」

「う、うん」

「バイト先で好きな人ができたんじゃない?」

「それはないかな……去年、芹香からフっていたけれど」

「えっ?」


 きょとんとする純玲。

 芹香、話していなかったのか。クリスマス前に出待ちされて誘われた件。たしかに話すメリットは微塵もない。そもそも損得勘定で話題にする種でもないか。でも、仲のいい姉妹ならしてそう。二人の仲が悪いという話ではなく。


「バイト仲間の他校の男子から、クリスマスに予定空いているかどうか訊かれて、断っていたの。私は偶然居合わせた。あの、私が喋ったって内緒にしてね?」

「やっぱり見る目がある男もいるのね。ああ、でもクリスマスおひとり様を回避する手段として芹香に声をかけたって線もあるか。じゃあ、畜生だわ」

「極端だね」

「莉海、何かわかったら教えて。約束よ。はい」


 純玲が右の手袋をはずして、小指を私に向かってかかげる。私がしばしそれを見つめていると、「指切りしましょう」と促した。躊躇う。私は秘密にしている。芹香の気持ちを知っていること。それに私自身の気持ち。

 拒めば、純玲は追究するだろう。何を隠しているんだって。

 おそるおそる私は彼女と指切りを交わす。「針千本飲ーますっ」と言う彼女に、ハリセンボンの針って千本もないんだよと言うこともできずに、私は愛想笑いを浮かべた。指は繋げども、手は繋げない。私の嘘と欺瞞、隠ぺいはいずれ裁かれるのだろうか。


 改札を通り抜ける純玲の背を見送って、「あの子」に会いに行く。




 インターホンを二度鳴らす。三度目を鳴らすか、電話してみるか迷ったところで玄関扉が開く。芹香が無愛想に立っていた。


「寒いから、早く入って」


 私は指示に従い、入ると「お邪魔します」と小声で言う。扉を閉めて、靴を脱ぎ、芹香が無言で出してくれたスリッパを履く。玄関、それに廊下は空調が利いておらず寒いが、外の寒さに比べればなんてことない。厚着しているし。

 そのまま二階に上がっていく芹香を追いかけようとすると、一段目に足をかけながら振り返った彼女が「コート」と単語で、コートラックを使うように示す。それから私がかけ終わると、彼女は階段を上がらずに別方向に向かい始めた。声をかけようとしたら「紅茶でいいでしょ」となげやりに言ってきた。キッチンへ向かうようだ。


「部屋で待っていなさいよ」


 黙ってついていこうとすると、華奢な背中をこちらに向けたままで私の進行を忌む芹香。不機嫌なのにもてなそうとしているのが、彼女らしい。


「何にも触れず、大人しく待っているのよ」

「小さい子供じゃないんだから」

「だから厄介なのよ」

「主義を変えたの?」

「は?」


 芹香が振り向く。怪訝そうに。


「今日はサイドテールじゃないから。すっかり髪おろしているの、新鮮」


 純玲は、部屋にいた芹香の髪型を確かめていなかったんだろうな。


「伊達眼鏡も外せばいいのに。ずっとかけていたら視野が狭くなって、本当に視力落ちるって聞いたよ」

「うっさい。お節介も大概にしなさいよ」

「世話を焼いているつもりはないよ? ただの感想と意見」

「黙って、部屋に行っていなさい」

「今日はお土産なくてごめんね」

「ほしいなんて言った覚えない」


 そう言うと、すたすた歩き去った。呼び止めても無駄だと知って、私は階段を上がる。家に芹香一人なのか。というより、私とふたりきり。なんだかな。

 姉妹の部屋のドアにはどちらともネームプレートやその役割をしているものはない。間違えたふりして純玲の部屋を開けてみようかと一瞬思って、やめた。秘密を多くしてどうする。


 暖かい部屋で待っていると、部屋の主である彼女が紅茶と市販のクッキーをトレイに乗せてやってきた。


「ありがとう。いただきます」

「私、明日の予習しているから勝手に読んでいて」

「おすすめは?」

「……どっちのよ」

「どっちって?」


 芹香の視線を辿って、私はクッキー片手に本棚を見やった。


「百合か、それ以外か」


 いっそう苛立ったふうに芹香が言う。


「前者。それを読むために来たんだから」

「知ってのとおり、そんな数ないわよ」


 いや、知らない。私は。あの本棚の奥を確かめたのは純玲であって私ではないのだから。おすすめを訊ねたのは、芹香自身の手でそれを取り出してくれるのを期待したからだ。


「そういえば、あれは嘘だったの?」

「あれってなによ」

「絵柄が好みで買っただけで、百合だとは知らなかったってやつ」


 ショッピングモールの階段で問い詰めた際にはそう返していた。


「それ、聞いてどうするのよ」

「かっかしないでよ。わざわざ寒い中、ここまで来て怒られるのは嫌だよ。来てほしくなかったら、そう連絡よこせばよかったじゃん」

「べつに……」

「べつに?」

「知っていたわ。衝動買い。私たちが働いている本屋ではなくて、遠くの大きいところ。バイトし始めた時に、店長から働いている人目線で行ったことないでしょって言われて、訪れてみたの。そこで出会った本。手書きポップで、女の子同士の恋愛ってのがわかるようになっていて、つい手にとっていた。つい、ね。絵柄が好みってのも本当。綺麗すぎないのがいい。それから同じレーベルから何冊か買い漁った。以上。これで満足?」


 芹香はまくし立てる。「べつに」に続く言葉ではない気がしたが、先の質問の答えにはなっていた。衝動に駆られた理由は問うまでもない。彼女自身が女の子に恋をしているから。


「それじゃ、今日で読破しようかな。そうだ、何か代わりにほしいものはある? 現実的な範囲で代価として適当なやつ」

「……考えておく」


 いらないわよ、と返してくれるとか思いきや、そう言ってきた。

 タダより高いものはない、か。現金を要求してはこないだろう。漫画の貸し借りが妥当だなと推測を立てながら、私は芹香の本棚を物色し始めるのだった。

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