第28話
芹香が休憩室のパイプ椅子に座って、本を読んでいる。
姿勢がいい。そのまま『読書する少女』とタイトルをつけてもいい。ううん、絵にするにはパイプ椅子ってのはもちろん、身につけているのが書店の従業員制服というのは、ちっとも芸術的でない気がする。芸術の何たるかは知らないけれど。
そんなことを思ったままにしておくのは、なんだかきまりが悪くて読書中の芹香に試しに言ってみる。
「レモンイエローのドレスを着て、大きなクッションを背にでもしていたら、幻想的な肖像画の一つとでも認知されるかもしれないわね」
「え、なにそれ?」
「フラゴナールの絵の話」
「知らない」
ふらごなーるって人の名前? 市販薬の一覧に混ぜてもバレなさそうだ。
「だったらいい。私は偶然、覚えていたに過ぎないから」
「そんな偶然ってある?」
「年末に、ロココ時期の美術作品が物語上でキーアイテムになっている小説を読んだのよ。それで少し、十八世紀頃の美術を調べたってわけ。知識がないと、どうしてもイメージが湧かない文章もあって」
「ハンバーガーと目玉焼きのマリアージュ……」
「それはロコモコ」
芹香がじとっとした目つきで見てくる。笑いなさいよ。
「芹香って暖色系より寒色系のほうが似合う気がする」
「は? 何の話よ。というか、それ見た目よりも性格から判断したでしょ」
「まさか。私があげた花の栞を使ってくれて入れる芹香が、冷たい心の持ち主だとはまったくこれっぽちも思っていないよ」
そう言って微笑みかけると、言葉に詰まる芹香だった。こういう時、堂々と「まあね」と胸を張るのが純玲で、困ってしまうのが芹香。いじらしいやつめ。
「はぁ……。純玲に聞いたわよ、演劇部の見学に行ったんだって?」
芹香は読みかけの本に花の栞をすっと挟むと、閉じてそれをしまった。読書の中断を非難せずに、私の話に付き合ってくれるみたい。というより、彼女から訊きたいことがあるふうだ。見当はついている。
「うん。初めて見た。演劇部での純玲。舞台本番とは違うもんね」
「他にも会ってきたんでしょ?」
「そう。純玲の元彼氏さん」
「そこは元カレでいいでしょ。で、どんなだったの」
やはり芹香は元彼氏さんがどんな人だったのかを気になっているようだった。純玲に直接訊く日は来ないのだろうな。
「端的に言うなら、女顔のイケメン。かなり気さくな人で、私にも声をかけてきた。ごく自然に。深くは知らないし、知ろうとは思わない」
「へぇ」
「それだけ?」
「他に返しようがないもの」
ここで食いつかれたほうが困惑するのは確かだ。結局、彼は元彼氏で、今やいい先輩でしかない。それがわかっていればいいのだろう。
「純玲としては、彼とは別の男の子に私を会わせたがっていた感じ」
「それは初耳」
「純玲から聞こうと思えば聞けたんじゃない? どうせ、純玲から私が演劇部の見学をした話をされたときは『あっそ』って返したんでしょ」
「ちがうわよ」
「じゃあ、なんて返したの」
「べつにいいでしょ」
芹香がそっぽを向く。これはあれか。陰口叩かれたのか、私。あんな子、演劇部に入れて木の役にでもするの?だとか、観客席でサクラしてもらうの?とか。
「なによ、その顔。あんたを悪く言っていないわよ」
横目で私の顔色をうかがった芹香がそう呟く。
「えっ。そうなの?」
「そこで驚かないでよ」
「あっ……わかった。『私は誘ってくれなかったのに』っていじけたんだ」
「なんでそうなるのよ」
はずれらしい。そういえば、芹香は弓道部にはきちんと自分の意志で入っているから、演劇部への未練、いや純玲と同じ部に入らなかったことに対する後悔ってないのかな。そのあたり、芹香の恋心を知ってから改めては聞いていない。
「で? 純玲が会わせたがった男って?」
「桐谷って名前の二年生。脚本を担当している人なんだ」
「ふうん。理由は? もしかして純玲は恋のキューピッドにでもなりたがっているの? あんたとその、桐だか欅だか樟谷だかって人とをくっつけようと」
