第24話
芹香さんと二人で歩く。風のない日だ。
本屋からカフェ、そして駅へと向かうこの道にも馴れたもので、今日は私から道を逸れる。不慣れな道へ。ついてきてくれる芹香さん。狭い道で自動車と出くわして、接触を避けるために芹香さんが私の側へと寄った。そのとき、彼女の右手が私の左手とぶつかる。二人揃って手袋はしていない。あげたハンドクリーム、使ってくれているのかな。いきなりその手をとって感触を確かめたのなら、どんな顔するんだろう。そういえば純玲とも手を繋いだことってない。あの夜だって繋げなかった。寒いからって口実を作れば繋げたのかな。
寂れた小さな公園を見つける。大きな遊具の撤去された跡があった。色落ちしたブランコと薄汚いベンチしかない。草むしりもされておらず、寒さに耐えて雑草たちが生い茂っていた。
「簡潔にお願い」
ベンチかブランコ、どちらへと向かうか悩んで立ち止まった私に、芹香さんは言う。彼女はどちらに座るつもりもないみたい。それならそれでいっか。
「聡明な芹香さんは何か予想がついているんじゃない?」
「聞こえなかった? 簡潔にお願い」
「国語の記述問題でそういう指定があるよね。簡潔にって。不親切すぎないかな。書き抜きや字数指定と違って、答え方自体が曖昧だよ。何をもって要領を得ていて、筋道が整っているとするの。あれ、嫌い」
「ねぇ、砂埜さん」
芹香さんはコートのポケットに両手をつっこむ。その所作が彼女の心理を映し出している、なんて考えるのはフィクションめいていて嫌だなって思った。ただ寒くなっただけかもでしょ。
「私、怒らないわ。たとえ―――あんたが成り行きで純玲と隠れて付き合うことになったのだとしても」
芹香さんは捨て猫みたいな目をしていた。
「残念、はずれ。告白だってしていない」
「そう……そうなのね」
「安心した?」
「今日のあんた、ほんと意地が悪い。なんだか、らしくない」
後半はぼそぼそ声で。芹香さんは鼻を啜って「正解は?」と言う。心なしか、顔色は穏やかになった。危惧していた状況ではなかったと書いてある。
そこに私はぶつける。
「キスしたの」
「は?」
「純玲と。でも、純玲がしたくなったんじゃないの。私がね、私としてみたらあなたにとって、こういうメリットがあるんですって詐欺をはたらいたの」
「どういうことよ。笑えないわ、それ」
「電話で話していなかった? 純玲ね、恋がわからないんだって」
「え……?」
じっとしていられなくなった。そわそわした私は、ゆったりと、のんびりと、芹香さんの周りを円を描くようにして歩きながら話す。近づきすぎもせず、遠ざかりすぎもせず。彼女がポケットから手を出したら、私をいつでもつかめる距離。
「ひどいよね。それなのに告白されて付き合っちゃうんだから。楽しくデートして、キスを何度かして、それでね、キスはできるけれどこの人を好きになれないってわかったんだって。なにそれって感じ」
芹香さんの背後で、小石でも蹴る素振りをしてみせた。でも、空を切るだけ。芹香さんは振り返らない。耳をすましてくれている?
