第9話

 バイトが明日からでよかった。今日だったら体に力が入らず、頭も正常に働かないだろうから。

 それを理由に「不幸中の幸い」と表現してしまえば、純玲が演劇部の先輩と付き合い始めた事実を私の不幸として認めることになる。私の純玲への想いは結局、私を好きでいてほしい、愛をそのまま与えた分だけ、いや、それ以上返してほしいと望む、利己的で我儘で、ありふれた片思いだったのだと証明されてしまう。

 そうだ、純玲が幸福を感じているのなら。

 放課後でもなければデート中でもなく、そしてもっと劇的な舞台ではなく昼休みというタイミングで告白をされても彼女がそれを受け入れたのなら、私も祝福すべきではないか。

 

 ――――などと、いくら理屈を並べてみたって、私の気持ちは落ち着かない。

 

 おめでとう、とは言えなかった。ええっ、そうなんだ!?と大袈裟に驚き、おどけることもできなかった。むしろ、自分がどんなリアクションを示したのか誰か教えてほしい。気がつけば、純玲はいなくなっていた。例の彼氏といっしょに帰る約束をしているからと話していた。左耳から右耳へと通り抜けたはずの言葉はしかし頭に残っていた。

 

 純玲は優しい。

 もし仮に、私が彼女に恋人ができたのを知った途端に泣きだしていたら、その場に蹲りでもしていたらそれを放置なんて絶対にしない。

 だから、私はなんとか彼女がその場を離れてもいいと思える程度には「普通」の、すなわち友達として赤点ではない反応をしたのだと思う。


 廊下の窓を見やる。日が落ちて外を満たす闇ではなく、窓に反射している私に出遭う。すぐに目を逸らす。別人みたいだった。いっそ別人であってくれたなら、と馬鹿げたふうにも思った。

 

 そうして時間をかけて教室に戻ると、友達と呼べる間柄の人間はそこにもう誰もいなかった。

 皆がそれぞれ、向かうべき場所へと移って、各々の時間を過ごしているのだ。それがたとえば純玲であれば、彼氏との初めての帰り道を享受している。初めてと言っても、演劇部の先輩であるのだから、演劇部の活動日はよくいっしょに帰っていたのかもしれない。そういう話、聞かなかった。これまで私から訊ねもしていなかった。もしも事前に、演劇部があるときは帰りって誰かといっしょに帰っているのかと訊いていたら。日が短くなって夜道も暗くなったから、男の人に駅まで送ってもらっている?とでも遠回しに彼女に男の影があるかを探っていたら。


「何か変わっていたのかな」


 消え入りそうな呟きは誰の耳にも届かずに済んだ。

 一度、席に座ってしまうと立ち上がるのがつらかった。私はしだいに人気がなくなる教室で、バッグから古典文法の課題を取り出すと一問、一問解き始めた。


 純玲の彼氏。

 それが藤堂先輩の言っていた、お調子者でナイーブで細マッチョの男子生徒と同一なのか確認はできていない。あの時、先輩がその人が何部に所属しているかを話してくれていたらな。

 どんな人なのだろう。

 中学生の時に誰とも付き合わなかったらしい純玲が受け入れた相手。運動部寄りの見た目ではなく美少年みたいな風貌なんだろうか。そんな人、文化祭の舞台上にいたかな。思い出せない。私の記憶で色づいているのは純玲だけだ。演劇の筋書きはさして真新しくはなく、全体として高校生の演劇の域を出ていなかった。とはいえ辛口で講評できるほどに精通していないし、純玲に向かってこんな感想を伝えはしていない。

 演劇という枠組みではく、文化祭という枠組みで捉えれば、純玲を含めて演劇部員たちは見事に青春をしていて、眩しかった。地味な園芸部員の私は、文化祭では花一つ咲かせられずにいたのだからなおさらだ。その反省を受け、藤堂先輩と押し花を作ろう話にもなったのである。


