第21話

 芹香さんからは花が絵付けされている白磁のマグカップを貰った。

 花と言っても主張は控え目、色味は花首より上のみならず茎も葉も藍色で統一されている。菫色と呼ぶには些か濃い気がするけれど、もしかしたら芹香さんは菫色のつもりで買ってくれたんだろうか。いやいや、それこそ純玲じゃあるまいし、そんな言葉遊びじみた心遣いはしないだろう。立場上は恋敵でもあるわけで。

 なるほど、そうであるなら「あんたはこれで我慢して、純玲には近づかないで」というサイン? 無理があるか。どんな被害妄想だ。


「こういうのって、ペアで持つものではないの?」


 純玲がマグカップをしげしげと眺めながら芹香さんに言う。


「なぜ?」

「もちろん、莉海との友情の証によ」

「強要するものじゃない」

「ああ、そういうことね! 芹香としては目に見えるものばかりが大切ではないと言いたいのね? そうね、私が悪かったわ」


 贈られた当人をよそに姉妹で話を進めている様に、つい苦笑いする私であった。カップの縁を指でなぞって自分を持て余す。


「ねぇ、莉海。描いてあるこれ、何の花かわかる? どうせ芹香はそういう意識なしに買ってきたんでしょ」

「花が綺麗かどうかに名前を知っているかどうかって関係ある?」

「うぐぐ、もっともなこと言うわね」


 私はひょいっと手に取り、よくよく観察する。

 めしべや花弁の形状からして、菫やスイートピー、紫陽花やサルビアでないのはわかる。薔薇でも向日葵でもないは確実。そうだ、「~でない」とわかっても特定まではいかない。青系の花の名を頭で挙げ続けているが、モチーフとされているのは必ずしも青色系の花でない可能性もある。


がついていた気がする。商品名、マグカップの後にカッコ書きで」


 適当な花が出てこない私に、芹香さんが思い出したように口にした。


「じゃあ、ネモフィラかな」

「花言葉は?」


 すかさず訊いてくる純玲だったが私はかぶりを振る。芹香さんが「花言葉なんてたくさんあってあてにならない」と助け舟を出してくれた。


「まぁ、お茶でも飲むのに使って」

「そうする。ありがとう」

「ところで例の弓道部の先輩に渡すはずだったプレゼントは?」

「三学期に会ったら、復縁祝いにあげる」

「そっか」


 引き続きプレゼント交換がなされる。

 純玲は芹香さんのバスソルトを受け取ると「お料理の塩加減よりはうまくできそうね」と笑った。純玲が料理に疎いのは知っていたが、関心を持ち、覚えるべきを覚えればすぐに上手になるに違いない。対して純玲は芹香さんにブランケットを渡していた。ひざ掛けサイズ。模様として、シロクマがいろんなポーズをとっていた。防寒具にしてはクールを越してコールド寄りなチョイス。


「なんでシロクマなのよ」

「ペンギンがいるでしょ?」


 純玲が指しているのは芹香さんの部屋にあるぬいぐるみだ。何気に私が会うのは映画観賞会ぶりだ。チェスト上に陣取っている。ストレス発散の用途はなさげで、息災でなによりだった。


「理由になっていない」

「でもね、芹香。ペンギンって南極圏、シロクマってホッキョクグマだからそのまま北極圏が生息地で、二人は自然では出会えないのよ?」

「二頭でしょ」


 ぶつくさ言いながらも、どこか嬉しそうに見えたのは私が芹香さんの気持ちを知っているからだろうか。温度計とどっちがいいかなんてのは考えないでおこう。


 私があげた押し花の栞、その制作過程を簡単に話すと「雅ね」と純玲が言ってくれた。さほど情趣があるとは思わないが、馴染みない人間にとっては押し花そのものが古風で奥ゆかしく映るのかな。無論、それは肯定的な見方。あげる友達によっては、微妙な顔されるのは易々と想像がつく。

