第11話

 冬の夕暮れが夜へと移りつつある。来る前に見上げた青空に浮かんでいた、ホイップクリームみたいな雲たちはとうにどこかへ去っていた。


「ねぇ、砂埜さん」

「なに?」


 暖かな部屋で、芹香さんが淹れてくれたココアを飲んでいた。こちらは粉末タイプの安価なものでお湯に溶かし込めばすぐに出来上がった。牛乳を切らしていなかったら、ホットミルクを用意したのだと彼女は話していた。

 

 ココアの甘ったるい香りが部屋を満たす。


「純玲のどこに惚れたの?」

「今、それ訊くんだ」

「答えたくないならいい」

「じゃあ、答えない。答えたって……虚しいだけだよ。それに芹香さんにこれ以上弱味を握られるのは嫌」

「弱味なの?」

「あんなふうに脅しておいて、よく言えるね」


 バイト先で丁寧に仕事を教えてくれているからって、そしてインド映画を二人で観て笑い合ったからといって、それでも芹香さんと私のあの日のやりとりがなくなるわけではない。


「もちろん今でも、あんたが純玲に何か道徳に反する行為をする気があれば、それを未然に防ぎたいと思っている。でも、難しいわ」

「難しい?」


 相も変らず、論点がすぐには定まらない話しぶりで、私はココアを飲んで溜飲を下げる。下げられたかな? 


「あの勉強会の日、私はあんたのその顔に、純玲への想いを目にした。およそ友情と呼ぶにしては異様な……いやらしい表情」

「言葉を選ぶなら、人を不愉快にさせないものを選んでよ」

「えっちな顔していた」


 口に含んだココアが変なところに入って、私は咳き込む。


「し、していないっ! していたら、さすがに純玲だって言うでしょ! 嘘よ、そんなの。芹香さんが色眼鏡かけて見ただけ。なんなのよ」


 そんなふうに私が抗議すると、彼女にも羞恥があったのか顔を赤らめて「まぁ、それはいいわ」と素っ気なく言った。


「とにかく、今の砂埜さんを見ていたら純玲といるとき以外は普通で、失恋直後でもバイトを真面目にやろうとしてくれているし、だから下手に傷つけたくないとも思う。脅し、脅されって関係を望んではいない」


 失恋。人からまっすぐ突きつけられると、息が詰まっちゃう。芹香さんが今、私を傷つける気がないと理解していてなお、それはどうしようもない。


「純玲、どうしているかな」


 私はそう呟いていた。心の内に留めて置けばいいのに。姉を護りたがる妹なりの警戒を緩めようとしているまさにそのときに、発しなくてもいい言葉だった。


「いくらデートと言っても一回目で、その……深い関係にはならないでしょ」


 芹香さんは今度こそ慎重に言葉を選んだ。

 深い関係。それはたとえば先に観たインド映画では露骨に描かれなかった行為を孕んだものを指すのだろう。まさか二人がデート先で、周囲を巻き込んで踊り狂っているわけもなく。もしそうであったのなら、少しは私の気分も晴れるだろうに。


「キスぐらいはするのかな」

「砂埜さん、それ自分で言って胸が苦しくならない?」

「想像したくないし、言いたくない。けれど一人で抱え込んでいたら頭おかしくなりそう。だから、いいでしょ」


 投げやりに私は。ココアで酔ってみせる。

 視点を変えれば、芹香さんは私にとって都合のいい人間だとも言える。私の純玲への想いを知っているのは今のところ、彼女だけだ。無論、私を除けば。実らぬ恋の愚痴をこぼすにいい相手。そうみなすと、やはり虚しくなった。


 それから生ぬるい沈黙があった。

 私たちは互いにそっぽを向いてココアを飲むことにする。

 小さな本棚に目を凝らすと、私があの日最終巻を購入した少女漫画が全巻揃っていて、その場しのぎの嘘ではなかったのだと知った。他にも有名な作品が何シリーズが。棚自体は小さいけれど、奥行きがあるから二冊縦でも収納できそうだ。そうなると奥に押し込めた側の本は取り出しにくいけれど、読み返す頻度が低いならいいのだろう。そう考えると、書店でバイトしているのに本の整理には無頓着とも言える。

 

