第12話

 私の手を引いているのが芹香さんだと気づくまで時間がかかった。

 無理やり手を引っ張られてあの勉強会の帰り道のときみたいに脇道に入った。視界から純玲たちがいなくなる。二人の視界には最初から私なんて入っていなかった。


「べつに逃げなくても」


 ぼそっとそう口にすると、芹香さんは私をここまで連れてきた右手を離し、そのまま振り上げた。そして私に平手打ちをかまそうとする。しかし振り上がったまま止められて数秒、その手は下ろされた。表情は硬く、眉根は寄せられたままだ。


「あそこでずっと突っ立っていたほうがよかったわけ?」

「純玲は私に気づかずに通り過ぎたかも」

「お生憎様、駅から家への帰り道はあそこしかないわよ。寄り道しそうなところもない。あんな道の真ん中にいたら、見逃すなんてありえない!」

「でも、初デートの終わりにキスして、そのドキドキで気づかないかも」

「あんたどうしてそんなふうに言うのよ。純玲が好きなんでしょ!」


 声を荒げる芹香さんに対して、私の心持ちは夜風に磨かれるように冴え冴えとしていくのを感じた。まるで氷だ。


「その純玲が私の知らない男とキスしていたんだよ」

「そんな言い方よしなさい。あれが、純玲の彼氏でしょ」

「そうなのかな」

「違ったら、頭おかしくなるわよ」

「純玲、嫌がっていなかったよね」


 私が何か言う度に芹香さんの怒りのボルテージがあがる気配がした。何をそんなに憤っているのか理解に苦しむ。


「拒んでいるふうには見えなかったわね」


 吐き捨てるように彼女は応じた。


「ちょっと思いついたんだけれど」

「なによ」

「芹香さんは昔、純玲とキスしたことあるんでしょ」

「そ、それがなに」


 たじろぐ芹香さんに私が半歩寄ると、彼女は一歩引いた。


「じゃあ、私が芹香さんとキスしたら間接キスってことにならない?」

「ならない! やめなさい、動揺しすぎよ。落ち着いて。あんたの今の顔、あの子に、いいえ、他の人にだって見せられないわよ」


 もう一歩退いて芹香さんがそう言う。

 そして彼女は私に深呼吸を要求する。いいからしなさい、と目を三角にするからしかたなしに私は夜を吸い込み、吐く。そのままタルトも紅茶もココアも何もかも吐ければもっと楽になるのかな?


「ごめん。どうかしていた」

「ほんとよ。あんたのせいで、私は逆に落ち着いちゃったわ」

「めっちゃ怒った顔しているよ」

「誰のせいよ!」


 嘘つきだ。

 全然落ち着いていないではないか。


「一人で帰れる?」

「やっぱり姉妹だね」

「は?」

「純玲の愛想の半分もないくせに、優しい。今の声、純玲そっくりだった。いっそ芹香さんだったらよかったのに。芹香さんを好きになっていたら、当分、彼氏作れなさそうだし、こんな気持ちにならなくて済んだ」

「引っぱたくわよ。本気で」


 芹香さんは声を低くする。笑ってしまいそうになる。純玲だったら、何倍も上手に私を怖がらせる声を出せると思う。そんな純玲も好きだ。でも観客で在り続けたいわけではない。そうではないんだ。


「いいよ。そうしたら純玲に言う。洗いざらい」

「自暴自棄にならないでよ。だいたい、自分で言っていたでしょ。キスぐらいするのかなって。覚悟していたんじゃないの」

「ああやって見せつけられる覚悟? していないよ」

「遠くからでしょ。見せつけられてはいない。それにもしも砂埜さんや私に気づいていたらしなかったはずよ。あの彼がたとえねだっても」

「そうかな。しっし、今いいところだから、って追い払わない?」

「……痛々しくてもう見ていられない」


 芹香さんは大きなため息を一つして、そして私をそれまでとは違う目つきで見たかと思うと、さっと視線を外す。そして「バイトには来なさい」と言い、私から離れていく。去って行く。彼女は帰るのだ。そこは純玲が帰る場所でもある。

