第16話

 純玲と芹香さんがかつて、キスし合う仲だったらしい。

 青天の霹靂だった。雷鳴が轟き、私をくらりとさせた。


「い、いつ頃の話? どういう経緯があってそうなるの」

「ああ、うん。莉海だったらそうよね、引くというより顔赤くしちゃうわよね。ある意味助かったわ。可愛い反応で」

「そんなのいいから、続き!」


 急に可愛いなんて言わないでよ。

 いやいやいや、今は芹香さんとのキスの件だ。

 私の催促に純玲は口角が上がって、でもすぐに真顔に戻ると話を続けた。


「中一の春頃なのよ。小学校にあがる前ではなくて」

「それはもう物心ついているってレベルじゃない」

「そうよね、そのとおりだわ。ただね、もしかしたら莉海はキスというと、口と口とのディープなやつをイメージしているかもしれないけれど、違うわよ」

「そ、そうなの?」

「きっかけは二人で留守番中に観たテレビ番組。海外ドラマだったかな。登場人物たちが挨拶代わりに頬にキスし合っていたのを目にして、私が感化されたわけ。で、やってみようって。芹香は最初、露骨に嫌がっていたけれど不意を突いて頬にしたら可愛い反応したわ。今さっきの莉海のような」

「どうしてそこから、何日間かにわたってキスしあう関係になるの」


 私は純玲の唇、冷え冷えとした空気の中でも張りのあるその花弁を直視できずに、今一度、寒椿に視線を向けるのだった。


「芹香ったら、私がしてあげているのに返してくれないから、ついついこっちも意地を張って、事あるごとにキスしはじめたの」

「一方的な関係だよね、それ」

「うむ。それで四日目か五日目になってようやく『すればいいんでしょすれば!』ってあの子が尖らせた唇で、私の額に軽くしてきたのよね。たぶんその時の立ち位置や角度からして額が一番しやすかったんだと思う」

「でもそれで終わりにしなかった、と」

「……莉海、怒っている?」

「どっ、どうしへ、私が怒るの!?」


 声が裏返って発音もおかしくなった。

 怒っていない、動揺しているだけだ。嫉妬も混ざっているかもしれない。


「ええと、可愛い妹がキスを返したくれたので舞い上がった私は、うっかり勢いで口にしたの。それから何日か、頬に首筋、口許、唇、まぁ、至る所にしていたわ。お風呂がいっしょになったときは、いえ、もういいわね。わかっているわよ、さすがに異常だって。どちらからともなく、これは習慣化するとまずいと感じたのか、ぱたりと止めたの。それで終わり」


 純玲が黙る。私は彼女の横顔をうかがう。そこには期待していた、してしまった恥じらいの表情があった。それは私の胸をざわつかせる。寒さがどこかへぶっ飛んでしまう。一番可愛いのは純玲だ。そうに違いないのだ。


「話をまとめると、芹香さんは実の姉とのキスの応酬に影響されて、女の子を恋愛対象にする気持ちが芽生えた。そう考えているの?」


 純玲がいつまで待っても彼女自身でまとめてくれないから私が代わりを務める。私は私でいつまでも彼女の綺麗な横顔に見蕩れているわけにはいかないのだった。


「荒唐無稽に思えるかしら」

「わりと」

「あんまり言いたくないけれど、キスをやめる直前のあの子の顔、すごくとろけていたわ。色っぽくて、とても中一の女の子がしていい顔ではなかった」

「やめて。聞きたくない。お願い、言わないで」


 私の必死な頼みに純玲は慌てて「ごめん」と言うと、ふぅと息を吐いた。誰にも話したことのない姉妹の秘めるべき思い出。私が好きな人は、実の妹にキスの味を教えていた。なんだこれは。私の心、ぐちゃぐちゃだ。

 