「残念ながら、中らずと雖も遠からずなんだよね」
私の返答に、芹香は眼鏡の縁に指で触れ、そして足を組み直した。バイトのなかった年末年始時にクリーニングをかけたと思しきスラックスが、びしっと芹香の細脚に合っている。
「その男、あんたに気があるの?」
「……どうだろう。純玲は私と波長が合いそうだなんて評価している。でも、少しだけ話してみたところだと、むしろ私と純玲の関係性に興味があるっていうか」
「どういうことよ、それ」
「私と純玲が二人で帰るのを、前に遠目から見て、それで何か物語を思いつきそうなんだとか。ええと、つまり女子二人をメインにしたやつ」
「ねぇ、ようするに百合ってこと?」
芹香が声を潜めて訊いてくる。読み取りにくい表情だ。警戒のみではなく好奇心もそこにあって、正も負もある。
「実は最初、私もそうかなって思ったんだけれど、話し合いに参加していた副部長曰く、恋愛をメインテーマにってのは古典作品をやる以外ではしたくないって。桐谷先輩もそれには同意していた。ただし、要素として含めるのはありだとは言っていたの。ようはLGBTを扱うってことで。最近だとそういうの少なくないって」
芹香が肩を竦めた。そのまま頬杖をあてがう。
「社会的な問題や課題を写し取ったり、風刺してみたり、提起してみたり。いかにも高校演劇臭いわね。大会でやってもらうにはいいけれど、文化祭ではぜったい観たくないやつ」
「芹香って意外と演劇詳しい?」
「さあね。偏見はあるわよ」
「そこは自信を持って言うことじゃない」
「ねぇ、あんたが純玲と舞台に立つことになんてなっていないでしょうね」
「ないよ。純玲が役を得るかも未定」
まとめると、桐谷先輩は私と純玲が帰るのを見かけたのをきっかけに、女子二人の関係性にフォーカスした物語を書こうと思いついた。しかし年末年始に風邪を引き、ダウン。そのまま具体化されずに今現在に至る。
「素人意見で言うなら、性的マイノリティー以外だと、学校での虐めや家庭内暴力、性暴力みたいなショッキングな事態を入れ込むのが観る側の興味を惹きやすいかもね。あとは、ハンディキャップ。遠くではなくて近くに、つまり誰もが当事者になり得るのがポイントよね」
「……芹香って、そういうことばかり考えているの? だから、友達できないんだと思う。真面目すぎっていうか、TPO弁えていないというか」
「う、うっさいわね」
今は私の相談に乗ってくれると助かるのに。いくら純玲が演劇部と言っても、彼らの新歓公演の演目についてどうしてこっちが本気で悩まないといけないのだ。
「あのね、芹香」
「なによ」
「もしも、純玲から『この人いいわよ? 付き合ってみたら?』って勧められたらどうする?」
「どうって。断るに決まっているじゃない」
「うん。でもさ、傷つくよね」
「ん?」
「だって、純玲は……こっちをそういう目では見ていないってことじゃん」
脈なしって言うんだよね、こういうの。
芹香が頬杖を解く。そして私を見て、溜息をついた。
「純玲からすると善意よね、きっと。仲のいい友達のあんたに合いそうな男を見つけたから紹介するってのは」
「今のところ、連絡先すら交換していない。でも純玲からは見学にまた来なさいよって言われているの。それに桐谷先輩はともかく、なぜか副部長に気に入られたし。カレーが好きなでこっぱち美人」
「へぇ。それで実際、あんたは演劇部に入りたいの? 純玲と一緒にいられる時間を長くするっていう下心ありきでも」
今度は私が溜息をつく番だった。
芹香、私がどう答えるか察しているんだろうな。このアルバイトは純玲との時間を減らすためにって芹香が私に半ば強制で始めさせたものだし。お互いの気持ちを共有している今になって、快く入部を促すなんてありえない。芹香の性格からして、猛反発もしない、いや、できないってのは知っているけれど。
「中途半端な気持ちでは入りたくないって思った。みんな、演劇に真剣な人たちだって肌で感じたの。私は、たとえば純玲と舞台上で隣に立つことに必死にはなれない。それは一つに、私が大好きな純玲は舞台の上に在るわけでないから。そして一つに、私に演劇は向いていないだろうから」