 芹香さんは私より先にココアを飲み干したようだ。その彼女が口元をティッシュで拭って、私を見やる。


「ねぇ、もしも――――私が純玲の唇の柔らかさを知っているって言ったら、どう思う?」


 芹香さんはぎこちない笑みを浮かべて私にそう言った。からかうでもなく、意地悪するでもなく。勢いに任せて言ってみたふう。


「どうせ小さい頃にでも、純玲の好奇心で姉妹同士で試しにキスしてみたことがあるって話でしょ」


 そうであるはずだ、という予想半分。そうあってほしい、もしくは真っ赤な嘘であってほしいという期待半分。なるべく平静さを保って返した。


「正解。なんかむかつくわね」

「それ、私の台詞。どうして芹香さんは事あるごとに、挑発するの?」

「していない」

「している」

「あのさ、詳細聞きたい? もしかすると純玲とキスできるかもよ」

「それが挑発って言っているの。そんなふうに私の心をかき乱さないで」


 本気でさせるつもりはないに決まっている。どんなに純玲にとってお遊びでも、私にとっては好きな人のキスなんだ。それにもう純玲には彼氏が……いや、これについては純玲からしたら、ただの友達の私とするキスってのはノーカンってやつなのかもしれないけれど、というか、もうあれこれ考えさせないでほしい。やめてよ。つらいの。熱くて、熱くて、切なくなるって。


「芹香さんにはわからないんだろうね」


 私はまたぽろっと呟いていた。芹香さんが私を睨む。怖くない。その瞳はあの子によく似ている。

 あれ……?


「芹香さん、それってもしかして伊達眼鏡?」


 違和感。そうだ、さっき映画を観ている途中、意外にも笑い上戸で笑い泣きまでして眼鏡を外して目元を拭いていた芹香さん。眼鏡をかけている時と、そんなに大きさに変化がなかったような。そして今、眼鏡をきっちりかけている彼女の瞳を見つめ返してみて、その一点の曇りの無さに疑念が生じた。

 レンズはあるけれど、度が入っていない?


「悪い?」


 秘密にしていたのだとわかった。私の指摘に芹香さんは反射的にその眼鏡に触れたけれど、その頬に赤みが差していたから。どちらかと言えば知られたくない事実だったんだなと思った。


「芹香さんってもしかして形から入るタイプなの。本屋でバイトするから、眼鏡かけ始めた、みたいな」

「そういうのではないわよ。偏見でしょ、それ」

「ふうん。つまり単なるおしゃれなんだ」

「ちが……くもないか。吹聴しないでよね」

「言う相手いないって。私の友達、純玲以外はきっと芹香さんと話したことさえなさそうだし。さすがに純玲は知っているんでしょ?」

「それはそう」

「かけさせて」


 伊達眼鏡であるのがバレて狼狽えている芹香さんが何だか可笑しくって私はついついそんなお願いをしてみる。


「はぁ? なんでよ」

「なんとなく。万一があるかもでしょ」

「どういうことよ」

「似合うかもって」


 芹香さんが私をまじまじと見る。睨み付けるのとは違う、興味本位の眼差し。


「うるさい」

「何も言っていないじゃない」

「どうせ似合うわけないって思ったんでしょ?」

「ちがうわ。砂埜さんにしては意外な動機だったから。まるで純玲みたい」


 言われて気がついた。たしかに純玲だったら「私に似合いそうだし、ちょっとかけさせてよ」とぐらい頼んでくるかも。万一、ではなく。べつに彼女があらゆる場面で自信家なのではない。彼女は彼女自身の魅力をよく承知しているのだった。


「ほら、貸してあげる」

「う、うん」

「レンズ汚さないでよ」

 

 私は肯き、芹香さんの伊達眼鏡をかける。彼女は「ん」と部屋の中の姿見を指差した。かけるだけかけて、それを自分で目にしないのでは似合うも似合わないもわからない。芹香さんの反応からするに、そんな大した変化ではないようだ。

 そして実際、姿見に映った眼鏡をかけた私は砂埜莉海でしかなかった。当然だ。何も変わらない。眼鏡をかけることで奇跡的に魅力が百倍になって、それであの子に振り向いてもらえる、なんていうご都合主義を通り越してギャグ漫画めいた展開はないのであった。


「芹香さん、眼鏡かけていないと純玲と目元がよく似ている」


 私はさっさと眼鏡をとると、持ち主に返しながら言う。


「姉妹だからよ」


 どことなく不機嫌そうに口にする芹香さんだった。私から伊達眼鏡を受け取ると、そのままかけ直した。敢えて言わなかったけれど私にとっては眼鏡をかけている芹香さんのほうが自然体だ。最初に会ったときからかけているからだな。


「じゃあ、芹香さんもモテるんだ」

「嫌味?」

「物静かで理知的な女子が好きな男の子もけっこういるでしょ」

「知らない。どうでもいい」


 心の底から出た言葉のようだった。人当たりを含めてコミュニケーション能力が純玲と比べて低い彼女はどうも人気者ではないらしい。


「泣けなかったな」


 私は芹香さんのベッドの枕元にある時計で時刻を確認した。分まで表示されているデジタル式で色はシルバー、つくりはシンプル。目覚ましアラームがセットされているかは知らない。もうそろそろ帰ろうかなと考えて、それから自分が泣きたかったはずなのにまったく泣けずにいるのに思い至ったのだ。


