第20話

 陽炎ゆらめくグラウンドを思い出す。

 

 花の香りは遠く、砂糖菓子の気配はなく。

 身体中から噴き出た汗が服をじっとりしめらせ、それが私をひたすら包み込み、まとわりつき、何もかも脱いでしまえたらいいのにと考えるも、理性がそれを却下し、一方で私自身を敢えて含めて誰も自分の裸なんて興味ないのだと自虐し、結局は仰いだ空に浮かぶ容赦のない太陽に屈して、しばし休むとまた走りだした。

 

 中学一年生の夏だ。肌の色も髪の長さも今とは違った。

 

 顧問にはくれぐれも熱中症で倒れてくれるなと他の部員と比べてもきつく言われていた。監督責任というやつか。具体的に陸上競技について指導できるわけではないから、土曜日の部活であっても定期的に顔をほんの少しの時間出すだけで、おおよそは冷房を利かせた部屋にいた人だ。必然的に、上級生が下級生の部員たちの面倒を見ることになる。体調管理もそこには含まれ、したがってむやみやたらに走り続ける私には度々、嫌味が槍みたいに飛んでくる。春の頃はがむしゃらに走る後輩への心配だった気もするが、夏頃になると変わっていた。せめて陸上部らしく速く走れたらよかったが、どの距離においても人並みかそれ以下。体力がまるでつかないのが不思議を通り越して不気味であった。

 

 とはいえ、そんなのはどうだっていい。

 逃れようと走っていた。走っている時しか生を感じられない頃が確かにあった。 

 何から? あの夏、私を見下す入道雲を巨大な怪物と捉えていたのではない。むしろ地に在り、私をどこまでも追いかけてきていた。

 それは影。死の影。じりじりと、寄っては私の身を焼くを繰り返す。逃れるためには足を止めないこと。張り裂けそうになるまで騒がしい心臓を頼りに、走る、走る、走る。

 

 もがけばもがくほど、忘却は遠のき、つまり影は身に絡み、深くまで潜み、息づき、根付くのだと理解したのは十五歳を迎えてからだった。




 とくに寄り道もせずに帰宅すると、芹香さんからメッセージがあった。

 例の弓道部の先輩が、喧嘩別れした彼氏との復縁になんと成功したそうで、三嶋家でのクリスマスパーティーをドタキャンしてきたのだという。芹香さんのことだから「よかったですね」と無感動に送り出したのだろうな。

 代わりに誰か他の人を呼ぶのかと芹香さんに確認をとる。あてがないし、あったとしても呼びたくないとの返答がくる。

 もしや三嶋家オンリー、というより姉妹水入らずのほうがいいから、私にも出席を辞退するよう連絡してきたのかと伺うと、通話の着信があった。


「ねぇ、もしそうだったら来ないの?」


 開口一番に芹香さんは。


「行くよ。私は純玲に招待された身で芹香さんは関係ない」

「だったら、いちいち人を性悪みたいに言わないで」

「ごめん。穿った見方しちゃった」

「それ、本来の意味は『物事の本質を的確に捉えた見方』なんだけれど」

「へぇ。じゃあ、間違いなんだ。芹香さんは素直になれない不器用な人ってだものね」

「あんた、覚えていなさいよ」


 電話の向こうの芹香さん、きっと眉間に皺を寄せているに違いない。


「真面目な話、招待客が私一人ってなると肩身が狭いよ。もしも本当に芹香さんが……」

「純玲がどう望むと思う?」


 最後まで言わせてくれない。呆れた調子で遮ってくる。


「今回に限って言えば、芹香さんにお友達を増やすためってのがあったから、私が何か適当に理由をつけて来なくなってもいいかなって」

「会いたくないの?」

「会いたいよ、純玲に。芹香さんではなく」

「わかりきったこと言わないで」

「訊くのが悪い」

「はぁ。いちおう報告しておこうって思っただけだから。純玲には直接言っておく」


 私は了解する。そうして「それじゃ、また明日ね」と通話を終えようとしたら彼女は「ねぇ」とまだ話をしたそうな雰囲気を醸し出した。


「少し話に付き合ってよ。なんでもいいから。一人でいると、その……」

「気が狂いそう? 純玲がデートしているから」

「……否定はしないわ」

「わかるよ。でもね、芹香さん」

「なによ」


 言うか迷った。

 芹香さんはどうやら独りでの時間をつぶすために連絡をよこして、電話までかけてきたらしかった。秘めた想いを不本意ながらも私と共有したのが、彼女にそうした可憐な行動を実現させていた。ある意味、わかりやすい人。