「それで私に言ったんだよ。恋を知らないから教えてって。いやいや、そんなの許されるのは少女漫画かお芝居の中だけでしょ。無邪気にもほどがある。私がこんなにも好きなのに。芹香さんに言われて以来、純玲への恋心を爆弾みたいに抱えて、その熱にあえいで毎日を生きているのに」
一周した。立ち止まって芹香さんの顔を見やる。その瞳の奥を覗き込む。
「だからね、私とはキスできる?って煽ってみたの。もしできるなら、純玲にとってキスってべつに特別じゃなくて、だから恋を知るのに適切な手段ではないのだと証明できるんだよって。ひとまずは。そんなふうに嘯いたの」
「……嘯くと嘘をつくは違うわよ」
「こんなときまで国語の先生なんだ。芹香さん、変に真面目」
「それで純玲はあんたとキスしたのね」
「うん。思い出補正ってやつなのかな。冬の屋外にしては、温かくて柔らかかった」
「聞いていない」
「こうして純玲はただの女友達ともキスならできると知って、彼女自身の真実の恋を見つける旅に出たのでした」
「強がっているんじゃないわよ」
芹香さんがポケットから両手を出す。いよいよ拳が振り下ろされでもするかと思いきや、芹香さんはそれをぐっと握りしめるだけで私に触れようとはしない。
「あんたのそれ、私の真似なの?」
「どういうこと?」
想定の範囲外の言葉に惑う。芹香さんの真似って何の話だ。
「前にあんた、私に言ったでしょ。『余計なことを訊かれたくないから、自分自身に触れられたくないから、突き放して、怒らせようとする』だっけ」
彼女はすらすらと。声の調子は真似せずに、思い出して言葉を紡ぐ。
「突き放してなんて……」
「そうね、あんたが突き放しているのは私じゃない。あんた自身。そういう意味じゃ、演技で素を隠す純玲の真似だとも言えるわね」
「私は私だよ」
当たり前のことを言うだけなのに、声が掠れて消えそうだった。
「笑わせないで」
「笑っていないじゃん」
「うっさい。こんなところまでつれてきて、子犬みたいにぐるぐる私の周り回ってさ。そんなに殴られたいわけ。そうなんでしょう。何らかの形で罰を受けたがっているのよね。だから詐欺だとか言っちゃう。ふざけないでよ」
「罪じゃないの?」
私が自分の気持ちを秘めたまま、純玲にキスをねだったことが。まんまとそれを得たことが。
芹香さんは一呼吸置いてから話し始めた。
最初は水面を揺らさないぐらいに静かに、しだいに波紋を広げ、その声は熱く、強くなっていく。それがすべて私へと向けられ、響く。
「たしかにあんたは、恋に身をやつしている。もしかすると私よりずっと。二週間会っていないのに、あんたはずーっとその時のキスのことばかりが頭にある。大好きなあの子とできたのが嬉しい、そのはずなのにあの子は自分との恋に落ちはしないんだってわかっちゃった。あの子が探す恋路に自分はいないって思いこんでいる。はっ! 私からすればお笑い草よ! 実の妹なんてね、最初から恋愛対象から外れているんだからね。その点、あんたは他人だからチャンスあるわよ。なんだったら、そのときのキスで、純玲はあんたを意識しているかもでしょ。なに、しけた面しているのよ。どれだけ私を惨めにさせるのよ! 理想とちがったキスの一つで、いじけてんじゃないわよ!」
長台詞だった。けれど、舞台上の役者ではなく芹香さん自身の言葉だった。芹香さんは怒っている。怒ってくれている。私のために。そう言ったら、ぜったいもっともっと怒る。でも、その手は私を傷つけない。そう悟って私は「ごめん」と呟いていた。だらだらと悲劇のヒロインぶって申し訳なかった。
「……まさか、芹香さんに励まされると思わなかった」
「そんなふうに聞こえたなら、やっぱりまだおかしいままね」
「ううん、芹香さんが純玲とは違う優しさを持っているのは、もう紛れもない事実。望むなら、明日からは学校中に触れ回って、お友達を増やしていく作戦を実行してあげてもいい」
「やめなさい」
やっと、この日私たちは笑い合った。純玲が無愛想だと評したこの子の笑顔に純玲にない魅力を見つける時、心がざわめく。そういうの、他の人たちにも見せつければ、あっという間に友達ができるだろう。それを彼女が望むか否かはまた別だけれど。
「なんかね、すっきりした」
「あっそ」
素っ気ない彼女がありがたかった。
「駅まで、手を繋いで帰らない?」
「は? なんでそうなるのよ。どういう思考回路してんの」
「ハンドクリーム、使ってくれている?」
「使ってい……冷たっ! ちょっ、急に触らないでよ。なんなの」
「公園出るまでだから。お願い」
十メートルない距離だ。
芹香さんは「しかたないわね」と振りほどかずにそのまま繋いでくれた。人の温かさが欲しくなった。それがたとえあの子でなくても。これも口にしたら、笑い飛ばされるから、言わない。でも見透かされているのかな。
「あのね、これはさっき電話で純玲から言われたことなんだけれど」
公園をあと一歩で出るその地点で、芹香さんは足を止めた。なんだ、なんだ。妙な面持ちをしている。照れている?