「あんな映画選ぶからでしょ」

「芹香さんは笑い転げていたよね」

「べつにそれはいいでしょ」

「うん、いい。私もどうせなら泣くほど思い切り笑いたかった。さめざめと泣くよりそっちのほうがいいよね、きっと」

「……そうかもね。ねぇ、砂埜さん」


 芹香さんは座る姿勢を改めると、無意識なのだろう、眼鏡の鼻あてをクイッとしてから真剣な面持ちになった。


「純玲が今回付き合ったの、前々から相手の男に恋をしていたわけでないと思うわ」


 私もその発想は頭にあった。 

 なぜなら、純玲が恋をしたのならそれをまるきっり表に出さずにいられる質ではないだろうから。私を含めた友達誰かに相談するなり、日頃の言動にそれっぽさが出るなりする気がする。けれど、たとえば昼休みに演劇部の人に昼食を誘われているときの純玲の顔はいつもと変わらなかった。もちろん、これだけでは意中の相手がいなかった証拠にならないけれど。

 いずれにせよ、いなかったとして、つまり恋に落ちていないとしても―――。


「でも、告白を断りはしなかった」


 それが動かぬ事実だ。私の呟きに芹香さんは肯いた。


「そう。察するに、中学生のときと違って高校生になってからは周りの影響もあって青春したくなったのかもね。ところで、ここ数日で相手の男がどんなやつなのかは純玲から何か聞いた?」


 私は首を横に振った。今日、デートすることは金曜日にそれとなく話していた純玲だ。けれど馴れ初めというか、演劇部での具体的なやりとりはわざわざ語らなかった。少なくとも私には、だ。私が別段、聞きたい素振りをしていなければ問わず語りもしない。口が軽い子には言わないようにしているみたいだし。交際関係をおおっぴらにするつもりがないのは見て取れる。


「それで? 芹香さんは何が言いたいの」

「喧嘩腰はやめて。私も気をつけるから」

「わかった」


 帰るときになって険悪なムードを漂わすのは私だって嫌だ。

 せっかく、そうだよ、曲がりなりにも芹香さんと今日でまぁまぁ仲良くなれたのに。面と向かって友達だよねと言わないし、嫌われたっていいという気持ちは今もあるけれど。


「すぐに別れる可能性があるわよね」

「それって私を試している? それを私が嬉しがったり望んだりするか見ているの? その伊達眼鏡を通してさ」

「疑心暗鬼にならないでよ」

「だって」


 私は強くないから。顔に出てしまうから。純玲が誰か他の人のものにならずに隣にいてくれるのを願う心がないといえば嘘になるから。


「私が言いたいのは……砂埜さんがその恋心を簡単に諦められないのであれば、一喜一憂しないほうがいいってこと。心、持たないわよ。折れちゃうわ」

「……お節介」

「知っている。自分でもなんでこんなこと言うんだか、って思っている」


 そうして何度目かの沈黙が訪れた。デジタル時計は静かだ。針の動く音さえこの部屋にはない。

 そのまま午後五時半を迎えて、私は帰ることにする。暇だから、と芹香さんは駅まで送ってくれるようだった。一人にしてよ、と言うつもりが代わりに「勝手にすれば」と口に出していた。それこそ芹香さんみたいに。




 最初に気づいたのは芹香さんだった。私の隣を歩いていた彼女が「純玲」と言ったのだ。夜闇にすぐに吸い込まれて消えた声であったが、その名前は特別だから聞き逃しはしなかった。そして私は遅れて、駅前にその姿を見つけた。

 

 純玲だ。そしてその傍にはもう一人。

 思いのほか、優男のなりはしていなかった。内面がどうかは知らないが、見た目ではそう。季節に沿った厚着をしているため、彼が藤堂先輩が形容した細マッチョかどうかはまだわからなかったが、その背丈はそこそこ長身の部類であった。純玲は歩きやすい底の薄く履き慣れた靴であったが、ヒールの高いものを掃けば彼と横並びになりそうだ。遠目で窺えるその横顔はいわゆるイケメンだった。それ以外に何か言い表す気になれなかった。


「あっ」


 思わず声が出た。

 距離にして目測、二十メートルといったところ。通っていた小学校にあった二十五メートルプールの記憶を基にして。彼女たちは水中ではなく私たちと同じ地上にいた。そうであるのに、私の足は沈み込み、その場で進まなくなった。

 街灯が悪い。闇を照らすそれが純玲と彼の姿を私にはっきりと示した。

 あたかも二人のために設えられた舞台。観客は私、それから芹香さん。

 

 純玲と彼の唇が重なるのが見えたのだった。

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