 姉妹だったのなら。私こそが純玲の妹だったらな。

 私は芹香さんまでも妬んでいる自分に気づく。こんな嫌な子、恋人がいなくたって純玲が選んでくれるはずがないと自虐してもどうにもならない。


「待って」


 言えた。なんとか喉から声が出た。やけに重く、緩やかな足取りの彼女、その背中に放ることができた。果たして彼女は止まってくれる。が、振り向いてはくれない。

 私は向かう。彼女のもとに。まだ何を言うか決まっていない。ひとまず謝っておくべきか、あるいは感謝すべきだった。

 もしも道の真ん中で純玲と出くわしていたら、何を口走っていたかわからない。わかっている。芹香さんに言われなくても。でも頭と心が合わないことってあるよ。


「私だって……!」


 彼女のすぐ背後まで近づいた時、私が耳にしたのはそんな声だった。

 涙声。あの芹香さんのだ。それは悲痛に満ちた声だった。

 その肩や背中に手を触れられはしなかった。回り込んで顔を見られなかった。そのまま私は足を止めてしまった。


「私だってね、ショックだったんだから」

「芹香さん……?」


 彼女が目元を手で拭うのがわかった。てっきりそれで振り向いてくれるかと思いきや、振り向いてくれない。それどころか駆け出した。

 ぽかんとした。後を追えはしなかった。取り残された。結局、あの日と同じく。

 

 私は頬をつねる。痛かった。そこに涙は流れぬままだが、とにかく痛みはあった。私はよろよろと、それでも帰らないわけにはいかないので帰る。こういう時にたとえば、誰かに声をかけられてほいほいついていってしまうのかな、なんてことを思いもした。でも、誰も私を気に留めなかった。世界は私抜きで回っていた。


 午後七時過ぎ。

 純玲からタルトのお礼がメッセージできた。デートはどうだったのと打ち込んで、消した。送信する勇気はない。

 どういたしまして、とだけ返してスマホを放り投げた。嫌な音を立てて硬い床に落ちる。もしも自室に戻る前、たとえば電車に乗っている時に着信していたとしても投げていたかもしれない。




 その翌日の月曜日に、純玲から芹香さんが体調不良で休みだというのを聞いた。私は自分が思ったより純玲と心安らかに顔を合わせられているのに驚きながら、彼女の話を聞いた。二時限目が終わって三時限目の英語コミュニケーションのための準備をしている時のことだ。コミュニケーションと言いつつも、ここ最近は文法事項の確認とその定着用の設問読解が中心となっている。ようするに純玲が不得意とする面だ。先日のテストでは英語に関してはいずれもクラス平均を上回っていたとは聞く。

 ところで昨日のデートは何点だったの? 私はそんな台詞が思い浮かんで、焦って口元を手で覆い隠した。心安らかとはなんだったのか。

 とりあえず純玲との話に集中しよう。


「昨日、お風呂から上がって、芹香の部屋の前まで行ったの。ドア越しに『次はあなたの番よ』って。そう、サスペンスホラーなんかで超常的で凶悪な怪物めいた輩が次の獲物に舌なめずりするときみたいな。あくまでイメージよ? その手のジャンルって苦手だから」

「それで芹香さんはなんて?」

「『わかった』って。いくら姉妹でもドア越しの声だけで体調どうこうを、細かく判断しかねるわよ。あれかな、引きこもりに特化したドア越し診療専門医だったら……」

「芹香さんが体調崩しているのがわかったの、朝になってからだったの?」


 冗談すべてにかまっていては頭が痛くなりそうで、話を進める。


「そういうこと。私たちってどちらかがどちらかを起こす、そんな姉妹の微笑ましい習慣はないの。大抵、朝食時にその日初めて顔を合わせるのよ」


 演劇部も弓道部も朝練はないから登校は自然と同じ時間になるそうだ。もしも彼氏さんがいっしょに登校できる場所に住んでいる人だったら、今後は変わるのかな。そんなの私が気にしたってしかたないのにな。