足を組むのをやめた芹香が何か言おうとして、しかし一旦口を閉じた。が、すぐまた開いて、意地の悪い調子で私に言う。
「あんたも真面目ね。大真面目に、純玲のことが好きなんだ。私としては、部活中の純玲って見たことないから、ちょっと羨ましいわね」
「じゃあ、一緒に見学くる?」
「なんでよ。純玲は許すだろうけれど、周りに姉と違って暗い妹だなって思われるのは嫌よ。純玲にも悪いわ」
「だったら、明るくなればいいでしょ。顔はいいんだから。スタイルだって」
「下卑たこと言わないで」
くっと、眉根が寄る芹香に私は惑う。なんだ、このひねくれもの。
「素直に褒めているんだけれど……」
「やめてよ、馬鹿。そういうの、純玲に言えばいいでしょ」
「だから、お世辞じゃないって。気を惹きたくて言ったんじゃないし、純玲には、その、恥ずかしくてうまく言えないと思う」
「もういい」
芹香が立ち上がる。私も反射的に立ち上がって彼女の行く手を阻んだ。何を言ったらいいのかは考えてついていない。けれど、そんなのを考えなくてもいいぐらいの空気がそこに入り込む。
「あ……」
思わず呟いた。
立ち位置が悪かったせいだ。芹香との距離が近い。近すぎる。顔と顔。あたかもキスする直前みたいな。その唇に目を奪われてしまっていた。
不正確な記憶のみが存在するはずなのに、鮮やかに甦るその柔らかさ。あれから一週間。あの時の芹香のキス、純玲としたときよりも長かった気がする。そんなことを今、わかってしまう。
「――――なに、意識しているのよ」
半歩下がって芹香が言う。またそっぽを向いた。
「せ、芹香のせいでしょ」
「元はと言えばあんたのせい」
「ちがうよ。ああいう不意打ちかましておいて、よく言う」
「あんな顔したくせに」
「え?」
あんな顔って?
「……なんでもない」
「待って。どんな顔していたっていうの。あのとき芹香が驚いて顔を赤くしていたのと関係ある?」
「赤くなんてしていないっ」
「していた!」
「嘘つかないで!」
「嘘じゃない、なんだったらもう一回――――」
慌てて私は口を抑えた。何言っているんだ、私は。
「したいの?」
「ち、ちがうっ! なんで芹香と……」
「それ、やめてよ」
「え?」
「気安く呼ばないで、名前」
「え、でも、これはあのとき芹香が。それに前から『さん』をつけているだけで、名前は呼んでいたでしょ」
「いいから、やめて」
こっちを向き直った芹香の頬になぜか赤みが差していて、それが怒気かそれとも別の感情か区別できなくて、狼狽えてしまう。
「あんたに名前呼ばれると、それが妙に頭に残っちゃうの。だから、やめて」
「嫌なら嫌なりに、もっとろくな嘘つきなよ。そんなの……」
おかしいって。そんな顔でそんなこと。芹香、わかっている? 今のそれ、なんていうか、誰にでも見せていい顔じゃないよ?
「二度と呼ばないで。ここで約束しなさい。じゃないと……するから」
「横暴にもほどがある。どうしちゃったの。おかしいよ」
「おかしくない!」
睨み付けられて怯む。急展開だ。さっきまでの彼女と違う。
「え、えっと、ほら、そろそろ休憩あがって戻らないとだよね? うちの職場、芹香で回っているところあるんだから」
努めて朗らかに、彼女に笑いかけてみたもののぎこちなくて。それにまたうっかり名前を呼んでしまっていた。
すると芹香が緊張した面持ちで私と距離を詰めてくる。
ダメだ、拒まないと。
そう思ったときには芹香の顔がまたすぐそばまである。
私はぎゅっと目を閉じた。
二度目のキスは短めで、でも彼女をより深く感じた。
オデットとオディール。今の芹香はどっちだ?
芹香の変心ぶりに私は混乱していた。くるくるくる……と。
私は彼女に踊らされてしまっている。
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