第19話
今度は逃がさない。ぜったいにだ。
実姉への恋心を告白した芹香さんは呆ける私を置いていこうとした。私はその腕を掴む。が、恐ろしいほどの力で振りほどかれる。私は踵にぐっと力を入れて後ろに倒れるのを防ぐ。今はむしろ前のめりになる必要がある場面だ。逃がすものか。
私の形相に尻込みしたのか、芹香さんがぎょっとしている。足を踏み出し、その場から離れようとする。
けれど焦りすぎたのか、彼女の足はもつれこみ、転げそうになる。
私は精一杯の力でその細腕を引っ張り、肩をこちらに寄せ、それから逃がすまいと後ろから抱きしめる。傍から見れば熱い抱擁。
「詳しく教えて」
私は芹香さんの耳元で囁く。
あまりに冷たい声に、自分が出したか自信が持てなかった。
「い、や、よっ!」
溜めて返す。強がって。これ以上は明かしてたまるかと。芹香さんは必死に私から離れようとする。所詮、園芸部女子の力では弓道部女子には敵わない。いやいや、双方にどんな力があるか皆目見当がつかないが、とにかく私が芹香さんを抱きしめられていたのは、十五秒にも満たない時間だった。
「逃げないで。……逃げたら、純玲に言う」
これまたぞっとするほど冷ややかな調子で私は突きつけた。芹香さんは私に向き直り、渇いた笑い声をいくらか立てて、それから「まぁ、そうくるわよね」と呟くと乱れた髪を直し、そしていつもどおり眼鏡の位置を指で整えようとしていた。でもその指は震えていて、眼鏡がかちゃかちゃと揺れる。
諦めて、彼女は指を離すと、その場で大きく息を吸った。吸って、吸って、いつまで吸うのかと思っていると、ようやく吐いた。
「あんた、軽蔑した?」
声まで震えて、芹香さんは今にも泣きそうな顔で笑っていた。
「純玲に恋するあんたを気持ち悪いって言っておきながら、実の妹である私は純玲に恋している。美しい姉妹愛じゃないのよ、これ。それは私が一番わかっている。そうね、たとえば興奮する。あの子の裸に。いいえ、べつに裸でなくても。おかしくない? 遺伝子ってそういうふうにできていないんじゃないの。なんで姉に欲情しなきゃならないの。思春期ならではの一過性のものだとしたって、相手が姉って異常よ。加えて言うなら、同性なのに。ねぇ、聞いている? 砂埜さん、聞いてよ……」
彼女の膝が笑う。立っているのがつらいのだとわかる。今にも蹲りそうだった。顔は徐々に俯き、それっきりだった。声の震えと渇いた笑いはしだいに濡れていった。乾ききった夜風が肌を刺す雪降らぬ夜に、芹香さんは溶けてしまいそうになっていた。
「駅、行こう。ここじゃ寒すぎるから」
そうしないと彼女をここに留められなさそうだったから、私はまた抱きしめた。前から軽く、まるで雪を抱くように。背中に手を回せず、彼女の顔を向かせることもできず、もう冷たい声も出せずに。
駅の小さい待合室で私たちは横並びで座った。彼女を私が座らせた。ふらふらとホームへ行こうとするのを引きとめたのだ。
大丈夫、電車を一、二本逃したところで終わりじゃない。三本目はまずいかも。こういうとき田舎だと困るな。
「あれ、嘘なの」
私が何から、そしてどのように彼女から話を聞きだすか思案していると芹香さんがぽつりと呟いた。「あれ」というのが、芹香さんの純玲に対する並ならぬ想いを指していないのはわかった。じゃあ、「あれ」ってなんだ。
「ストーカー」
芹香さんがまた掠れた声で口にして、それで私は彼女の嘘を察した。
「純玲に付き纏った後輩の女の子はいなかったんだね」
背中を丸めて、鼻から下をマフラーで覆って芹香さんが首肯する。初めて会ったときと比べて伸びた前髪は垂れ、彼女の表情を隠していた。
あの日、芹香さんが話した純玲のストーカー被害の件。あれはそうか、私を純玲から距離をとるように仕向ける嘘だったんだ。同性からの重すぎる感情をぶつけられ、嫌悪感を抱いた経験が純玲にあるのだと話しておけば、下手な真似はできないと考えて。
あの時点では私の人柄は多少なりとも純玲から聞いたことがあっても直接は知らなかっただろう。だとすれば、私が自分の恋心に関して芹香さんの干渉を許さず、脅迫に揺るがず、正々堂々と純玲に恋愛的アプローチを仕掛けていく人間だったらと、そこまで推測しての、それを阻止するための嘘だったのかもしれない。
ううん、それよりも。
私はあの日の芹香さんの涙声を思い出していた。
純玲が初デートの帰り、駅で彼氏さんとキスしたのを私たちが目撃したときのことだ。そのままの意味だったのだ、「ショック」というのは。好きで好きでたまらない純玲の唇をよく知らない男に奪われて。立ち尽くしてしまった私をどうにか脇道まで引っ張って、冷静な振る舞いをして、それでもそのポーズは貫き通せずで。だったら、翌日の風邪もそのせい?
