第17話

 甘い香りが漂う日曜日のキッチン。

 チョコチップとナッツ入りのアメリカンスコーンをざくざくっとした食感で仕上げる。一般にこの食感を出すためにはコツが二つある。一つは、生地を捏ねすぎない。むしろ捏ねずにそぼろ状になった材料を寄せ集めて成形していく。もう一つはバターは冷えたまま使うこと。グルテンの少ない粗い生地にすることで、ざくざくっとした食感が生まれるのだ。ちなみに卵を使わずに焼き上げれば、より硬めの舌触りになるらしい。今回はほとんど無意識に投入していたけれど。

 以前に、丸くて膨らみに乏しいしっとりとした食感のイングリッシュスコーンを作ってマーマレードと合わせて食べたのもよかった。あの時は英国風のティータイムを演出するために、紅茶も飲んでみたっけ。

 でも今日の飲み物はインスタントコーヒーだ。安上がりな苦味が舌にざらつく。もちろん、実際にはその黒い汁は胃までどんどん滑らかに入っていき、そこを特有のあの香りで満たして、それが喉までせり上がりもする。


「ミルクは入れないの?」


 ひょいっと姉が現れて、私がブラックで飲んでいるのに首をかしげる。


「今日はそんな気分だから」

「どんな気分?」

「甘すぎてはいけない」


 私は自分を戒めるよう、そう口にしていた。


 昨日、芹香さんは結局、私の質問に答えずに逃げ出した。

 逃げられてしまったのだ。彼女を私は止められなかった。いわゆる壁ドンまでしちゃった私であったが、彼女は私の胸元をタンッと弾いて、そこから抜け出した。本気の拒絶ではなかった。全力で私を押していたら、非力な私はよろめき、尻餅をついた自信がある。そうしなかったのが温情だった。


 ――――頭、冷やしなさいよ。この馬鹿、変態、ろくでなし。


 そんな捨て台詞を残して階下へと降りていった彼女の背中を私は見送ることしかできなかった。彼女の言うとおり、頭を冷やす必要があったのは間違いない。

 芹香さんが同性愛者であろうとなかろうと、いきなり私に壁際に追いつめられて、女の子が好きかどうか問い質されるのは嫌悪や恐怖を抱く体験だったのだと思う。捨て台詞は存外、叫び声ではなく淡々とした調子であったから、そこまでは取り乱していなかったふうでもある。


「苦いなぁ」

「ミルクが嫌ならお砂糖入れたら?」

「グラニュー糖と上白糖のどっちがいいかな」

「グラニュー糖でいいんじゃない?」


 スティックシュガーやガムシロップは常備していなかった。

 スコーンの甘味があればそれでいいと思いつつも、やはりブラックだと苦味が後を引く感じがして、グラニュー糖を入れることにした。甘くなり過ぎないように、と適量を慎重に入れる。白い粉は黒に溶け込み、色が失せた。黒がそこにあるだけ。


「ところで、例のお友達にはクリスマスプレゼントって贈らないの?」

「え?」

「アルバイト先でお世話になっている子」

「あー……考えておく」


 純玲にだけではなく、芹香さんへのプレゼント。

 何も考えていなかったと言えば嘘になる。昨日、純玲のプレゼント選びをしながら、安くてそれなりに喜ばれる何かを芹香さんに贈れたら、気をよくしてくれて、私に辛辣な言葉を投げかけることはなくなるんじゃないかと打算的な気持ちはあった。当然、比較的付き合いの浅い友達に対して、より友好になるための手立てでもある。

 思えば、純玲以外の友達にはそういう贈り物って発想にならなかったな。きっと初めから彼女たちが私にくれはしないとわかりきっているからだな。そこまでの関係ではない。

 純玲はどうなんだろう。仲のいい女の子とプレゼント交換するのかな。日取りからすると、クリスマスの少し前の終業式なんかに。どうだろう。純玲って律儀ではないから。ずぼらではないけれど、交友関係を維持するために取り立てて何かする人間でないような。でも、関係の維持って目的意識を設定すること自体が私のような卑屈な人間が知らず知らずに陥っているドライな人間性の現れかもしれない。

 

 翻って、芹香さんへのプレゼント。

 準備しようかな。昨日のことを謝るのにちょうどいいアイテムだ。

 とはいえ、クリスマスパーティー前にバイトで会いはする。無視されそうではあるけれど。メッセージの一つでも送ってみようかな。たとえば、そう。頭は冷やしたから、何か温かい飲み物でも飲みにカフェまで行きませんかってのはどうかな。それとも、芹香さんの淹れてくれた温かい紅茶が飲みたくなりました、とか?


