第22話
星の光よりもはっきりと、その声が届いた。
夜空から彼女へと視線を移す。横顔が正面に変わる。いたずらが見つかったときみたいな面持ち、それから咳払い。私は話の続きを待った。
「一カ月余りというのは、交際期間としては短い部類よね」
純玲は指折りをしてからそう言った。そうしてみせただけで指で数えていないのだとはわかった。
「売り言葉に買い言葉って具合に喧嘩して、別れ話がトントントンと邁進したのではなくて、円満ってふうでもないの。そうね、三学期にでも演劇部内のお姉様方から呼び出しを受けてこってり絞られるかもしれないわね。ちょっとした魔女裁判。舞台に立ち慣れていないし、法廷には一度も立ったことないのによ?」
星座をなぞるように純玲は話す。
でも私にはできあがるそれが、つないだ線が何にも見えない。
「気まずくさせてごめんね。何をどこからどれだけ話せばいいのか。よければ莉海から質問してくれる? 私はなるべく真摯に、うそ偽りなく答える。安心して。いつもふざけていたって、やるときはやる人間よ、私は」
唐突な質疑応答の時間。そんなの設けられても。
「……昨日のデートで、何があったの?」
問うべきことを問う。物事の在るべき順序に従う。
問いたいことは別にある。いくつか。
たとえば、今日はどうしてあんなに楽しそうだったの。あれは空元気だったの。それとも彼氏さんを愛していなかったの。その別れはあなたをどれだけ傷つけた? それとも無傷でいられた? 私の気持ち、本当は気づいている?
「楽しい時間を過ごしたわ。嘘じゃない」
純玲が髪をかきあげ、右耳を露わにする。今日初めて風にあたるそれにはピアス穴の一つない。興味はあるわ、と前に話していた。
「昨日のデートはたしかにデートらしかったと思う。もしも私たちがもっと長く付き合っていれば、いいえ、そうでなくても互いにそうしたい欲求か少なくとも私の側に受け入れる気持ちがあれば、肌を重ねるにはうってつけの日取りだったわ。初体験がクリスマスイブだなんて上出来よね。でも、そうはならなかった」
純玲は歩きだす。ゆったりとした歩調。
「誤解しないでね。彼に迫られたわけではないの。彼は紳士だった。紳士、それは十七の男の子にあてがう言葉にしてはいくらか堅苦しいというか、舞台衣装に近い。それなら、奥手だとか初心だとか、そういう表現の方がいいのかしら。とにもかくにも彼とは昨日、月が空に高く昇る前にデートを終えることとなった」
四歩先。振り返った純玲が私を手招き、私は自分が足を止めているのがわかった。彼女との距離を縮める。そして二人で歩きはじめる。
「莉海は私に一度も訊ねなかったけれど、私は彼とキスはすませていたの。すませる、ってのもおかしな物言いね」
私は「そうなんだ」と呟いた。
何か反応を示さないと、先に言ってしまわないと、代わりに「駅でしているのを見たよ」と口を滑らしそうだった。たとえそうしたって、純玲は許してくれるだろう。状況を説明すれば。私も芹香さんも見たくて見たんじゃない。
「昨日、別れ際に、ええと、つまりは予定していたデートが平穏無事に終わって解散する時になって、彼は私を人気のない場所へとそっと手を引いた。察したわ。急に静かになるんだもの。彼は、私に負けず劣らずのおしゃべりなの。それがふっと、黙り込んだ。周りの空気が失われたみたいに。それで手頃な場所まで来て、彼が私に『していい?』って聞いた。ねぇ、こういうのって何回目から聞かなくなるんでしょうね。きっと一度目であっても言葉を交わさずにいられるカップルも多いだろうに、彼はまた聞いてきた」
私は歩くことに集中した。純玲の声は嫌でも耳に入ってくる。だから、あとは足を止めないことが重要だった。次は手招いてくれないかもしれない。
「ふとね、思ったの。――――ちがうなって。わかっている。無情よね。ジャン・バルジャンの生き様とは比べ物にもならないけれど、私が彼にそのとき感じたことを、客観視すればするほど、私って無情な女ね。でも、一度ちがうと感じたらそれまで。彼にキスしてほしくないな、彼とキスしたくないなって」
純玲が彼女の唇を指でなぞり、そして離した。ほんの二秒、合間のシーン。歩きながらも、隣の彼女から目が離せなかった。
「いえ、嫌悪感はなかった。しても何も感じないってわかったのよ。いくらでもできるけれど、そこに特別はないって。彼に素直に話してみた。それで別れることになったの。彼は縋らなかった、決して。もしかしたら、今はまだ私の気まぐれとでも思っているのかも。どこぞの先輩みたいに復縁可能だって」
何度も止まりそうになっていた足はやがて、逆に止まるのを知らない機械になる。私は純玲が話している内容を私なりに考察し、それらしい解釈を試みようとするが、ある一定の段階までくると、ゼロに戻るを繰り返す。ネジの一本、二本を締め直して済むのか、もしくは歯車に潤滑油でも垂らせばいいのか、わからない。
「単に気が乗らなかったって話じゃないのよ。莉海、信じてくれる? 私はね、そのとき直感したの。ああ、私は彼をこの先も本気で好きにはなれないなって。思い返せば、一度目のキスをしてから時間が経ってもその実感がなかったのは、結局、彼が望むだけの好きを私が持っていなかったからなのよね。ああ、大丈夫。何も私は自分の経験を特別視するつもりはないの。世の中には溢れている。試しに付き合ってみたはいいけれど、うまくいかなくてすぐ別れるってのは。そうよね? そのはずなのよね」