他にもあるのだろう。
芹香さんが純玲に対して姉妹愛に不相応の感情を秘め続けているのだと知ったことで、これまでの芹香さんの言動から見えてくる、彼女なりの愛と苦悩が。
中学一年生のときのキスの件。あの頃、芹香さんはどんな想いで純玲の口づけをその身に受けていたのだろう。
けれどもそれら一つ一つを顧みたところで私が得られるものなんてない。強いて言えば虚無感だけだ。そうだ。そのはずなのに、どうしてだろう。
これまでになく芹香さんを近くに感じる。
自分と似た女の子だって。もちろん、理屈づけるならこうだ。私たちはお互いに、同じ女の子を好きになって、それから最近、失恋した。
ちがうか――――失えずにいるんだ。それが真実だ。
芹香さんは「この瞬間も」と言った。そうだよ、私たちは今だって純玲を特別に想っている。決して手を伸ばせない、意気地なしのくせして。
芹香さんは純玲を好きだけれど、その好きを全力では叶えようとしていない。叶えたい気持ちはあっても、それがいけないと抑える気持ちもあるのだと見て取れる。
また、あれこれと考える。
芹香さんが演劇部ではなく弓道部に入っている理由。純玲と違い、バイトしている理由。それは弓道具を買うためだけ? 芹香さんに友達が少ない理由。それは純玲のあの想像ないし憶測が事実に等しかった?
考えたくないのに、頭はちっとも休まらない。
小さな待合室、他に誰もいない。いつもなら数人いるのに。座り心地の悪い椅子。ここが私たちの舞台なんだろうか。次の台詞は何だ。私は芹香さんにどう言うべきなの。これからは恋敵だね、なんて。
ぺたりと。手に何か冷たいものが当たって、驚いた。
それは芹香さんの手だった。私が膝に置いていた手にそれが触れていた。「ねぇ」と芹香さんはほとんど吐息がかかる距離で、微かな声を私に届ける。マフラーをとって、その唇には噛んだ痕をくっきりつけたまま。
「純玲には言わないで。お願い」
絞り出した声の痛ましさに胸がチクリとする。知らなきゃよかった。追いつめなきゃよかった。私のせいだ。
「言わないよ。約束する。芹香さんも約束してくれる? 私の想い、純玲に勝手に言わないって」
「うん……」
耳がくすぐったい。私は彼女と距離をとろうとするが、彼女が重ねた手を握った。強く。何かを訴えかけるように。そして、その赤らんだ唇から漏れ出る声に力がこもる。
「ねぇ、諦めるつもりはない?」
それは「純玲のことは諦めなさい」を言い換えた台詞ではなかった。そうではなかったのだ。芹香さんはその潤んだ瞳で、まっすぐに私に問いかけた。純玲への恋を諦めてしまうか否かを。
私は力なく笑う。全身がこわばっていたのが、そのときになって脱力感がやってきた。
「私みたいな、恋愛経験値極少雑魚女は自分で恋のアクセルもブレーキも踏めないっていうか、もとより搭載していないの。ろくなエンジンだって積んでいない。いつだってガス欠に怯えている。ハンドル掴むより、同じ丸いのだったら、甘いドーナツにでもかぶりつくのが性にあっているの。そう思わない?」
すらすらと。
私から出てきた言葉に、芹香さんはふふふと笑った。あの子みたいに。
今のは他でもなくあの子を真似た台詞だった。
「私なんかより口車が上手いわね」
「それは芹香さんが口下手なだけでは」
「バイトではうまくいっているから」
「不思議だよねぇ」
「調子に乗らないで」
「そういうの、もっと拗ねた顔で言ってくれたらいいのに。きっと可愛い」
