第18話

 ふとした瞬間に、それまではおぼろげだったどころか、深くに埋まっていた記憶が鮮やかに甦ることがある。ぼこっと姿を現す記憶に驚き、惑う。早すぎる埋葬に逆らう記憶の神秘。そうした経験は誰にでもあるだろう。

 

 クリスマス前にバイト先で、レジにやってきた人がタイトルに「人魚姫」を含む小説を一冊購入した。季語の中に人魚姫が存在するか知らないけれど、私にとってそれは夏を想起させる語で、それというのは十中八九、海のイメージと結びついているからだ。とはいえ、海を四季折々で違うさざ波を与えてくれる、あるいはどんなときでも変わらぬ広く大きい包容力のあるものだと捉えてもいいわけで。つまりはそこに季節感を見出すのは人の勝手だ。

 その後、またお客さんがレジにやってきて今度はタイトルに「氷」を含む小説を狩買って帰った。凍てついた水。それはやっぱり冬のイメージ? でも、かき氷だったら……そんなふうに考えて、先の人魚姫とかき氷とが合わさり、私に夏のある日を閃光が瞬いたように思い起こさせた。


 それは数カ月前の夏。

 純玲を含む何人かの友達と県外の大きな屋内プール施設を訪れた日のことだ。そのとき、純玲は私に芹香さんについて少しだけ話したのを今になって思い出したのである。


「ある意味、人魚姫なのはうちの妹かもしれないわ」


 純玲がそう口にしたのは、たしか私が純玲の泳ぎぶりを人魚姫に喩えたからだった。私はその優美な遊泳に自然と「姫」をつけていたのだ。

 その時の純玲はいわゆるスクール水着や競泳水着ではなかったものの、お洒落に特化した水着でもなかった。プールに来たからにはぷかぷかと浮いているだけではつまらないと彼女は豪語し、ざぶざぶと泳いでいたのだった。泳ぐ前後の髪の手入れは念入りにしないといけないわねと真剣に話していたのを覚えている。

 メインエリアの流れるプールは人が多くて、純玲が別のプールに移ったのを私が追いかけてその泳ぐ様を眺めていた、そんなワンシーン。


「妹さんは泳ぐのが得意なの?」

「その逆よ。ほとんど泳げない」

「じゃあ、どうして人魚姫?」

「人間の足を得るために魚の下半身を対価にしたのよ」

「代償は美しい声じゃなかった? 人魚姫は王子様に会いに行こうと人間の足を欲しがったんだよね」

「そうだったわね。あの子、口数少ないほうだし、ちょうどいいわ。こっちが妬んじゃうぐらい足、細いし。弓道部って美脚効果のある練習しているのかも」

「王子様とはうまくいきそう? 泡になって消えなさそうかな」

「さぁ。今のところ相手がいないみたい。ああ、それだと足を欲しがらないわよね。海底での生活。そのほうが幸せなのかしら、なんて。ふふ、こんなのに真面目に付き合ってくれるの莉海だけよ」


 私はそれになんと返したのだったか。

 純玲だからだよとは言わなかった気がする。私がまだ芹香さんの名前を覚えていなかったときの話だ。それでも純玲の妹というだけで、やはり姫をつけるに相応しい女の子を頭に思い描いていたのだろう。

 その後で、純玲たちといっしょに売店でかき氷を買って食べたんだ。頭がキーンとなって、それさえも純玲は風物詩として楽しんでいるようだった。かき氷に頭抱える人魚姫。

 もしも来年の夏にまた、プールに行くことになったのなら。

 そのときはどんな水着を彼女は着るのだろう。また泳ぐのが醍醐味だとはりきって泳ぎやすいタイプを選ぶのか、それとも彼氏さんが期待するような水着を身に纏うのかな。

 私はちゃんと浮かんでいられるかな。ぶくぶくと沈んで、水底から望む純玲の姿はきっと綺麗で私は声を失いそうだ。でも何も得られない。

 私の王子様はお姫様で、近くて遠い。




 バイトが終わって芹香さんと並んで帰る。明日は終業式だった。あのショッピングモールでの一件以来、仕事上で必要な会話しかしていない。学校ではまず会わない。廊下でだってここ数日はすれ違わなかった。謝罪のメッセージひとつ、送れずにいた私が今、彼女の隣を歩く。