「名前、呼んであげなさいよって」
「……名前? そういえばあのペンギンのぬいぐるみ、名前つけているの?」
「つけていない! どんな話の逸らし方よ。あのね、私たちの間での呼び方に決まっているでしょ」
「つまり、そろそろ呼び捨て合っていい仲だと純玲は思っているんだ」
「……あんたはどう思うの?」
「そっちがいつまで経っても苗字で呼んでくるから、さん付けしているだけだよ。私は悪くない。こっちからはいくらでも呼べる。他の友達も呼び捨てが基本だもの」
「そ、そうなのね」
反応が、友達がいない人のそれだった。呼び捨てている友達いないんだ、この子。とはいえ、呼び方一つで何か変わるわけじゃないのにな。……純玲の名を本人に向かって口にするのを長らく臆していた私が言えた義理ではないか。
「芹香」
「な、なによ」
「なによじゃなくて。そっちからだとどうせ呼びにくいだろうと思って、私から歩み寄ってあげたんでしょ。ほら、呼んでよ。なんで緊張しているの」
「していない」
「嘘。手、ぎゅっとした」
「………………また今度でいいわよね」
ヘタレだった。平気であんた呼ばわりするくせに、名前一つ呼べない。意味がわからない。もしかして彼女は、名前で呼ぶのは実の姉であり、想い人たる純玲だけだと決めているのだろうか。それもまた芹香さん、もとい、芹香の流儀だと。
「なに、笑っているのよ」
「べつに。芹香のそういうところ、ちょっと可愛いなって。ちょっとね」
芹香が手を離す。怒ったかな。さっきとは異なるふうに。
不意に彼女が私の前に立つ。え、このタイミングで平手打ちされるのは不本意だぞ。芹香が眼鏡をはずした。なんで?
「ねぇ、覚えている? あんたがあの時言ったこと」
どの時だろう。私は首をかしげてみせた。
「純玲たちが、駅でキスしたのを遠くから見た時」
「……何か言ったっけ」
かたまってしまって、道の真ん中で動けなくなった私の手を芹香が引いてくれたのは記憶にある。
「あんたが悪いのよ」
「え――――――んっ」
香ったのは、ストロベリーショコラ。彼女がカフェで飲んでいた冬季限定ドリンクのフレーバー。
「えっ、嘘、なんで……なんでキスしたの」
芹香は答えてくれない。どうしてそんな顔しているの。なに、自分でしておいて勝手に驚いているんだ、この子。それに赤くならないでよ。そんなのおかしいでしょ。
「莉海が悪いんだから」
芹香はか細い声で私をまた責めて、眼鏡をかけ直す。
それからしばらく見つめ合った私たちは、やがてぎこちない足取りで駅へと歩きはじめた。視線は合わせない。もう言葉も交わさず。歩くリズムも狂って。
思い出す。あの時、私が言ったこと。
昔、純玲とキスをしていた芹香とキスすれば間接キス扱いになるかなってそんなふうなことを口走って、それで芹香はそんなのありえないって否定した。したはずだ。しっかりしなさいって、落ち着きなさいだっけ、ともかくキスはしなかった。
私も驚いていた。
芹香の行動については、純玲との聖夜の口づけを間接的に味わいたかったからで説明がどうにかつく。
けれども。
私が不意打ちのキスを拒めずに、それを受けたあとで気持ち悪くなるどころか、こんなにドキドキしているのはなぜ。
優しくないキスが甘ったるいなんてどうかしている……。
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