第25話

 三学期最初の月曜日の放課後、藤堂先輩と曇天の下を歩いた。

 年末年始は例年と比べると高かった気温だが、来週あたりに寒波が到来して一気に冷え込むそうだ。今朝起きたら、純玲から貰ったガリレオ温度計の中の球体がすべて上方に浮かんでいた。どうやら室温は摂氏十八度以下だったみたい。

 

 藤堂先輩は「うう~」と震えながら小柄な体をいっそう丸めていた。「押し競饅頭しよっか!」と提案してきたが、謹んでお断りした。あれって三人以上で押し合うもので、それに小さい子供たちの遊びだよね。思い切り押したら藤堂先輩、ころんと転げそうだし。そんなことを遠回しに伝えたら「あたしはこう見えて、ちっちゃなブルドーザーだと崇められるぐらいに力持ちなんだよー。いや、ちっちゃくないけど!」と微笑ましいことを言い出したので合掌して拝んでおいた。


 学校側が手配してくれた業者が手入れを行ってくれたのか、管理が必要な植物たちに適切な処置がなされていた。藤堂先輩が始業式の朝に一人で敷地を廻って確認した時には既に、という話だから遅くともその前日には私たちの知らないプロが面倒を見てくれたのだろう。「ボランティアのおじいさん、おばあさんかもねー。べつの高校の友達が言っていたけど、生徒も教師もほとんど興味を示さない校内の園芸ごときに真っ当な業者呼ぶお金を使うってないみたいだし」となかなかに辛辣な現実を突きつけてくる先輩だった。


 年を越してもまだ開花していない寒咲きのクロッカス―――このぶんなら二月に入ったら咲きそうだと先輩が笑う―――の花壇の前で藤堂先輩が「そういやさ」と思い出したように訊いてきた。


「押し花は渡せた? って、もうクリスマスは半月前なんだね。うわー、時が経つの早いなー。気づいたらおばあちゃんになってそう」

「おかげさまで」


 押し花の栞。使っているところは見ていない。

 芹香はバイトの休憩時に偶に本を読んでいるから、使っていなかったら文句を言おう。使っていたら……そのときはそのときだ。一方で純玲は学校では読まず、専ら家でしか読まないそうだからなぁ。


「またさ、春になったら春の花で作ろうよ。今度はさ、ああいう小さな栞じゃなくて、大きいのでさ、額縁なんかに入れて、ゲージュツ作品っぽくしたらいいんじゃないかな。あ、それで新入生を勧誘するのもいいかもだよ!」


 言われてみて、あと三か月すれば進級することに気づく。クラス替え、か。どうか純玲と同じクラスのままでと切実に思う。芹香もそうなんだろうな。同じクラスになったら純玲は芹香を独りにしないはずだ。今だって、まるっきりの孤独というわけでもないとは聞く。


「先輩は受験生になるんですね」

「ぎゃーっ! 言わないで、言わないで。まだ進路がかっちり定まっていないダメな先輩でごめんねー」

「この時期に決まっているほうが少ないんじゃありません?」

「どうだろう。いちおう四年生大学には、と思っているけど。でも、やりたいことがばっちり決まって、それに合った学校なら専門学校のほうがよくない?とも思うわけ。というか、よさげなところに就職できるなら進学しなくていい……?」

「先輩は何か将来の夢ってあるんですか」

「わお! 語っちゃうかぁ、花の女子高生らしく夢を語り合って、沈む夕日目がけて走っちゃおうか!」

「遠慮しておきます」


 寒さを振り払うようにハイテンションな藤堂先輩だった。今年もえくぼが愛らしい。ふと、私は知り合いのなかでは彼女に相談するのが最も適当な気がした。少なくとも同じクラスの友達に言えば、純玲の耳に入るのは避けがたい。そもそも、あの子たちとは浅くも深くもない間柄で、親身になってくれるか怪しい。かく言う私も、いきなり相談を受けたら面食らうだろうけれど。


「うん? どったの、莉海ちゃん。いつもみたいに可憐な、ううん、カレンデュラな微笑みを向けておくれよー」

「ガーデニングユーモアですか、それも」

「そうそう。で、何かお悩み? ほら、向こうのパンジーやビオラでも見ながら話そうか」

「花だけに、ですか」

「えー? ガーデニングユーモアとオヤジギャグは違うよ?」


 理不尽だった。えくぼ、指でぐいぐいとつつこうかな。

 