 そんな彼女と気まずくなるのは避けたいが、しかし私が感じていることも知っておいてもらいたい。友達なのだから。

 そんなわけで言うことにした。


「芹香さんの声」

「うん?」

「電話越しだと、ますます似ている。錯覚してしまいそうになる。ううん、たぶんする。今日は余計に。それはつらいの。わかってくれる?」


 音が途絶えた。しかしまだ彼女とは繋がっているみたい。


「じゃあ、また明日」


 私がそう言うと「ちゃんと時間どおりに来なさいよね」と少しどもった声で彼女が返すのを耳にしてから、通話を終えた。

 スマホを投げそうになった。ぐっと耐える。大丈夫と自分に言い聞かせる。

 好きな人が自分と未だに顔合わせもしていない輩とクリスマスイブにデートしているからってなんだ。その妹と傷を舐めあうなんてまっぴら御免だ。




 二十五日の午後三時に三嶋家を訪れると、姉妹ではなく母親が出迎えてくれた。

 あの姉妹の母親だというのはその顔で一目瞭然で、若々しく美人だった。二十代後半……はさすがに通じないか、などと失礼なことを考えた。四十前後と思しき年相応の美人だった。父親は今日も仕事があり、夜遅くまで帰ってこないのだという。べつに私が挨拶したってどうって話だ。

 

 私は手土産のバームクーヘンが入った箱を渡して恭しく挨拶した。市販品だ。小さく切り分けられて個包装されている。それなりに日持ちするので、年末に家族で団欒しながらでも食べてもらえたら幸いだ。これを買うお金は親から出たものである。

 クリスマスに相応しいお菓子を自作するのも考えたが、お菓子作りは日曜日以外にはしたくない。クリスマスに合ったデザートでも買って差し入れるのありかなと頭にあったが、実現されずに当日を迎えたのだった。

 

 三嶋母に促され、玄関にあるコートラックにコートをかける。外の気候についてお決まりのやりとりがあり、私はリビングに案内された。


「莉海、よく来てくれたわね。焦れたジラフの心でいたわよ」


 ソファに腰掛けている純玲が私を見つけ、手をひらひらと振って言った。案内してくれた三嶋母は「紅茶を淹れるわね」と言い、立ち去った。


「えっと、キリンのように首を長くして待っていたってこと?」

「そう。知っている? キリンってかなり高血圧だそうよ。心臓から脳まで血液を押し上げないといけないから。それでね、たとえば水を飲むために頭を地面まで下げたときに急激に血圧が変わらないよう、ワンダーネットっていう特別な仕組みを持っているらしいのよ」

「へ、へぇ。具体的にはどんな仕組みなの」

「それは忘れたわ」


 きりっと。なぜそこで凛々しくなる必要があるのか。いや、ない。私たちは笑い合った。

 突っ立ている私を見上げる純玲が「ほら、座って、座って」と隣をぽんぽん叩いた。四人掛けのソファーだ。家族みんなで使える代物。父親の図体しだいでは、多少狭いだろうがそれもまたいいのだろう。

 正面には大きなテレビ。趣味のいいラグマット、鉢植の背の低い観葉植物、壁にかかった風景画。デザイン性の高い掛け時計に、家族写真の入ったフォトフレーム。どこもかしこも象徴的だな、なんて思いながら私は純玲の隣に腰掛けた。


「キリンって首だけではなく舌も長いのよね。滑舌いいのかしら。共演したら聞いてみたいわね。サバンナ公演、素敵だわ。いつでもホットな舞台よね」

「長ければいいってことはないと思う」

「まぁ、私って長い物には巻かれよってタイプでもないから」


 純玲は私にテレビのリモコンをぽんと渡してくる。純玲の態度からして、別段、面白い番組はこの時間帯に放送していない様子だ。それに私は家でテレビを観る習慣はない。とりあえずチャンネルを変えていく。

 それはそれとして、純玲の服装。

 外出向きのおめかしこそしていないが、だらしなさがまったくない。上はアイボリーホワイトをしたケーブル編みのセーターで、下は明るめのブラウンをしたチノパンという格好だった。私はと言えば、登下校時にも着ているコートの下は、きれいめなワンピース姿だ。