「今日は朝食時に芹香の姿がなかった。お母さんが言うには、ふらっとキッチンに現れたかと思いきや、体調が悪いって言いだしたらしいのよ。たしかに顔色が悪かったって。それで私も心配になったの」

「様子を見に行った?」

「そうよ。私は薄情者ではないから。可愛い妹があまりに調子が悪そうであれば私も遅刻か欠席するつもりだったわ。両親は十中八九、働きに出るし。ああ、彼らを薄情と訴えるつもりはなくて。現実的な落としどころとしてってわけ」

「どうだった?」

「会ってくれなかった。昨夜と同じ、ドア越しの短いやりとりだけ。鍵はかかっていないから押し入ってもよかったけれど、あの子の機嫌を損ねたくないからやめたわ。それにドア越しの会話って乙なものよ。舞台に取り入れたいぐらい。電話とはまた違う風情があるわよね」

「風邪を引いたの?」


 昨夜の芹香さん。それは私にとってはあの涙声と結びつく。今日はいつも以上に冗談交じりで饒舌な純玲がなかなか核心に触れないのがもどかしい。大事にはなっていないだろうけれど、明るい話題ではない。


「風邪気味ってところね。それと、あの子重いほうだから」


 純玲が声のトーンを落とす。さすがに誰かが耳をすませていなくても朗らかに話す内容でなかった。昨日はそんな素振りなかったから、今朝からか。


「そうなんだ」

「まぁ、今に始まったものじゃないから本人も対処に慣れているし、かまいすぎるとかえってイライラさせちゃうのよね。でも、莉海が見舞いにでも来てくれると嬉しがるかも」

「なんで来たのよ、って噛み付かれそう」

「うちの妹を猛犬のように言わないの。無理にとは言わないわ。今日は園芸部もあるものね」

「うん。よろしく言っておいて。また映画観ようって。あっ、これ社交辞令だからねって補足も」

「ふふ、最後のは余計でしょ」

「私よりもお姉ちゃんがそばにいてあげなよ」

「そうね。今日はさっさと帰ろうかしら。部活、ここのところは基礎練ばかりなのよね。今年はクリスマス公演、ええと、児童養護施設を訪問しての公演ってないのよ。どういう事情があったか知らないけれど」

「残念?」

「さほど。半年前には決まっていたことなのよね。それにその公演を私たち一年は経験したことないし、思い入れってないわ。ああ、違うのよ? 子供たちに向けての演技って意識したことなくて、それはそれでやりがいがあるとは思うし、三年生が引退して、ついに私も準主役みたいな役を射止める可能性も出てきて、だから早く舞台に……って、まぁ、ともかく残念でもないけれど残念なの」

「ど、どっちやねん」


 羞恥心が勝って、スムーズなツッコミができなかった。勢いも弱い。でも、純玲は満足気に笑ってくれる。

 そこで会話が終わって、純玲が席に戻るかと思いきや「クリスマスと言えば」と彼女が続ける。どこか浮ついた面持ちに、私はびくっとする。デートの話だろうか。


「あの子ったら可愛いところあるのよ」

「え?」

「今朝ドア越しにね、いきなり『クリスマスはうちにいてよ』って」

「それってつまり?」

「家族団欒を優先してほしいってことよね。恋人ではなく」


 後半は声を潜めた純玲だった。そしてカールされた髪、その片側を指先で揉むようにして微笑んだ。色っぽいな、と今更そう感じる。


「どう返事したの?」

「保留。彼しだいなところがあるわ。ただ――――」


 そこで予鈴が鳴る。それと同時に純玲が口を閉ざして「また後でね」と言って戻っていった。「ただ」の先に何を言おうとしたのか。それが空欄であれば、無限に想像できてしまう。たとえばそこをどんなふうに埋められたら、私は幸せを得られるのだろう。芹香さんは言った。一喜一憂しないほうがいいって。

 溜息を堪えて、窓の外を見やった。なんでそんなに綺麗に晴れているんだか。メレンゲみたいな雲一つない。誰の心を映し、誰の心を蔑ろにしているんだか。


 クリスマスの過ごし方。全然、頭になかったな。

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