 芹香さんはというと、栞を手に取って何度か表裏と返してから「ありがたく頂戴しておくわ」と勉強机の上に置きに行った。

 それから私は二人それぞれにプレゼントを渡す。純玲にはヘアブラシを。芹香さんには若い女の子に売れ筋のハンドクリームを。


「あら、これはもしかしてこの場で梳いてくれるサービス付きなの?」

「えっ」

「砂埜さんからの贈り物は友情の証ではなく服従の証なわけ?」

「そんな言い方はいけないわ。せめてメイドとお嬢様じゃないかしら」

「ど、どうしてもって言うなら……するけれど」


 純玲の髪を梳く? それは貴重な経験で、心躍る提案でもあった。

 だが、芹香さんの視線が痛い。


「でも、えっと、過度な頻度でのブラッシングは髪をかえって痛めるから」

「ジュージュー、パラパラーって?」

「そっちの炒めるじゃない」


 ふざける純玲に芹香さんが容赦なくツッコミを入れる。


「あのね、莉海。私の髪はイレギュラーなブラッシングのただの一回で、すべて抜け落ちてしまうほどやわではないわ」

「う、うん」

「メイド云々は冗談。嫌でなければ梳かしてくれる? 思わず芹香が羨んでしまうぐらいに、優しく、丹念に、愛を込めて」


 私は芹香さんを見た。

 なぜなら純玲を直視できずにいたし、私の顔がどんなふうになってしまったのかを知るためには、鏡でなければ芹香さんを頼りにする他ないと判断したからだ。

 純玲の発言は的を射ているのに本人は番えたのがおもちゃの矢だと思っている。芹香さんが羨むのは、髪を梳かされる側ではなく髪を梳かす側の立場であり、愛を込めてというのは前に「友」や「親」がつくのではなく「恋」がつく。私たちの気を知らないで、純玲はお気に召すままに振る舞う。


「ついでに、芹香の手にもクリームを塗り込んであげて。莉海手ずから」

「え、えっと」

「遠慮しておく。ほら、砂埜さん。何を恥ずかしがっているのよ。さっさとこの我儘な姉の髪を梳いてやればいいでしょ。でも抜け毛をぜったい床に落とさないで」

「それはヴェニスの商人めいた振りね。契約通り髪を梳くがいい。しかし毛を一本たりとも抜いてはならない。人の髪って何もしなくても毎日、百本前後抜けているものなのよ?」

「じゃあ――――梳かすね」


 また蚊帳の外には置かれたくない。

 私は意を決してその新品のブラシをおそるおそる持つと、純玲の背後に回った。顔が見えないだけましかもしれない。後は作業的に、純玲が望むように髪を梳かせばそれでいい。芹香さんがじっと見てくる。純玲ではなく視線は私にある。純玲がここにいる手前、睨みつけてはこない。しかし不機嫌なのはわかる。対して、純玲は鼻歌まじりだ。後で芹香さんが私に話したことには、そのときの純玲は目を閉じていたそうだった。


「こ、こんなものかなぁ」

「ありがとう、これからは毎日頼むわね」


 心臓が止まるかと思った。

 遠回しのプロポーズじゃんって一人で興奮して何も言えなかった。芹香さんが溜息をついて、視線を逸らす。急に振り返った純玲は私を見やって、また上品に笑う。


「もう、莉海ったらなんて顔しているの。嘘よ、嘘」

「わ、わかっているよ」

 

 こんな些細な出来事ひとつで心揺れる自分が恨めしかった。


 純玲の髪を梳かし終えてことが、プレゼント交換の終了の合図となった。

 私たち三人はその後、夕食まで短めの映画を観ることにした。

 お客様だからと純玲が私を真ん中に座らせ、姉妹に挟まれる私。芹香さんはともかく、純玲はごく自然に肩を寄せてくるし。

 準新作扱いされているエンタメアクション映画で、季節感はない。純玲が選んだ。男二人のいわゆるバディもので、恋愛要素は皆無。


「ごめん、トイレ。待っていて。よしと言うまで再生しないでよ、芹香」


 導入パートが終わると、純玲が言って立った。芹香さんは「砂埜さんが待ってくれないかも」と、しれっと言う。急に振られた私は「待つよ」と短く応じた。


 残された私たち。とりあえず静止している画面を見つめる。唐突に、しかし運命的に始まったカーチェイスが終って、事件はまだ始まったばかりだ。


 ぷすっと。

 芹香さんが私の頬を指でつついてきた。


「……怒っている?」


 私は指をのけて訊ねる。


「はぁ。全部に嫉妬していたら、身も心ももたないわよ」

「それ、前に似たようなことをカフェで言っていたよね」

「そうね。半分は自分に言い聞かせていたんでしょうね」


 殊勝な口調で芹香さんは。私はその頬をつつき返す。存外、柔らかい。なんかずるい。


「ブランケット羨ましい、かも」

「それを言うならガリレオ温度計だって、いや、ないわね」


 私たちはぷっと吹きだして笑う。同じ女の子、しかも既に恋人がいる子を想っている者同士。やるせないが、聖夜ぐらい楽しんだっていいよね?