「私たち姉妹のこと、嫌いにならないでくれる?」

「今も隠れて二人でいろいろしていないよね」

「ん? いろいろって?」

「き、聞き返さないでよ!」


 純玲は微笑むと、私の髪に触れた。

 それは私にとってまったくの計算外、何か大切な言葉を交わすシーンがカットされたみたいで、微動だにできなかった。彼女の芸術的な指先を手で払いのけられず、その指が私の髪の間を通るのを許していた。想い人の指は髪に触れるだけ、私の頬や唇にはそれは決して当てられない。それがひどくもどかしい。今や純玲の唇は芹香さんとは別の男の人に重ねられてもいるというのに。


「ごめんね、莉海。突然、こんな話をしちゃって。あの子に友達がほとんどいないこと、壁があるのを誰かに相談してみたかったの。馬鹿な私はそこに理由を、それもドラマチックなやつを欲しがったのね。たとえばあの子が女の子に恋をして、それを一人で抱えているんだって」


 しんみりとした声の純玲、それに応じた表情は淑やかで美しかった。


「壁……。で、でもあの日芹香さんは勉強会にも参加してくれていたし、それに買い物だっていっしょにするんでしょ?」

「ぜーんぶ、私からの提案よ。あの子からは決して誘ってくれない」

「もっと仲の悪い姉妹はいくらでもいると思う。気にし過ぎだよ」

「芹香にたくさんの友達がいるなら、それでいいんだけれど。ううん、友達が多いのが正義で、少ないのが悪ってのは違う。それは理解しているわ。ただ、直感的にあの子が何か厄介な悩み事を抱えている気がしているの」


 純玲の直感。純玲を純玲たらしめている、彼女の処世術にして魅力の一つ。

 おそらく芹香さんにはないそのオカルティックな才能。

 ううん、そこまで表現するのは大言壮語か。惚れた私が勝手言っているだけ。そう考えると、この盲目的な恋が次に何を見せるのかと恐れさえする。


 純玲の指が離れる。どうして私はそれを自分の手で止め、指を絡められはしないんだろう。


「ねぇ、莉海――――」

「芹香さんの悩み。私が探ってみるよ。友達、だから」


 私は純玲の呼びかけを遮る。

 どっちだ。純玲が私にそれを望んでいるのがわかったから。それとも私がそうしたいと思ったから。どちらともだとあっさり認めてしまうか。

 芹香さんが羨ましい。人を避けつけない素振りをしているくせして、実の姉である純玲にはこんなにも想われているのだから。


「ありがとう。あなたが私の友達でもあってよかったわ」


 純玲が笑う。並んで咲いた寒椿なんてどうでもよくなるその笑顔。

 残酷だった。身体の火照りが冷えるほど。

 

 一つだけ。

 私はこの時の純玲との会話を終えてその日眠る前に、思いついたことがあった。純玲が陳述した「事象」すなわち芹香さんがひょっとしたら恋愛対象に女性を含むかそれに限定する人間であると推察できる根拠、判断材料はもう一つある。私だけがそれを知っている。私だからそれを知っている。私が確かめなければならない。




 芹香さんは鼻で笑った。

 姿勢を変えた拍子に買い物袋、純玲へのプレゼントが入っている店のロゴ入りビニール製のそれが壁にトンっとぶつかる。響きはしない。

 私は目を滑らす。私がいる踊場、階段の上下。人が来る気配はない。幸いにも。


「呆れた。何を真剣な顔して言うかと思ったら。砂埜さん、その妄想は何か妄想らしからぬ理由があるわけ? ないわよね。そうであってほしいって思ったってこと? 私があんたと同じで……」

「本棚の奥、見たの。前に映画観賞会したとき。芹香さんがお手洗い行っている間に。ごめん、勝手なことして」


 嘘だ。私は純玲から、芹香さんが百合漫画を何冊か持っているのを聞いたが、それを確認する機会はなかった。


「それで?」


 苛々しているのがわかった。さっき「早く言いなさいよ」と口にしたときはもっと優しかった気がする。表面上は刺々しくとも優しさが込められていたふうだった。つまり、友達としての。今はそれがない。