 課題は捗らず、何度も手が止まって時間だけが過ぎていった。

 品詞の区別も、活用も、助動詞も敬語表現も、千年以上の年月を隔てて覚えるに値すると到底思えなかった。私たちは今に生きている。純玲に恋人がいなかった昨日には戻れない。


 失恋。

 ようやくその二文字がすとんと私の胸中に落ちて沈んだ。

 それがかつて純玲が言ってくれた私の深くに眠るダイヤモンドと結びつきはしないのだと、それは宝石ではなくて出来損ないの金平糖だったんじゃないかなって自嘲した。




 その日の午後十時過ぎに電話がかかってきたときは、部屋を明かりを消してベッドに横たわって眠ろうとしていたところだった。眠れてはいなかった。暗闇に慣れた目が映し出すおぼろげな天井を眺めていた。意識はしっかりあったはずだけれど、電話がかかってくるのは予想外の出来事だった。身を起こして電話に出る。

 

「もしもし。今いい?」


 電話の相手は芹香さんだった。

 一瞬、バイトが実は今日からで無断欠勤を咎めようとしているのかと思った。けれど、そうだったら午後十時にかかってくるのはあまりにも遅い。頭が回っていないんだ。眠ってはいなかったのに、なんだったら目は冴えていたのに……。


「砂埜さん?」


 黙りこくっている私に芹香さんが呼ぶ。


「ああ、うん。砂埜です。えっと、ごめんなさい。眠りかけていたの」

「不貞寝?」

「え?」


 私はスマホを持つ手を左から右手に変えた。暗がりに灯るディスプレイの光は、耳に添えることで気にならない。


「ねぇ、純玲からもう聞いた?」

「…………彼氏ができたって」

「そう」


 あれドッキリなのよ、と芹香さんが続けてくれるのを願うほど、私は愚かではなかった。しかし芹香さんがわざわざこんな時間に電話をしてきた件については身構え、何かあればさっさと通話を切って、寝てしまおうと考えた。


「その彼、どんな人か知っている?」


 芹香さんが私に訊く。同じ家にいる純玲に訊けばいいのに。


「知らない」

「本当に? 口止めされているんじゃなくて?」

「演劇部の先輩ってことしか」

「そう」

「うん」


 沈黙が訪れ、私は部屋が寒いのに気がついた。

 エアコンの作動している音もなかったのだ。先週あたりから、就寝時はタイマーをセットして暖房をつけている。設定温度や風が直接当たらないように気を遣って。それが今、停止している。タイマーのセットミス、ううん、今日は初めからつけるのを忘れたんだ。


「どうするの」


 その声は芹香さんの発したものであると聞こえなかった。かと言って純玲でもない。私は「今なんて?」と間抜けに訊き返す。


「どうするのよ、あんたは」

 

 声を荒げる芹香さん。いよいよ二人称が「あなた」でもなくなった。


「どうって……。何が聞きたいの? いかに私が傷心しているか知りたくて電話してきたの? この失恋が引鉄になって私がストーカー行為を純玲にするとでも、そんな憶測でもした?」

「べつにそうは……」

「あのね、芹香さん」

「なによ」

「もしもあなたが悪意をもって、告白される前に実質フラれちゃった私を侮辱するためにでも、この電話をしてきたのなら。もしそうなら、私が傷つけるのはあなただよ。たとえば、バイト先であなたの根も葉もない悪評でも広めようか。あなたの眼鏡をかち割ってあげようか。あなたの……」


 息が続かなかった。芹香さんのことなんて考えたくなかった。震える声は一度止めると、もう出てこなかった。


「誤解しないで」


 芹香さんの声は冷たかった。


「私はただ純粋に、あんたが純玲への想いを断つか否か、それを確かめたかった」


 淡々とした調子に私はかっとなった。


「馬鹿じゃないの。彼氏ができましたって言われたその日に、好きじゃなくなるって本気で思っている? やっぱり馬鹿にしているんだ」

「していない」

「じゃあ、なに」

「私は……知りたい。純玲に恋人ができて、それで、そうしたら諦めるのか」

「それさっきと言い方変えただけじゃん。ほんと口下手だよね。それでも純玲の妹なの?」


 私の心ない言葉に押し黙った芹香さんが次に何か私を悪く言ってきたら電話を切るつもりだった。着信拒否して、それからバイトも初出勤を前にバックれて……もう学校も行かなくていいんじゃないかって思えてきた。全部投げ出したくなった。


