第10話

 日曜は朝早くからタルト生地の自作を始めた。

 丸く伸ばす前に冷蔵庫で一時間は寝かせ、焼き上がってからも冷ます工程があり、そしてできた生地に内容物を流し込んでから冷やし固める時間が必要だ。

 だから午後一番で三嶋家にお邪魔するのであれば、早くに始めるのが適当だった。そもそも生地を自作せずに市販のものを使ったり、そうでなくとも土曜の夜にあとは焼き上げればいい状態にしておいたりといった手もある。そうしないのは私の特に理由のない意地であった。強いて挙げれば、一度妥協するとその後はずっとそれが続くだろうから。

 貧乏性と言えばいいのか、せっかく購入した五号サイズのタルト型が埃をかぶらないようにと意識して定期的に作っている。深底タイプなので具沢山にもできる。サイズとしては三人から五人分ほどになるので、四人家族の三嶋家にぴったりなのは幸いだ。ミニサイズのタルトをいくつか、という選択肢もあるが、そうするには手頃な型がない。

 加えて言うなら、タルトストーンなる重石も買ってあり、焼き上げる際にありがたく使っている。生地が膨れ上がるのを防ぐためには他にも穴開け作業があるが、それ専用のピケローラーは買い求めずにフォークで代用していた。

 道具に凝りだしたら、果てがない。所詮、味もよくわからぬ素人のお菓子作りと割り切っている部分もあった。


 最初の頃は苦戦した生地を伸ばす作業も数をこなしていると慣れたものだ。


「麺棒の扱いがうまくなったわね」


 気づけば姉が現れ、ニヤニヤと私の麺棒捌きを眺めていた。


「今日はどんなタルトにするの?」

「レアチーズタルトでいくつもり」

「なるほどね。上に何か乗せるの?」

「解凍したミックスベリーを乗せて粉砂糖を振りかけるよ。そのまま白一面でもいいけれど、人様の前に出すなら色鮮やかなほうがいいかなって」


 白い満月。というのはいささか幻想的だが、雪景色めいたシンプルなレアチーズタルトも好きだ。実はついさっき、前に買った冷凍ミックスベリーが冷凍庫の端に残っていたのを見つけて使い切ってしまうことに決めた。


「へぇ、家族以外の誰かに食べてもらうのって初めてよね」

「うん。ほら、バイトに誘ってくれた例の女の子」

「仲良いのね」

「まさか」


 私は笑い飛ばす。


「水曜、木曜とお世話になった分かな」

「バイト先でってこと? 何かやらかしたの?」

「お客様に迷惑をかけたわけじゃないよ」


 純玲に彼氏ができて一夜明け、ぼんやりとしていたら日中が過ぎ、私のバイト初出勤がやってきていた。あの芹香さんが放課後になると、教室の外で待っていて「行くわよ」とたった一言、私に声をかけ歩きだしたものだから慌ててついていった。

 そんな私に「ふたりとも頑張ってね」と純玲が後ろから励ましてくれたのに、聞こえないふりをして振り返らず、何の反応もできなかった私だ。

 

 そして書店に到着すると、面接時に話があった制服が支給された。私はまだ週に二日間だけのシフトなのでとりあえず一着。シフトの入っていない曜日に持ち帰って洗濯すればいいとのことだった。何なら汚れていなければそのままロッカーに入れておいていいよと店長は言っていた。エプロンについてはそれでいいかも。

 更衣スペースは半分物置らしき小さな部屋だった。芹香さん曰く、男性の場合は半分どころかほぼ物置部屋を使わされているとのこと。

 

 さっさと着替えて出ていく芹香さんだったが、ほんの一瞬、彼女がブラウスのボタンに指をかけたそのときに純玲の話を思い出した。純玲が芹香さんとお揃いで買った下着。それをその日につけているとは思わなかったし、芹香さんの下着姿を直視しようものなら何を言われるかわかったものではないので、くるりと背を向けて着替えた。幸い、それを揶揄されることはなかった。

 

 そんなふうに始まったバイト初日は仕事を覚えるので手一杯だった。いきなり何でもかんでも押し付けられなかったものの、芹香さんが「考え事ができない程度に忙しくしてあげるわ」と真剣に言ったとおり、息をつく暇なしに動いていた。ほとんど付きっきりで芹香さんの指導を受けて初日、それから二日目も終わった。曰く、最初が肝心で、詰め込むだけ詰め込んでさっさと独り立ちさせる気なのだという。