私は純玲が彼女自身をあたかも一般化し、正当化さえするのが許しがたかった。彼氏さんとの気持ちのすれ違いなんてどうでもいい。純玲が自らを平凡な中高生の恋愛模様に当てはめようとしているのが気にくわなかった。
だって、そうでしょ。
私は純玲の言葉一つ、行動一つに心揺らされているというのに。どうあがいたって、私の特別であるのに。それをまるっきり蔑ろにして、純玲は自分の体験をどこにでもある一幕として処理しようとしている。
しかも肯定的に。この後「まぁ、いい経験になったわ。役作りにも活かせるかもしれないわね」とあっさり口にして、微笑みを浮かべる気配すらあるのだ。
好きなのに嫌いだ。
三嶋純玲のすべてに恋焦がれていると思っていた。それなのに、聖夜の散歩は私の恋心を歪にさせる。
純玲がこの心を知ったら、と考えてみる。
純玲であれば「何もかもを受け入れるのが愛の証明ではないでしょう? 肩の力を抜きなさいな、莉海。いいじゃない、べつに。恋や愛に翻弄されて、身を滅ぼすのは舞台の上だけでいいのよ。現実はひどく軽くて柔らかくできているものよ。だからこそ沈まないし割れもしない。それって素晴らしいと思わない?」―――こんな感じだろうか。
隣に、彼女がいるのに。私は頭の中で純玲から言葉を授かる。
どうかしている。
「莉海は恋をしている?」
声がした。
それは想像上の純玲から与えられたものではなく。
私は振り返る。なぜなら、今度は私が彼女を数歩置き去りにしていたから。
純玲は足を止めていた。うっすらと暗がりに浮かんでいるその表情はうまく読み取れない。
「今、なんて……」
「参考までに聞いておこうと思って。莉海は今、誰か好きな人いる? よければ教えてくれないかしら」
純玲は一歩私に近づく。微笑んでいた。美しく。ぞっとするほどに。
「ねぇ、笑わないで聞いてくれるかしら。私はね、どうも本当の恋を知らないみたいなの。だから、どんなふうなのか。それが知りたいのよ。人を好きになるって」
「やめて」
口から出ていた。そのとき私は確かに彼女を拒んだ。「え?」と目を丸くしている純玲の口許の笑みがかすむ。
「どうしてそんな……芝居がかった声色使うの。普通に話してよ。できるでしょ……? ここは舞台じゃない」
私はあなたに真剣に恋をしている。それを伝えるのだとすれば、それは作られた舞台の上ではない。お芝居の一貫なんかじゃない。
純玲の顔に動揺がありありと浮かんでいた。
「え、えっと、ごめんね、莉海。一方的に話し過ぎたわ。うん。優しさに甘えちゃっていた。だからその、そんな怖い顔しないで。ね? 私はただ……」
続かなかった。純玲の半開きの唇はしだいに閉じられ、結ばれた。
「私とだったら、どう」
他でもなく自分が発しているのに、それが一瞬わからなかった。夜のしじま、その深淵から浮き上がってきた想いを音にして、私は彼女に届けていた。
「どういう意味?」
純玲が小首をかしげる。私は彼女に近寄った。無垢な瞳。
「私とはキスできるかなって」
「えっ。どうしたのよ、そんないきなり……」
「芹香さんは妹。彼氏さんはそのまま彼氏さん。そして私は友達。もしかしたら、キス自体を特別に思っていないんじゃないかって。誰ともできるんじゃない?」
「まさか、私はそんな」
「もしそうなら、純玲にとっての恋はそういった行為とは別にある。純玲なりの恋を見つけるのなら、別の手立てがいることになる。どうかな、これ。屁理屈?」
「わからないわ」
純玲は伏し目がちに応えた。そしてすぐに「でも」と続ける。
「莉海は私の力になってくれようとしているのね?」
「そうだよ。私は純玲の友達だから」
「……莉海に名前を呼ばれるの、ずいぶん久しぶりな気がする」
そのとおりだった。しかし今は自然と呼ぶことができた。何回も。
私は今、自分とは思えない内なる存在に突き動かされている。そうとでも捉えなくては、途端に一言も発せなくなる。聖夜を拠り所に私は決行する。愛の告白ではない。彼女を騙してキスするつもりなんだ。
「―――してみて。できるものなら。できないなら、それでいい。純玲にとってキスはちゃんと特別で、大切な妹や恋人としかできない。それならそれでかまわないよ」
声の震えを抑えるのに尽力した。その甲斐あって、言い切ることができた。やたら長く感じた数秒の後、純玲は鼻先を軽く掻いて、それから「ねぇ、莉海」と囁いた。
「一つだけ確認。ファーストキスだなんて言わないわよね?」
「昔、親戚が飼っていた大型犬に口許を舐められた覚えがあるよ」
「私は犬とは違うわ」
「知っている」
「でも、知らないんでしょうね」
「え?」
純玲が私の髪に触れ、そのまま後頭部に手を添えた。
「私の友達の中で莉海が一番可愛いわ」
「……馬鹿」
そんなことを今、言わないでよ。
なんでその台詞は素の声で言うんだ。そこはお芝居でいいのに。
「目を閉じてくれる?」
夜は私の頬の火照りを隠すのに役立ってくれるだろうか。
そんなことを考えながら私は目を閉じた。
もしも。
そうだ、もしもこのまま純玲が私に口づけをせずとも責められない。
笑ってあげないといけない。純玲にとって唇を重ねるのは特別な行為で誰とでもするんじゃないんだねって。
仄かに香ったのが、私が手土産にしたバームクーヘンの樹皮の部分にあたるミルクチョコレートだと気づいたのは独りになってから。そして純玲が家を出る前に、芹香さんや三嶋母より先にその箱を開いて食べたのだと悟った。
初めてのキスの味は甘くて切なかった。
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