 そうして私たちはパンジーやビオラが色とりどりに咲いている区画へと移動する。花壇の広さが十倍だったら、みんなが観賞しに来るだろうにというのは先輩の言葉だ。確かに綺麗な花々だが花畑と呼ぶには遠く、そして花壇というのは得てして地面にあるものだから、視点が低くなければいけない。生徒たちが皆、大空を見上げて飛び立つ準備をしているのなら花の名前を知らないのも詮無きこと。これは先輩の先輩の言葉そうだ。


 私たちは中腰で花壇を眺めながら話す。


「あの、藤堂先輩。ええと……ぶっちゃけた話、例の家庭教師(仮)さんとは恋仲なんですか」

「へっ!?」


 素っ頓狂な声を出して立ち上がり、私をまじまじと見下ろす先輩は花の妖精らしからぬ動揺ぶりだった。見ていて可笑しさを通り越して気の毒になってしまう。


「あ、えっと、べつに本当に知りたいのはそこではないんです。ですから言いたくなければそれでいいんです。ようするに、その、恋の悩みといいますか」

「そ、そう。いやぁ、今のはあれだね。綺麗な花に触れようとしたら、蜂が飛び出してきたみたいなさ」

「先輩は、好きでもない人とキスってしたことありますか?」

「なっ!?」

「い、今のもなしで。ええと、すみません、一旦整理してみます」

「そうだね! そうしてから言おうね! 次やられたらアナフィラキシーショック待ったなしだよ!」

 

 私は考える。齟齬や誤解がないように。

 何が訊きたいのか、正直なところ曖昧だった。最初から答えが出ている悩み事を口にしてみて、先輩を煩わせたいと思わない。もしくは最初から答えを欲していない?

 

 たとえば。

 たとえば、そうだな。先輩は女の子とキスってしたことありますか。

 ノリがいい人だから、勢いで仲のいい子とした経験があるかもしれない。でも、そんな答えが返ってきて、私はそれでどう思うんだろう。なんだ、べつに純玲とのキスは特別なんかじゃないんだって。馬鹿か。私はあの子が好きなんだぞ。特別に決まっているでしょ。

 

 じゃあ、芹香とのキスは?

 純玲を想う時、芹香も一緒に頭に浮かぶようになったのはいつからだ。きっとあの公園での出来事が悪い。それはほんの数日前の話だけれど、とにかくそれ以来あの子が入り込んでくる。なるほど、わかった。方針が。今、藤堂先輩が「友達同士のキスもそんなに珍しくないよー」とでも言ってくれれば、私は芹香からの不意打ちを、それこそ蜂に刺されたような事故だと割り切ってしまえる。

 しまえるんだ。変に意識しないで済む。思い出すたびに心臓に早鐘を打たせることもなくなる、なくさないといけないんだ。

 

 でも「ええー、ないでしょ。キスなんてしたら子供できちゃう」と言われたらどうしよう。藤堂先輩がそこまであれな人ではないと思うが、ようするに貞操観念がしっかりとした人であり、口づけ一つとっても単に親しい間柄ではなく特別な関係の相手としかしないのが当たり前だと主張してきたら。

 世間一般ではそちらが「普通」なんだろうか。少女漫画では、付き合う前からわりとあっさりキスしているけれど。なんだったら最後までしちゃってるやつもあるし。ううん、そういうのは少女漫画というカテゴリではなく、ティーンズラブってやつかな。そっちはほんのわずかにウェブで試し読みしたことあるってだけ。


 何、考えているんだ。

 

 まとまらない。芹香のせいだ。あの子が、するから。


 私に合わせて再び中腰になった藤堂先輩が、上目づかいで不安げに私を見つめる。そこらにいる男子にしたら、ころりと恋に落ちそうな表情だった。

 私はそろそろ姿勢を保つのがつらくなったので、立ってから軽く屈伸する。先輩もぎこちなく私の真似をした。そのときになって私は初めてパンジーとビオラを意識的に見つめた。それらの違いは一般には花の大きさで、五センチ以上であればパンジーなのだと言う。しかし学術的には同じだと先輩が前に話していた覚えがある。品種によっては小さな花をつけるパンジー、大きな花のビオラもあるそうだし。そうなってくると、区別って難しい。できなくなる。それでも区別したほうがいいときってあるはずだ。しないといけないときだって。