「優しくて厳しいのね」

「そうなのかな」

「悪い子じゃなくてよかった。誘うだけ誘って、莉海をまったく気に留めない子だったら嫌じゃない」


 悪い人でないと信じたい。その気持ちはあった。紹介された同僚の方たちも、第一印象は真面目そうだった。他校の高二の男の子が親しげに芹香さんと話していて、芹香さんが軽くあしらっていたのが記憶に新しい。二十代半ばのフリーターと思しき男性は無口だったな。名前聞き取りづらかったし。


 タルト生地のほうは問題なく作れたので、冷ましている間にレアチーズケーキ部分を用意する。ボウルにクリームチーズを入れてなめらかになるまで混ぜて、それから砂糖、生クリーム、ヨーグルトを加えてさらに混ぜる。レモン汁を入れるのを忘れたけれど、ゼラチンの準備はちゃんとできているし、これを混ぜ合わせればしっかり凝固するはず。ヨーグルトは入れたから、チーズがしつこくならないと願いたい。


 タルトにレアチーズケーキ生地を流し込んで、あとは冷やして待つだけ。三嶋家へ出発する寸前に取り出して、解凍したミックスベリーを盛りつけ粉砂糖を振るえばいいだろう。片づけをテキパキと済ますと、途端に暇な時間ができた。午前十時過ぎ。姉はいつの間にかもういない。


「純玲と同じ香りだったな」


 ふと私は思い出して呟いていた。

 キッチンから、ふらふらとダイニングに移動してテーブルに突っ伏す。そこに微かに残る食べ物の匂い、それはバイトのときに芹香さんから香ったものとかけ離れた匂いであるのにもかかわらず、思い起こすきっかけとなった。

 

 バイトの時に芹香さんは仕事を私に教えるために、すぐそばにいた。死角からお客様が私たちのいた通路を通ろうとしたものだから、芹香さんが動いて私に軽くぶつかった。そんな何気ないワンシーンが木曜日にあった。

 その際にたしかに香った芹香さんの匂い。

 それが純玲と同じだった。私が好きなあの子と。花の香り。思い出せば思い出すほどに、頭や胸だけではなく下腹部まで熱くなる気がする。

 姉妹だから。たとえばシャンプーは同じものを使っている可能性が高いから。三嶋家の空気に触れて育っている二人だから。どれだけ原因や正当性を見言い出しても、私の心が跳ねた事実は覆しようがない。謝りもせず、すぐに離れた芹香さんに顔を向けられなかった。そのときの私はきっと惚けていたに違いないから。


 純玲のことを考えてしまう。自室へ戻る元気は出なかった。

 これならもっと手の込んだお菓子を作るのだった。作っている間は何もかも忘れてしまえる程度に。

 芹香さんが引いちゃうぐらいの気合を入れて、デートから帰ってきて純玲が食べる時になって「もったいわね」なんて言ってくれるような。「明日学校で会ったら、何かお礼しないとね」って微笑んでくれるような。




 ダイニングテーブルを枕にしての微睡みから覚めると、ちょうどいい時間だった。

 私はタルトを冷蔵庫から出すと予定どおりにベリーで彩る。粉砂糖をまぶしてから、手頃な入れ物がないのにやっと気づいた。

 結局、使い捨てのケーキボックスを買いに行く時間もなかったので、お菓子の空き箱で代用することにした。立派なやつをとっておいてくれていて助かった。それに紙皿もあったから敷物には困らなかった。

 そういえば芹香さんがレアチーズが好きかどうか確認していない。ベリーもだ。純玲が嫌いでなかったはずだからいっかと開き直って、家を出た。

 

 午後一時過ぎ。インターホンを鳴らすと、芹香さんが出迎えてくれた。コートさえ羽織れば、そのまま外出できるようなルームウェアだった。可愛げがない代わりに機能性は高そう。私がじろじろ見ていたのが気に障ったのか「なによ」と彼女は言った。


「これ、つまらないものだけれど」


 玄関で口論になって追い返されるのも不本意なので、私はタルトの入った箱をぐいっと渡す。芹香さんの瞳に驚きが浮かんだので、慌てて「中身はタルト。銘菓じゃないよ」と説明する。


「紛らわしいわね……どうもありがとう」


 慎重に私から受け取ると、素っ気なく彼女が礼を述べた。それを持ったまま、部屋に向かう彼女の後に続く。純玲が話していたとおり、芹香さんの自室は純玲の部屋のすぐ隣だ。そして純玲は既に例の彼氏とデートに出かけている。わざわざ芹香さんはそのことを言わなかった。玄関に靴がなかったからわかったけれど。