「はぁ~」

「どうしたの、溜息なんてついて」

「普通の友達だったらよかったのにって」

「普通じゃないの?」

「少し、変わっている」


 私と芹香さんの関係性。前に彼女が示したとおり、私たちを繋げているのは純玲だ。よくよく考えたら、芹香さんからしたら私ってまだ友達として認めてもらえていないんだろうか。芹香さんからのクリスマスプレゼントを期待するのはよしておこう。昨日、あんなふうに迫ったのだからなおさら。


 ただ……。


 私はグイっとコーヒーを飲む。ちゃんと甘くなっていた。頭に浮かんでくるものを再び沈めようとして飲んでみたものの、効果がなかった。苦いままにしておくべきだった?

 

 ただ、私は知ってしまったのだ。

 

 ああいうときの芹香さんが可愛いと。

 純玲の妹だけはある。その純玲がなかなか見せてくれない狼狽えた表情は私の心を確かにくすぐったのだった。


「え、どうしたのよ。いきなり首を横に振って。口の中でコーヒー混ぜているの?」

「ちがう」


 私はべつにサディストではない。

 いつも強気な芹香さんに壁ドンしてみて、見つめ返してくる彼女の眼光の弱々しい様にうっかりときめいたり、その捨て台詞の不器用さというか、語彙力の無さに愛しさを感じていたりしない、断じて。

 私はスコーンをかじる。一口サイズを二口で食べる。チョコチップが妙にほろ苦い。ナッツは余計だったかな。


「スコーンって前々から思っていたけれど、頭をひっぱたいた時の音みたいよね。すこーんって。莉海もそう思うでしょう?」

「お姉ちゃんは昔、名前だけ聞いた時に酢漬けのトウモロコシだって勘違いしていなかった?」

「それ、莉海でしょ。しかもお酢じゃなくて素材の素。何もつけないコーンを丸かじりするものだって」

「嘘、そんな勘違いしていない」

「ええ? どうだっけ。どっちでもいいけれど。私の勘違いも莉海の勘違いも似たようなものでしょ」

「うん、今となっては混ざり合ってわからないや」


 私は想像する。今度、芹香さんに会ったときに試しにその頭をすこーんってしてみたら。どんな顔するんだろう。蠅がついていたのって真顔で嘘をついたら、どんな反応するのかな。


「しないけれど! ぜったい怒って、ひじ打ちじゃすまないだろうし」


 私の言葉に姉は応えず、いつの間にか甘い香りと共に去っていた。



 

 月曜日になってから、自分が芹香さんに詰め寄ったのが軽率で愚行だったのではないかと不安になった。ついでに言うなら、芹香さんの焦り顔を可愛く感じたのは直前まで人ごみにのぼせていたからなのだと結論付けた。そうだよね?


 私は朝の教室に純玲を見つけると、純玲も私に気づいて朗らかに挨拶をしてきてくれた。大丈夫そうだ。芹香さんは姉に泣きついてはいないみたい。

 そうして私は純玲に対して、芹香さんの悩みに関する調査報告なんてのは微塵もできずに、先日に二人でショッピングモールに行ったこと自体、明かさなかった。

 純玲は日曜日にまた例の演劇部の彼氏とデートしたそうだった。それはやっぱり私を前にしてのみ話してくれて、他の友達には言っていなかった。そして私はそのデートの詳細など、知りたくなかったので「そうなんだ」と聞くだけ聞いたと示すと話題を変えた。純玲もそこまで積極的に話したがっていなかったから、これでいい。そのはずだ。