「ねぇ、まさかそれだけなの。私が隠れて、女の子同士の恋愛をテーマにした漫画を持っていて、それが私が同性愛者の証拠だとでも? はっ。笑わせないで。あれは……絵柄が好みで買ったら、ああいう話だったの。残念だったわね」


 蔑む調子で畳みかけてくる芹香さんはまるで初めてカフェで話したときのようだった。私は一瞬、謝って話を終わらせることを選択肢に入れた。そうすればなんだかんだ彼女は許してくれそうだ。しかし、それでは彼女の悩みは聞けずじまいである。どんな形でもいい、それが同性愛云々とは別であろうと彼女の悩みにたどり着けば。

 そうしたら、純玲は私を褒めてくれる? どうかな。芹香さんと不仲になるのはまずい気がする。


「他にもあるよ。純玲から聞いた」

「何をよ。何を聞いたって言うのよ」

「これは芹香さんが悪いよ。気になったから、キスの件を聞いてみたの」

 

 嘘だ。純玲から話してくれたことだ。でも、そうは言いたくなかった。

 芹香さんが驚く。まさか私が純玲に直接訊ねるとは思っていなかったとその目が言っている。あっているんだけれど。


「芹香さんは一時期、純玲と爛れた関係だったんだね」

「誤解を招くような言い方しないで。キスだけよ。触れるだけの。挨拶の延長線上よ。そもそもね、純玲からしてきたのが悪い」

「たしかに」

 

 それはそうだ。異文化を軽い気持ちで変な形で取り入れなくていいのに。


「でも、芹香さんは純玲とのキスで否が応でも女の子を意識しないといけなくなったんじゃない?」

「どうやったらそんな論理の飛躍ができるの? あんた、国語苦手でしょ」

「うるさい。もう一つある」

「聞くだけ聞くわ。あんたが恥をかくだけだからね」

「あの時、芹香さんは気づいた」

「は?」

「勉強会の日」


 私が芹香さんと初めて会話をした日だ。彼女は暖房が利きすぎているかどうか、などとそんな遠回しな言い方をしていた。ついでに言えばお互い敬語だったっけ。


「芹香さんは、私の純玲への想いに気づいた。なんだったら当人である私が無自覚だったその恋心に」

「だからなによ」


 これが、純玲が知らずに私が知る事象。


「変だよ。芹香さん自身が女の子を好きになった経験があるから、導き出せたんじゃないの。私がいくら惚けた顔をしていたからって、普通は『ふーん、こいつ姉に恋しているのね!』ってならない」

「それ誰の物真似よ、くだらない」


 躍起になっていた。なぜか。純玲が得た直感は私にはない。

 でも、芹香さんはここまでのやりとりで言っていないのだ。

 たとえば「いいえ、私は男の子が好きよ」と明確に述べていない。うん? でも核心にすぐに斬り込まないのは、いつものことだ……。


「じゃあ芹香さん、きちんと答えて。私の目を見て」


 私は大胆にも彼女を壁際に追い込み、手をつき、逃がさない。

 純玲ではなく芹香さんだからこそできるのは言うまでもなかった。

 

 それなのに――――。

 

 こんなの純玲が舞台で演じてみせた役よりもずっと簡単で、緊張しないと高を括っていたのに、いざ芹香さんを壁に追いつめてその瞳を覗き込むと、妙に顔が熱くなっていた。


「ちょ、ちょっと!」

「三嶋芹香は男の子が好き? 女の子は絶対に恋愛対象にならない?」


 意外と押しに弱い彼女に私は知りたいことを押し込む。

 これではまるで傍から見れば、私が彼女に物理的にも精神的にも迫っている構図なのだと省みることができたのは翌日になってからだった。

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