 芹香さんの部屋は大きな書棚がない分、純玲の部屋と比べて広く感じた。姉妹揃って落ち着いた色味で統一されている。


「あ、ペンギン」


 背の低いチェストの上にそこそこ大きなペンギンのぬいぐるみが乗っていたから、うっかり指摘してしまった。


「いちいち口に出さないでいいでしょ」


 予想はしていたのか、芹香さんは恥ずかしげもなく、さらりと言った。クマじゃなくてペンギンなんだ、と会話を続けては不機嫌になるのが目に見えているのでよしておいた。かくいう私の部屋には羊のぬいぐるみが置いてあるのだが、それを誰かに言ったことはない。


「こっちで候補絞っておいたから、選んで」


 再生機器として使用するタブレットを、芹香さんが私に示して言う。


「ミックスベリーレアチーズタルトに合いそうなやつある?」

「ない」

「それじゃあ、先に食べようよ。芹香さんは紅茶、美味しく淹れられるんでしょ?」


 前の勉強会、その帰路での言い草からすると純玲よりは上手なはずだ。


「あんた、意外と図々しいのね」

「芹香さん相手にだけだよ。今日から、こういうスタンスって決めたの」


 ここへと向かう電車の中で。芹香さんにびくびくするのはやめて、脅されようと屈しない。これから先、純玲とどう接してたらいいのか、接することができるのか。それはまだ不透明で、むしろ混濁とした未来だ。でも離れたくはないと思う。前を向くためには芹香さんを恐れていたくはない。


「時間かかるわよ」

「何か手伝える?」

「ない」

「そっか。けれど、ここで一人でいるのも嫌だから、芹香さんが紅茶淹れるところを見ていていい?」

「好きにして」


 はぁ、と溜息をつくと芹香さんがタルトの入った箱を持って部屋を出る。とんだ二度手間よ、と言わんばかりだ。私はそんな彼女の背中をまた追って歩いた。



 

 言うだけあって芹香さんの淹れてくれた紅茶は美味しかった。

 あの日純玲が使った、そのへんのスーパーでも購入できるティーバッグではなく、彼女たちの母親が愛飲している値の張る茶葉だそうだ。パリ創業の老舗紅茶専門店が販売している品だと言われても、ピンと来なかった。一つずつの所作を説明することなしに、黙々と手際よく淹れていく様は正直、格好良かった。眼鏡の奥の瞳が光るのを目にした心地がある。私がお菓子作りをするときは終始、無言というのはほとんどないからなぁ。


 タルトと紅茶を飲み食いするときも、静かなひと時となった。

 

「へぇ、美味しいわね」


 たったそれだけだが、私のタルトも褒めてくれた芹香さんだった。「私だけ食べているのも変でしょ」と私の分も切り分けてくれた。なお、父親は甘いものを好まないということで、想定していた四等分は変わらなかった。


 その後、二人で映画を選んだ。

 紆余曲折を経て、芹香さんが見繕ってくれていた候補になかった、いわゆるボリウッド映画に決まったのは午後二時をまわろうとする頃合いだった。

 ボリウッドというのは、インド映画において制作の中心地であるムンバイの旧称ボンベイと、あの有名なハリウッドを組み合わせて作られた言葉だ。ようはインド映画ってやつだ。


「インド映画が好きなの?」


 そう訊ねた芹香さんはまるで甘いタルトの中にごろりと根菜でも入っていたみたいな顔をしていた。


「ううん、一度も観たことがない。芹香さんは?」

「私もない」

「これ、すごく評価高いみたいだし、きっと楽しめるよ」

「だいぶ昔の映画よ。私たち生まれていない」

「そんなの関係ないよ。映像もほら、デジタルリマスターされているし」

「タイトルからして、踊るっぽいわよ」

「何もここでいっしょに踊ってほしいとは言っていないよ?」

「ねぇ、二時間以上あるわ」

「映画館じゃないからいつでもお手洗いにいけるね」

「……あんたがいいっていうなら、これにする」

「つまらないと思ったら、寝ていていいよ。ちょうどベッドもあるし」

「私の部屋だからよ」


 結果としては、二人で笑って楽しんだ。極上のエンターテイメントがそこにあった。いきなり踊り始めたときには、つい二人で顔を見合わせもした。それが複数回、そしてけっこうな尺があるから、これはこういうものなのだと認めざるほかなかった。それでいてストーリーがしっかりあって、引き込まれた。


「インドに行ったら人生観変わるって、わかった気がする」

「いやいや、映画一本見ただけでそれは……まぁ、わからないでもないけれど」


 冗談半分だったのに、芹香さんが得心するものだから、それでまた笑った。

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