 彼女に見蕩れて、リモコンを操る手が止まる。画面に意識を向ける。海外制作のドキュメンタリー番組。若くして難病にかかった女性の挑戦。彼女の夢を現実にするため、多くの人が力になる。彼女には求心力がある。


「莉海? 真面目なのはいいけれど、今日は湿っぽいのはなしにしましょう? 人の生命力は偉大だし、人の繋がりや絆の大切さもよくわかっているけれど」

「あ、うん」

 

 私は別の番組に変える。

 地方ニュースでは幸いにも牧歌的なトピックが扱われていた。


「どうする? まだ時間あるわよね。って、この時間に呼んだの私か。部屋に行く? 私か、芹香の部屋。そういえば聞いたかしら、あの子が連れてくるはずだった弓道部の先輩の件」


 首肯する私に純玲は肩を竦める。


「芹香ったら、一ミクロンも気に留めていなかったから言ってやったの。事情がどうであれ、土壇場キャンセラーは不義理であるゆえ、報いを受けるべきなのだわって。たとえば、仲を改めた二人が口づけを交わそうとしたときに邪魔が入る、みたいなアクシデント」

「どんなふうに?」

「そうね、こんなのはどう。昨夜から明け方にかけて忙殺されていたサンタクロースが仕事を終えての一杯で酩酊して、二人に絡んでくる」

「酔っ払いのサンタなんて、子供たちの夢を壊しちゃうね」

「いいのよ、サンタだって飲まなきゃやってられないときがある。サンタ苦労すってね」

「おあとがよろしいようで」


 三嶋母が紅茶を淹れてきてくれたので、部屋に行くのはよして、しばし三人で歓談する。三嶋母は学校での純玲、それから芹香さんについても私に訊ねる。変哲のない返しをする私。若い頃や親しい友人とはどうだか知らないけれど、純玲みたいに気まぐれに冗談をしきりにふかすことはない人だった。あと、芹香さん以上に紅茶の淹れ方が上手だった。そもそもの話、うちには来客用のティーセットなんてないぞ。




 その後、私と純玲は芹香さんの部屋に突撃した。そうは言っても、しっかりとノックをして、返事を待ち、入った。

 そして夕食の用意ができあがる前に、プレゼント交換をしてしまうことにする。思えば、招待してくれた純玲が私の分も何か準備してくれているものだと初めから信じ込んでいた。その信頼と信愛はきちんと返される。

 ラッピングされた箱。「開けてみて」と言うので、そわそわしながら開封する。丁寧に。雑に破ってしまわないように。縦長だ。高さ三十センチの直方体。けっこう大きい。それに重さもある。なんだろう?


「これは……?」


 出てきたのは高さ二十センチ余りの透明なガラス製の円柱。直径は四、五センチ程度だが、中にはカラフルな液体の入った球状の物体がいくつも浮かんでいる。

 私が純玲を見やると、純玲は芹香に「知っている?」と目でうかがう。


「ガリレオ温度計よね、これ。実用性の低いインテリア」

「後半は聞かなかったことにするわ。これはね――――」


 純玲は箱に入っていた取扱説明書をするりととると、それを読みながら説明してくれた。諳んじられるほどには詳しくないようだ。


「莉海、勘違いしないでね」

「え?」

「私だって最初からこれだって決めていたわけではないの。ハンドクリームやリップクリーム、ちょっとお高いハンカチやお揃いのポーチ、そういうのも候補にあった。もちろんよ」


 うんうんと肯きながら純玲は語る。

 芹香さんがやれやれといった表情をしていた。


「けれど、そういうのって記憶に残らないかなって。クリームだったら使い終わったら捨てるし。誰から貰ったかって何年かしたら忘れられるわよね。その点、この子はなかなか珍しいでしょう、少なくとも高校生のクリスマスプレゼントにしては」

「あのさ、ふらっと入った雑貨店で衝動的に買ったものじゃないの?」

「まぁ、失礼しちゃう!」


 芹香さんの指摘に、純玲はますます芝居がかったリアクションをした。でも、すぐに「ほんとに違うわよ?」とはにかんで言い添えた。


「ありがとう、嬉しいよ。大切にする」


 浮き沈みのするガラス球。温度が書かれた金属製の重りをつけている。

 忘れられない贈り物になると思った。でも、彼女への想いはいずれ風化して淡い色すらつけるのを恐れる未来が待っているのかもしれない。アバウトでもいい、私の想いの温度や密度が測れたのなら。それが脆い器を壊して溢れないように、もっと気をつけられるのに。 

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