第15話

 あの日、弓道場の傍らで純玲が躊躇いがちに話したのを思い出す。


「芹香ね、もしかしたら女の子のほうが好きなのかも」

「え?」

「男の子よりも。ようは、恋愛対象が女の子ってこと」


 寝耳に水どころの騒ぎではない。心臓が変に高鳴った。純玲からの甘い囁き、それを受けたことはないけれど、そうされたときとはおそらく違う種類の高鳴りに私はつばを飲み込み、そしてなんと返したらいいか迷う。


「ど、どうしてそう思うの?」


 私はその推測が、冗談に聞こえない冗談なのかどうかを疑い、真意を確かめる必要があった。けれど、冗談で扱うにしては同性愛というのは、私にとってもはや微塵も笑えない種類の事柄となっている。

 教室で仲のいい女の子がじゃれあうのを、スキンシップをしている光景を目にして、私も純玲に自然にそうできたのならと下心を抱く私なのだ。好きになったのが偶然にも女の子だったと割り切ってみても、同性愛や両性愛という言葉は既に私の側に属する言葉であった。


「れっきとしたエビデンスはないわ。いくつかの事象を結びつけると浮かび上がるのよ。だから、それはこじつけであるだけの可能性もあるわね」


 もったいぶらずに核心を言ってよ。

 あたかも芹香さんに言う台詞を純玲に吐きそうになった。でも、ここで焦燥して私について勘ぐられてしまうのは困る。この想い、まだ彼女に知られるわけにはいかない。クリスマスパーティ、きっといけなくなる。友達でいられなくなる。そんなの嫌だ。


「たとえば?」

「そうね、一つは本棚」

「本棚?」

「莉海、あの子の本棚って見たことある?」


 映画観賞会をしたときに目にしている。純玲の部屋にあるのと比べて小さなもの。私たちが働いている書店の書架と比べると言うまでもない。


「うん。私が持っている少女漫画もそこに並んでいたよ」

「奥まで確認したかしら」

「奥……?」


 そういえば奥行きがあって、二冊は並べられそうだった。すなわち手前と奥に二列。並べてしまうと奥側はすっぽり隠れて取り出せないし、背表紙だって読めはしないけれど。でも芹香さんの部屋にあった本棚、そんなふうに使っていたかな。部分的にはそういう箇所もあったかも?


「手前の本で奥の本を隠しているところがあるの。先月あったテストの少し前に、私は部屋で勉強に取り組もうとしても集中できなくてね、開き直って何か漫画でも読もうって芹香の部屋に足が向いたの。私の手持ちは何度も読み返しちゃっているから」

 

 現実逃避はテスト前あるあるだろう。

 そんなのだから赤点とるのだ、と思いもする。


「最初からあの子に黙って借りるつもりはなかったわよ? その日はイレギュラーでバイトのシフトに入っていたみたいで。あの子は部屋にいなかった」

「それで、魔が差した?」

「莉海、そんな言い方しないで。私は何も、あの子の部屋を荒らして、何か乙女の秘密を探し出そうだなんて露にも考えていなかった、本当よ」

「けれど……見つけた」


 純玲は肯いた。

 そして彼女自身の髪を撫でる。その素振りは芹香さんがそのサイドテールに触れるときと似通っていた。純玲の場合は、その内巻きを指で梳き、そして弾く。


「簡単に言ってしまうと、女の子同士の恋愛を扱った漫画が何冊か奥にあったの。タイトルではそうとはわからない、でも読んでいけばすぐにわかる。思えば、表紙もそれっぽいやつが」

「でも、それだけじゃ」

「そうよね、そのとおりね。部内の漫画やアニメが好きな人から聞いたことがあるわ。百合っていうのよ、そういう女性同士の恋愛もの全般を指して。ボーイズラブに対するガールズラブと称したほうがわかりやすいかしらね」


 地歴公民の用語を解説でもするかの如く、さらさらと無感情に。


「ええと、何が言いたいかっていうと、創作物を鑑賞する上での嗜好のひとつなんだって。単にそう捉えて問題ないってことよね。芹香は百合が好き、紙媒体を手元に置く程度には。いいえ、何も本棚を埋め着くしてはいない、数冊ほどに過ぎないのだから誰かの勧めで読んでみた線もある」


 それはたとえば私が芹香さんの働く書店をあの日訪れる契機になった少女漫画を、自発的ではなく中学生の頃に友達に推されて読み始めたのと同様に。


「そうだね。芹香さんが百合好きだとすら、まだ判明していない」

「ねぇ、莉海。なぜあの子は友達を作らないのだと思う?」

「え?」

「これが事象の二つ目。そこにこの百合という視点を加えるとある推論が得られるわ。どう?」


 どうって。どんなふうでも憶測の域を出ない、そんな気がしている。

 女の子が好きである事実を友達が少ない事実を結びつける試みだ。もしかして純玲、面白がっている? だとしたら、はっきり言って悪趣味だ。


「わからない。……教えて」

「つまりね、芹香なりに女の子と距離を取っているのではないかしら」

「なぜ?」

「恋愛対象が同性である以上、友人関係には注意深くなっているんじゃないかってこと。たとえば相手に友情以上の感情が芽生えてしまうと、つらくなるでしょう? 相手がそれに応えてくれないのなら」

「……っ!」


 純玲の言い分はこうだった。

 同性愛者であれば友情と恋愛感情の敷居というのが異性愛者よりも曖昧でそれを飛び越してしまうのを恐れて、関係を築くのを恐れる。男女間の友情は成立しない、なんてのが同性間でも言える、と。


 偏見じゃないの、そんなの。

 私はたとえばクラスにいる女の子、鈴木さんも岡本さんも後藤さん――――みんなが容姿と顔立ちが整っていると褒めそやす彼女たち、人当たりもいいとは思うけれど、でも私は惚れない。純玲に感じる気持ちを彼女たちに抱いた覚えはただの一度もない。


 もっと深く関わったら?