 楽しみすぎた。

 絵に描いたようなクリスマス・ディナーを堪能した。豪勢な料理。「お父さんの胃袋をこれでもかと掴んだのよ」と言うだけある三嶋母だった。

 あの芹香さんの口数が普段の何倍にもなっていた事実からも、彼女が聖夜の晩餐会を享受していたのがわかる。半分は、純玲の普段よりも高頻度で際限なく出てくる冗談に対するツッコミやコメントだったけれど。

 純玲は饒舌を通り越して、噺家めいてきていた。家庭内でも芝居することが多いのか、三嶋母は純玲の演技を見聞きしても、温かな眼差しを向けて笑うばかりで、驚きはしていなかった。

 それにしたって、今日の純玲は外が暗くなるにつれて明るくなる勢いで、夕食後もハイテンションで私たち二人を翻弄しては、楽しげな表情を見せてくれた。

 だから、そう、私も楽しくなって。うっかり時間を忘れた。

 気がつけば帰るべき時間になっていたのだ。純玲が「泊まっていけば?」と平気で言ってくれるも、そういうわけにもいかず、今から帰宅する旨を家に連絡した。さすがに両親とも帰っている時間帯だった。今日の集まりについて実は、軽くしか話していない。心配かけてしまっているだろうか。書置きをしてくるんだった。


 芹香さんの入浴中に、私は帰ることになった。挨拶しておきたかったけれど、しかたあるまい。純玲が駅まで送るわと言いだす。もう遅いから帰り道を一人にしたくないと。でもそれは私も一緒だ。私を送ったあとで、純玲が一人で帰るのはいくら大した距離でなくても万一を考えると怖い。残念ながら三嶋母はお酒―――この日のために用意した夜想曲を名前に持つシャンパンだった―――を飲んでいて、自動車での送迎は無理だった。それにお酒に強い方ではないから道を歩かせたくないとも純玲が言う。


「芹香さんがお風呂から上がってから……」

「温まったあの子をまた寒い外に出すのは気が引けるわ」

「それは、そうだね」


 頼めば最終的に引き受けてくれるとわかっていても、だ。


「それにね、少し話したいことがあるの」

「話したいこと?」

「そう。ああ、そんな気構えないで。莉海に何かしてもらいたいわけではないから」

「つまり聞くだけでいいってことかな」

「うむ。いつも悪いわね」

「ううん、私でよければ」


 いつだって。どんな話だって。

 でもね、純玲。もしも昨日のデートの話、それはあなたのお母さんの前では一切口にしなかったけれど、それを聞いてほしいということなら、あまりいい気分ではないよ。だって、こんなにも楽しい時間の終わりにそんな話って。

 

 芹香さん宛てに短い書置きを残してから、私たちは着込んで外に出る。

 大目に見てね、芹香さん。そう思いながら玄関扉を閉めた。




 閑静な住宅街に立地しており、駅までの道のりにおいても特に煌びやかなイルミネーションが飾られた場所はなかった。その点では聖夜のメロドラマチックなムードはなかったが、それでも純玲のすぐ隣を歩いていると、一歩進むごとに心が弾む私だった。


「あのね、私から先にいいかな」


 私がそう言うと、純玲は「どうぞ」と譲ってくれる。忘れないうちに、下手に先延ばしにして言いあぐねてしまわぬよう、私はこの機会をものにする。と言っても、実質上、経過報告だけれど。向こうから問われると、うまく嘘がつけないだろうから。


「芹香さんの悩み事に関してなの」

「……わかった?」

「ごめん、聞き出せていないんだ。例の予想も確認できていない」

「ああ、うん。いいのよ、莉海。私からすると、あなたたちに芽生えた友情が壊れるほうが今は怖いわ。……友情、よね?」

「そこは間違いない」


 二人を繋いでいるのはあなたへの秘めたる愛情だとしても。


「ん、ん。私からはこれだけ。それで、話って?」

「――――良いニュースと悪いニュースがあるわ」


 いつか聞いた覚えのある台詞。そのときにもたらされた情報は忘れようがない。冬の夜の澄んだ空気を吸い込んで私は「またなの?」と少しばかり強がって、あたかもなじるみたいに口にした。


「どちらから聞きたい?」


 いいニュースだけを聞くのは許されないのかな。ダメだろうな。純玲が二人きりの状況を作って、したかった話なんだ。自慢話やのろけ話のみだとは思えない。

 うん? ああ、そうか。前と同じだ。純玲にとっていいニュースは私にとって「良い」とは必ずしも言えないんだ。


「じゃあ、悪いニュースを。良いニュースを聞いて別れたほうが、お互いに気が楽なはずだから」

「優しいのね、莉海は」

「知らなかった?」

「ふふ、知っていたわよ」


 足を止める純玲。空を仰ぐ。つられて私も見上げた。星空が広がっている。

 花と同じだ。ふと思った。一つ一つの名前を知らずとも、それが綺麗なことには変わらない。ただ星はずいぶんと遠くにある。すぐ横に並んで見えるあれらにも、私が一生かかってもたどり着けない距離があり、物悲しくも感じるがそれもまた人の勝手だった。星々が互いに想い合っているかなんて誰がわかる。

 

 私の感慨は純玲のたった一言で砕かれる。テンペストが巻き起こる。それなのに純玲は、まるでケーキを切り分けるのをちょっと失敗したときぐらいの調子で、言ったのだ。


「彼氏と別れちゃった」

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