 似ていることと同じなのとでは差があるのだから。


「すみません。自分でも何をどう言えばいいか、わからなくて」

「お、おう。莉海ちゃん、そのぉ、冬休みに無理やり誰かに何かされたってわけじゃないんだよね? そ、それだったら、あのね、しかるべき機関に……」

「先輩が想像しているような事件には遭っていないです」


 きっぱりと。言いよどめば心配させるだけだ。


「ならいいんだけど! ううっ、まさか可愛い後輩から急にこんな話を振られるとは。話を咲かせるにしても、棘も嫌な匂いもないほうがいいのにぃ」

「……参考までに、先輩のファーストキスについて教えてもらえますか」

「えっ。めっちゃぐいぐいくるね。わ、私の初めては……」

「もしかして例の家庭教師(仮)さん?」

「ぐはぁっ!!」


 のけぞる先輩だった。そのまま後頭部から倒れる勢いでハラハラするが、持ち直す。今日の先輩はハイテンションではなく情緒不安定と改めるべきか。でも、その原因って私だ。先輩をからかいたいんじゃないけれど。


「い、いつかさ」

「え?」

「莉海ちゃんにはきっちり話すから。今はあたしに覚悟ができていないんだ。ご、ごめんね?」

「いえ、私のほうこそ」


 こうして私は純玲と芹香の件を打ち明けるのを断念したのだった。秘めるべきは秘める。たとえ先輩が社会人と恋愛していて、肉体関係まであっても知らぬふりだ。

 秘すれば花、そんな言葉が頭に浮かんだ冬空だった。




 三学期の一週目が早くも終わる頃になって、私は純玲の演劇部での様子が気になっていた。ここ数日間、昼食を誘いに来る部員がいない。昨年の内に、年が変わったらお昼の会合をなくす取り決めがされていたとは考えにくい。

 とどのつまり、私が案じているのは純玲自身が冗談めかして口にしていたこと。魔女裁判。いくらなんでも大仰な表現だけれど。例の彼氏と一カ月余りで別れたことが、純玲の演劇部における立場を悪くしていないかどうか。


「芳しくないわね」


 放課後、純玲をつかまえて直接訊くと彼女はさらりとそう言った。


「それって……」

「二年生、言い換えれば新三年生になる先輩方の中にリーダーシップをとってくれる人っていないのよ。だからね、四月にある新入生の勧誘を兼ねた公演については若干の不安があるわ」

「え? あ、そうなんだ」

「三か月なんてあっという間よ? がっつり長尺の演目やる予定はないから、稽古も一カ月間ほど集中してやれば充分間に合う、そんな油断が怖いのよ!」

「そ、そう」

「あのね、四月のいわゆる新歓公演は代替わりした新二・三年生が完全新脚本で舞台を作るっていうのが恒例になっているらしいの。ああ、いちおう断っておくと三月の大会には出場できないわ。お声がかからなかったの。当然ね、私たちって昨年は県大会にも顔を出せなかったから。出来は悪くなかったわよ? 直前の文化祭でも手ごたえはあったわ」

「う、うん。ちょうど大会が終わった直後にも聞いたよ」


 地区大会の日程が、法事とかぶっていなければ応援しに行っていたと思う。三か月近く前の話だ。一般開場していなかったそうだが、同じ高校の友達なら入れると聞いていた。補足しておくと、活動に精力的なわりに大会実績はいまいちな我が校の演劇部だ。県内では、隣の市の私立校がいわゆる強豪なのだと純玲から教えてもらった。私たちの学校の「なんちゃって講堂」ではなく立派な講堂があるのだとか。

 ――――待って。そんな情報整理、今はいい。


「ちがうの。私、そういう話が聞きたいんじゃなくて」

「いい先輩後輩としてよろしくって言われたわ」

「えっ」

「一昨日ね、彼に握手を求められて、ぎゅっとしたの。それでまぁ、もとの関係に戻ったっていうのかな。まだ部内に別れたことって広まっていないみたい。先輩のクラスで広まるのが先かもね。あの人、クラスじゃお調子者ポジションだから。クラスでも、かしら。みんなにかまわれるタイプの人」


 どこか懐かしむ口ぶりだった。

 会わない冬休みを挟んで、再燃する種の恋愛模様ではなかったようだ。思えば、あのクリスマスは別れた翌日だったからこそ、純玲は帰り道にああいう私の親しい友達の気遣いを装った提案を受け入れたのだろう。彼女なりの動転、気の迷い。私はそこにつけこんだ悪女、か。ダメダメ、こんなふうに気を病んでいてはまた芹香に……芹香に怒られる。怒られるんだよね?


 純玲が指をパチンとする。閃いた、というふうに。


「ねぇ、莉海。よかったら演劇部に見学しに来ない?」 

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