 もう一人の私がそう問う。もしも彼女たち、ううん、特別に綺麗な子でなくても関わっていく過程で、私は別の女の子に恋する?

 しないって言い切れる? 純玲に恋をしている私はこれから先、他の女の子に恋をしないと断言できるのか。わからない。純玲への恋心を芹香さんに指摘された日の前なら、「ないかなぁ」って言っていただろうか。それとも軽はずみで「あるかなあ」とでも言っていただろうか。

 

 わからない。

 でも。

 それでも、純玲が今ここで、あたかも同性愛者はこういうものだ、という推察を私に披露したのには嫌悪感があった。初めて、三嶋純玲に対して私は紛れもない不快を感じ、そしてそのことは私自身を憎悪する結果を生む。

 純玲に想いを打ち明けられずに、友達の顔をしている私。当事者になるまでどうとも思っていなかった、同性愛。今、私が彼女を嫌がる資格はあるの?


 戸惑い。様々な感情が混ざり合ったそれが私の顔に貼りついて剥がれない事態を、それを純玲に見せつけてしまうのを私は何とかして避けるべく、まずは物理的に顔を背けた。それから言葉を探す。当たり障りのない返答、リアクションを。


「芹香さんに友達が少ないのは別に理由がある気がするなぁ」


 それこそ冗談めかして。ここにいない彼女を本気で悪く言うつもりはなくて。しかも実の姉の前、私の想い人の前で陰口を叩くなんてあり得なくて。

 それらは建前。本音は保身のため。傷つきたくないから、ひとまずそんなことを口にしていたのだった。


「ふふっ。そうね、私もそう思うわ。あの子はもっと誰にでも心を開くべきなのよね。声をかけてくれる子はいるだろうに」


 穏やかな口調で。私の返事は「不正解」ではなかったみたいで安堵する。


「でもね、そのうえであの子がもしも本当に、えっと、女の子が好きなのであれば事情は変わってくるわよね?」


 私は肯定も否定もできなかった。ここまでの二つだけなら、純玲の思いつき、思考の跳躍、ようするにこじつけだと結論付けてかまわないと私はみなした。人によっては「まさかー」と笑って終わる話題。

 純玲が今ここで私にそんな話を振ったのは偶然?


「他には……あるの? 芹香さんがそうだって思えるような事象が」 

「あるにはあるわ」


 躊躇。純玲の瞳に再びその色が灯る。

 もう聞きたくない、帰りたいと願う私がいる一方で、ここで中途半端に切り上げられては次に芹香さんに会う時にまともに顔を合わせられないと懸念する私もいた。

 それに、純玲からもっと同性愛者に対する考えを聞き出しておいて損はない。幸いにも、彼女はそれを「気持ち悪い」とばっさり拒絶してはいないのだ。ただ、それをまだ表に出していない、そうするのを憚っているだけなのかもしれないが。彼女が私からの特別な好意を悟っていないのは日頃の振る舞いでわかる。


 私たちは冷たい風に晒されてしまう場所から移ることにする。

 風向きのいい、つまり吹き付けてこない校舎裏までやってくる。途中、運動部の一団がすぐ脇を走り抜けていった。純玲と今二人でいるのは後ろめたい関係では決してないのに、私は彼らに怯む。それから「寒いのに元気ね」と落ち着いて口にする純玲に「そうだね」としか返せない。

 

 二人で寒椿を眺めながら話の続きをする。ピンクの花、その堂々としていながらも可憐な様、美しさを純玲は褒め称えてはくれなかった。彼女はその花を実は意識に入れていない。それがわかると、無性に悲しくなった。


「ねぇ、莉海。引かないで聞いてね」


 純玲の顔が妙にこわばる。それまでよりも、つまり芹香さんが百合漫画を所持していることよりも密やかな何かを打ち明けるのだと察した。


「大丈夫。安心して」

「ありがとう。どう言えばいいのかしら、いえ、ここは変に婉曲表現をとるべきではないわね。あのね、私と芹香はほんの一時期、キスしあう仲だったの」


 なんでやねん。

 私はこれから一体何を聞かされるのかと頭がくらくらした。

 芹香さんは前に自分から言っていた。純玲の唇の柔らかさを知っている、と。しかしそれは私が当てたように純玲の好奇心によるおふざけで、しかも幼い頃の無邪気な遊びで、一度か二度あるかないかといった雰囲気だったのに。

 

 待って。そうだよ、幼い頃であるのなら、まだなんというか、救いがある。

 救い? 私は何を言っているんだろう。

 とにかく詳しく聞かないといけない。

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