 似たような色のマフラーをしている私たち。グレー系。白は汚れが目立ちそうだから、と前にお互いの意見が合った。


「芹香さん、マリンスノウって知っている?」

「ずいぶん唐突ね」


 よかった、スルーはされなかった。敢えて脈絡がなく、興味を惹きそうな話題を取り上げてみたのが功を奏した。


「えっと、こう寒いと雪降りそうだなぁって、それで海中でも降るんだよなぁって」

「でも、その正体ってプランクトンの死骸なんじゃなかった?」

「そうなの?」

「知らないで言っていたの」

「あ、いや、芹香さんならきっと知っていると思って話を振ってみた」

「またテキトーなこと言って。ちなみにマリンスターってのもあるわ。海中で見られる発光物体。まぁ、こっちは発光する微生物やバクテリアが正体らしいけれど」

「海には雪も降るし、星も流れる。ロマンチックだね」

「ねぇ、話を聞いていた? プランクトンやバクテリアのどこが情緒的なのよ」

「ええと、ほら、一部の研究者にとっては十分に」

「あんたはただの高校生でしょ」

「でた、芹香さんの意地悪。べつに私が何にロマンを感じたっていいでしょ。それがたとえゆらゆら漂う小さな生き物であっても」

「……見たことあるの?」

「ない」


 芹香さんは「やっぱり」って顔をした。言いはしなかった。ううん、「してやったり」かな、この顔は。調子に乗らせてあげておくのがいいだろう。話を進めやすい。


「あのね、芹香さん」

「なによ」

「答え、教えてくれる?」


 謝るつもりだった。そうすべきだった。けれど、本音が前に出てしまった。謝ってから、じっくり構えて聞く態度もあっただろうに、私はこのタイミングで話を蒸し返した。あの日、聞けなかった答え。

 芹香さんは男の子が好きなのか、女の子が好きなのか。その両方なのか。


「それはこの前、ショッピングモールであんたが私を襲ったときのアレ?」


 ため息まじりに彼女は。そして眼鏡の位置を指で正す。


「襲っていない! い、言っておくけれど私は芹香さんのこと、そんなふうに見ていないんだからね」

「知っているわよ。あんたがこうしてバイトするようになった経緯、自分で忘れたの」


 純玲が好きなのを知られたから。

 ちがう。それを本人に明かすと脅され、そして人手不足を理由に強いられた労働だ。彼女の狙い通り、純玲との放課後の時間も少なくなった。


「私の初恋は、小学四年生のときだった」


 今度は私が芹香さんの唐突ぶりに混乱する番だった。でも、かまわず彼女は続ける。聞き逃したら、二度は話してくれない雰囲気。


「相手は同級生でサッカークラブに入っていた男の子。皆から人気のあるクラスのリーダー的存在。当然、他にも彼を好きな女の子が何人もいたわ。イギリスだかフランスだかの生まれである母親譲りの二重瞼に高い鼻、それから明るい髪色。背は男の子の中じゃ高かったけれど、その時期って女の子のほうが高いのがざらにあるでしょ。事実、私と変わりなかった」

 

 遥か上空から雪を降らすように、芹香さんは一語、一語話してくれた。どこか他人事。いや、遠い過去であるからそれは他人事と言って差支えないのだろう。たかが五、六年前であってもそれは私たちの短い人生においては実に三分の一以上に相当するのだった。


「純玲は違うクラスだったわ。二卵性双生児で見分けがつくと言っても、クラスは別々にされるものなのね。それはいいとして、私の初恋はちょうどこんな冬の日に終わりを告げた。あっけなかったわ」

「他の子に出し抜かれたの?」

「そいつが、ある女の子に告白したのよ。それがあっという間に広まり、はい終わり」

「その子と付き合うことになったんだ」

「少しの間だったけれどね。卒業までもたなかった」

「へぇ」

「あの時は愕然としたわ。まさか実の姉にとられるとは思わなかった」

「えっ」


 芹香さんの初恋を終わらせたのは純玲だった?


「よくある話よね。違うクラスの純玲に、あいつは一目ぼれしたらしいのよ。些細なきっかけ、たとえば何かの拍子に優しくでもされたんでしょうね。あんたなら簡単に信じるでしょう? その当時からして純玲は純玲だったの」

「私でなくても信じると思う」

「あっそ」


 芹香さんが意識的に歩調を緩めているのがわかった。

 彼女が話したいと考えている物語を今ここですべて伝えるのにはこの帰り道は短い。私も彼女に合わせる。時間が時間なので下手に寄り道もできないと互いにわかっている。というより、腰を据えて、面と向かってするには相応しくない、不器用な芹香さんにはしにくいのだと。