「あんたってほんと、なんていうか、その……お人好しね」
「そろそろ名前で呼んでくれてもいいよ?」
「あんたが純玲を諦めない、諦められないならさ」
私がちょっと勇気を出した提案を流して、彼女は背筋を張った。いつもの彼女らしい落ち着き、その半分が戻っていた。いや、七割かな。
「私も諦めない。だから、あんたと馴れ合うつもりはない。でも」
「でも?」
「……今日はありがとう。あんたでよかった」
こっちが恥ずかしくなるほどに生真面目に。これも芹香さんの流儀、か。純玲とは違う。けれど、惹かれるところがある。友達になれた気がした、壁を砕いて。一部であっても繋がった。そう信じられた。
「買ったから」
私は何か気の利いたことを言おうと探して、見つからなくて、とりあえず報告しておいた。場違いであっても。
「何の話よ」
「芹香さんの分のクリスマスプレゼント。最初はゼロ円の品だったんだけれど、それだけってのもなんだかなぁって思って」
押し花の栞は純玲の分も作ったことだし、姉妹に渡せばいい。私の分もある。つまり、三人の栞だ。生花だから同じように見えて同じ花などなく、お揃いと言うには花の位置取りや構成も差異があるけれど。それに、先輩も作っていたし、先輩の家庭教師(仮)さんの分もあるんだった。
「あっ。いいの、いいの。芹香さんからは何も貰えなくて」
「あげるわよ」
「本当?」
「だって、貰う一方じゃ純玲に呆れられるでしょ。それは嫌だから」
一切悪びれず、答える芹香さんだった。
「なるほど。例の弓道部の先輩には?」
「そっちもあの日モールで買った」
「あれ、もしかして……私の分もそのとき?」
「気づいていなかったのね。まぁ、そうと言わなかったのは私か」
やられた。これでは私が最初は芹香さんへの贈り物を安上がりで済ませようとしていたのを告白しただけではないか。
「楽しみにしておくわね」
「へ?」
ずずっと鼻をすすって芹香さんは立ち上がる。
「去年はあんまり楽しめなかったの。受験生だってのに、中学最後だからーって純玲は親しい友達の家にお呼ばれして遅くまで騒いじゃっていた。私はとくに美味しくもないショートケーキ食べて、あとは部屋で勉強していたわ。実態としては純玲を想って、ぼんやりしていた」
もしも純玲と同じ学校に通えなかったら狂っていたかもしれない、あるいはこの恋に踏ん切りがついたかも。そんなふうに芹香さんは話した。
それから私も立ち上がり、ホームへと歩いていく。見計らったように、私が乗るべき電車がすぐに来るのだった。
そして迎えた二十四日の終業式。日本で言うところのクリスマスイブ。
純玲とは教室を出たところで別れた。別の友達が私に「あれ、彼氏いるよね?」と言い、何か知っているかと聞いてきたが「いてもおかしくないよね」とだけ反応しておいた。事前に私は、純玲が例の演劇部の彼氏さんと放課後に合流するのを聞いていたのだった。
彼氏さんを迎えにいく純玲。さほど嬉しそうにしていなかったのは、緊張があったからだろうか。クリスマス。それは恋人たちを普段よりときめかせ、大胆にさせてしまうと聞く。
純玲は彼氏さんへのプレゼントを「秘密よ」と話していた。こちらから訊いたわけではない。純玲が自分からそう言ったのだ。彼女が秘密と口にするとき、それは蜜のように甘い響きを持っていた。
彼女との秘密に恋焦がれながら独り、私は帰路についた。
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