 放課後、一段と冷えている空気の中を藤堂先輩と散歩する。名目上は園芸部の活動であったが、とくに何か手作業もせず。


「あの、先輩。相談してもいいですか」

「おっ。やっとかい? なになに? あたしでよければ聞かせて」


 中庭までやってくると、見ごろが過ぎてしまったばかりの秋桜の花壇を前に、私は切り出した。先輩は胸を張って応じてくれる。


「知り合って間もない友達に何かクリスマスプレゼントを贈りたいんです。できれば低予算で。そのほうが向こうも気が楽だから」

「その子は女の子? それとも男の子?」

「女の子です」

「そっかー。男の子だったら勘違いもあるかもだよねー」

「勘違い?」

「うぉおお! 砂埜さんからのプレゼント! お、俺にもついにモテ期が来たぁー、って。ね?」

「はぁ」


 花の妖精・藤堂先輩の男の子の物真似は壊滅的な出来だった。なんで妙に目をキラキラさせているかもわからない。


「莉海ちゃん、それならこれがうってつけじゃない?」

「え?」

 

 先輩が「これ」と指差したのは、目の前の秋桜だった。 

 そういえば……押し花にするって話していて、まだ実行していなかった。テストを挟んだのもあって、活動日が限定されていたし。そもそも週に一度だ。


「その子、本好き?」


 ドキッとした。藤堂先輩には芹香さんについて話した覚えはない。だから、芹香さんがいっしょに書店で働いている仲なのも知らないし、ましてや彼女が百合を描いた漫画を持っていることは当人を除くと私と純玲しか知らないことだ。


「押し花の栞なんて、こじゃれているでしょ?」

「あ、そういうことですか」

「うん?」

「なんでもないです。えっと、そうですね、栞はたぶん気に入ってくれると思います。小説も読む子だから」

「へぇ。莉海ちゃんにとって、少し特別な子なんだ」

「はい?」

「そんな顔していた」

「どんな顔ですか」


 私は真剣に訊く。すると、藤堂先輩は屈んで、秋桜をすぐ近くで愛で始める。思い返せば、私が先輩を花の妖精などと心の内で呼んでいるのは、その可憐さだけではなく、本当に花が似合う人だからだ。花に向ける慈愛が先輩自身をより魅力的にしていた。絵になる人だ。純玲とは違った装いで。あちらは美しく咲き誇る花そのものに近く、先輩はそれを喜ぶ妖精、じゃあ、芹香さんは? 私は考えてみて、手頃な役を彼女に与えられなかった。なんだか、じれったい。


「秋桜だけだと地味かもね」


 先輩はそう言うと、立ったままの私に笑いかけた。答えになっていない。けれど、顔を言葉で表現するって難しいし、訊ねた私が悪かったのかな。


「栞だったらね、ラミネーターさえあればすぐ作れるよ。事務室にあるのが借りられれば今日中に作ることだってできるね」

「事務室? 職員室とは違うんですか」

「そ。べつなんだよねー。教壇には立たない事務員さんがいるの。備品の管理や来客対応の窓口業務、そういうの引き受けてくれている人たち。二、三人だったかな」


 先輩の話では我が校のOGで園芸部に所属していた四十過ぎの女性が一人いて、去年に花壇の世話をしているときに知り合ったのだという。


「園芸部ってそんなに歴史があったんですね」

「昔のほうがちゃんとした部だったらしいよ? そこそこ大きな菜園も管理していたんだって。そこで採れたお野菜をね、文化祭で売ったり、その場で調理したりしていたって聞いた。すごくない?」


 得意気に話す藤堂先輩の笑みにつられて、私も笑った。


 私たちは急ぎ足で、秋桜をはじめとした数種類の花々を少しずつ摘み取り、それを持って事務室へと向かった。先輩は去年にも押し花の栞を作成している経験があって、要領はわかっており、私は先輩の指示に従えばそれでよかった。

 実際、作業工程は思ったよりずっと少なかった。

「本でも重しにして一週間ほど待つ、そんな昔ながらのやり方もあるよ」と先輩は言っていたが今週末がクリスマスであったのでよしておいた。押し花がすっかり押し花となるまで待つというのも風情があるとは思う。でも、風情だけで生きられないのが人の世だ。こういうの、純玲だったら詩的に、格好良く言えるんだろうな。


 芹香さんへ贈る花の栞ができた。秋冬の花は季節を感じさせない鮮やかな色だ。ううん、冬が灰色に満ちているってのは私の先入観か。見渡せば、そこらじゅうに色がある。耳をすませば音だって。それに香り。あげていけばきりがない。


「安上がりすぎるかな」


 独りきりの帰り道。私はそんな感想を漏らす。だってゼロ円、タダだ。タダより高いものはないと聞いた覚えもあるけれど、どういう意味だろう。芹香さんなら嫌々、教えてくれるかな。

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