「芹香さんはそれで純玲と、えっと、喧嘩になった?」

「ならなかったわよ。私の恋心は純玲に明かしていなかった。誰にも相談していなかったの。こっちは信じてくれないかもだけれど、私って当時は純玲と同じぐらいクラスに友達がいたのよ」


 私が「信じるよ」と言うと彼女は鼻で笑った。どうでもいいわ、ってことなのだろう。それとも、いかにも気休めめいたトーンだったかな。


「まぁ、でも家に呼ぶとね、みんなだいたいその日すぐに純玲を好きになるの。だから、純玲が当たり前のように遊びに加わるのを、嫌がったことが何回かあったわ。私の友達であって、私たち姉妹の友達にしたくなかったのね。それをしだいにこじらせて、中学のときは友達が少なくなっていた……そう考えても間違いじゃない。けれどそれがすべてでないのも確か」


 そこまで言い切ってから、芹香さんは「話が逸れたわね」とまた溜息をついた。

 

「芹香さんが今、初恋の話をしてくれたのって、恋愛対象が男の子であるのを表明したかったから?」

「表明って。他にもっと言い方あるでしょ。何も私は壇上で大層なことを主張したいんじゃない。それに、この話には続きがある。いいえ、むしろ真実がある」

「真実?」


 そっちのほうが余程、仰々しい表現ではないだろうか。

 芹香さんの初恋に隠された真実。どうにも胸騒ぎがする。流行りの小説の陳腐なキャッチコピーではないのだ。それは紛れもなく、ここにいる彼女、すなわち私の想い人の妹が明かそうとしている秘密。


「砂埜さんはたぶん自分のことでいっぱいいっぱいだから、気づかなかったでしょうね。私は私で苦悩があるのよ。ああ、勘違いしないで。同情してほしいのではない。いくつか後悔しているのよね。あんたとの関わりについて」


 話がまた逸れた。

 遠くから、そうだ、遠くから彼女は言いたいことの真ん中を目指す。もしくは真ん中にはたどり着けないのかも。周りをぐるぐると回るだけ。

 天体が別の天体を公転するときの軌跡、その周期を彷彿とさせた。私という星と芹香さんという星はぶつからずに巡り回る。一番距離を詰めたときに、私は彼女を知る。彼女が私を知るかはわからない。


「たとえば?」

「あんたを拒めばよかった。あんたが抱えるその恋心がいかに下卑ていて失くすべきかを語り聞かせて、絶望させられたらよかった」

「それができるのなら、していると思う」


 でもこの人は非情になりきれない。言葉尻がいかに冷淡であっても、全部まるごと冷酷にはなれない人だ。


「知ったような口きかないでよ」

「じゃあ、聞かせて。話を元に戻してよ。芹香さんの初恋、そこにある真実。あなたが話し始めた物語だよ。そうするのを選んだのはそっち。私じゃない」


 芹香さんが足を止める。そして私の胸倉を掴んできた。

 でも、実際にはそれはマフラーをぐっと掴んだに過ぎない。それは彼女の意図に沿ってか、反してか息苦しくはない。そのまま話せる。


「いいえ、あんたのせいよ。あんたが……変にまっすぐだから、私は自分の捻じ曲がった性格が嫌になる。こうして曝け出すのを選んでしまったのよ」

「曝け出す?」

「教えてあげるわ」


 口許に浮かぶ笑み。その色気にどぎまぎとする。


「私ね、気づいたのよ。初恋が、姉に好きな男をとられる形で終わって、しばらくしてからね。姉とそいつが付き合い始めてから。嫉妬しているって。びっくりするぐらい燃えたぎっているって」

「そんなに好きだったんだ」

「ちがう」


 芹香さんが手を離す。そして彼女はマフラーで口許を隠す。

 なぜそんなにつらそうな顔をしているんだと私は困惑する。マフラーを強引に掴まれて睨まれていたのは私で、それなのに一瞬にして、まるで私が彼女を虐めている光景になった。


「どういうこと?」

「私が好きなのは―――――――純玲よ」


 マフラー越しのくぐもった声であってなお、その名前は聞き逃せない。


「私は実の姉に恋をしているのよ。今この瞬間もね」


 姉妹愛。浮かんだその言葉を、彼女が「恋」と称してぶった切る。

 

 びゅうっと。

 冷たい風に揺れるはずのサイドテールはマフラーのおかげで揺れずにいた。

 

 暗がりでもわかる芹香さんの頬に差した夕の色とそのいじらしい目配せに、私は瞬きを忘れて佇むばかりで、やっと口から出てきたのは「純玲……」という愛しい名だった。

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