「紛れもなく妹よ。妹なのよ」


 自分に言い聞かせるように。声を震わせているのは、私への怒りを堪えているからなんだろう。彼女のほうが大人だった。そのことは私をさらに気落ちさせる。


「……芹香さん」

「今度はなに」

「ひょっとして、ううん、あり得ないけれど、もしも万一、あなたが私を心配してくれて電話をしてきたのだとしたら……ありがとう」

「あり得ない」

「だよね。よかった」


 じゃあもう切るね、と私は続けるつもりだった。でも芹香さんがその前に呟く。


「次の日曜」

「なにかあるの」

「デートするそうよ」


 純玲たちが。主語がなくたって通じる。話の流れで。古文でも散々、省略される主語はたしかに現代でも省かれてしまう。


「そうなんだ」

「気になるわよね」

「大丈夫。邪魔をするつもりはない。言わないとわかってくれない?」


 嫌われてまで彼女たちの関係をぶち壊す方法をとる度胸はない。嫌われずに、つまり裏から別れさせる方法があればとるのかな。人道から外れていない?


「あのさ」

「うん」

「あんた、うちに来ない? 暇でしょ」

「は?」


 意味不明だった。どうして純玲がデートする日曜日に私は芹香さんに家に誘われているんだ。無論、そこは純玲の家でもあるのだけれど。

 そうまでして、私を純玲のデートの邪魔をさせないために見張っておきたいってこと? この人は私の純玲への想いを過大評価しているのか過小評価しているのか掴めない。


「二人で何するの」

「何って……ちょっと、変なこと考えていないでしょうね」

「ざけんな。芹香さんじゃ純玲の代わりになれない」


 ここまでぞんざいな口の利き方、純玲相手にだってした経験がなかった。


「当たり前でしょ」


 芹香さんは鼻で笑って返す。まったく効いていない。なんか悔しい。


「映画でも観る? 純玲の映画観賞の趣味ってうちのお父さんの趣味でもあって、家にはけっこうDVDもBDもあるの」

「前に純玲から聞いた」

「あっそ」


 芹香さんと二人で映画観賞。純玲がデートしている時に一人で呆けているよりは幾分かましだと思えた。この人だったらいくら嫌われたっていい。

 そうだよ、行ってやればいいじゃん。向こうが誘ってきたんだから。じっとしていたら、どうにかなるに決まっている。


「……ラブロマンスは勘弁して」

「私もその手の映画は好きじゃないから」

「ホラーやスプラッターもダメ」

「お母さん含めて三嶋家は怖がりだから、そういうの一切ない」

「動物がいいな。死なないやつ」

「探しておいてあげるわ。配信サイトのサブスク入っているし、そっちにはあるはずよ、いくらでも」

「でも、泣けるやつもいいかな。泣きたい気分だから」

「……まだ泣いていなかったの?」

「芹香さん、友達少ないでしょ」

「うっさいわね」

「甘いもの好き? 映画のテーマじゃないよ。お菓子のこと」

「は? なに急に」

「焼きたい気分でもあるから」

 

 無遠慮な芹香さんに無遠慮な言葉を投げ続けていると、気持ちが多少落ち着いていくのがわかった。何も彼女のためにお菓子を作りたくなったのではない。それはない。日曜恒例のお菓子作り。三嶋家を訪れる前に済まそう。姉妹の分を用意する。こんな形で純玲に私のお菓子を食べてもらおうなんて。いいよね、べつに。


 日曜日に約束を取り付けて私たちは通話を終えた。律儀に「おやすみ」と言う彼女。私が何か返す前に彼女は電話を切った。


 おめでとうって言えるかな。明日、純玲に会ったら。

 零時を回る頃、私の意識は途絶えた。

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