第8話
西棟そばに植えられている金木犀たちが、その花を前日の雨で散らせてしまい、真下の地面を黄金色にしていた日だったのを覚えている。まだそこに秋がいた時季。
文化祭準備期間は授業が午前中だけで、その時の体育の時間に貧血を起こした私を純玲が保健室に来て見舞ってくれたのだった。
私としては午後からの準備にきちんと参加したかった。私はクラスの展示制作の中心的人物では決してなかったが、しかし非協力的な態度をとる一部の生徒をそれまで内心なじりながら大真面目に取り組んでいたのもあって、このまま横になっているのを疚しく、そして悔しく感じたのである。
そんな話を訥々と純玲にしてみたら、彼女は「いい子、いい子」と私の頭を軽く撫でた。子供をあやすように。からかうにしては、手つきが優しすぎで文句の一つも出てこなかった。
「莉海って、小学生のときからそんな感じだったの?」
「どんな感じ?」
「静かに燃える女、みたいな」
「なにそれ」
「私は燃え上がるときは周りから見ても燃え上がっているそうだけれど、莉海ってそうじゃないでしょ?」
純玲はたとえば夏前にあった球技大会で運動部顔負け、八面六臂の活躍ぶりだった。燃え上がっていた。吹奏楽部の三年間で鍛え上げられた運動神経があるのよ、と大会前にふかしていたのが、虚言どころか大会中に真実味を帯びていった。フットサルでの足さばきはどこで身につけたのか知らないが、巧みだった。サッカー中継を見て覚えたのよ、とでも言いそうだ。
「私って物事に熱中して取り組むのが苦手なのかなぁ。そうするだけの何かを見つけられていないって言えばいいのかも。その分、与えられた仕事は義務感も相まって、なるべく真剣にこなす。うん、自己分析はこんなところ」
「集中と熱中、それに夢中は違うものね。なんとなくわかるわ。莉海はたしか中学生の時は陸上部だったのよね」
友達になってすぐの頃に話したことだ。驚かれた。全然日に焼けていないって。中三の夏に引退してから、意識して日を避けていた甲斐があった。
「うん。部内で一番足が遅かった。でもね、走った距離は上から数えたほうが早い」
「あら、長距離走をやっていたの?」
「ううん、競技としては短距離種目に出してもらっていた。そのほうがすぐ決着つくから」
「それはつまり、足が遅い分、他の部員よりも練習量が多く課せられていたわけなの?」
「そうじゃないの」
私はベッドからゆっくりと上半身を起こした。
純玲が口を開いて何か言いかけたが、やめた。十中八九、私を案じてくれる言葉だったのだけれど「大丈夫」と笑う私を見て、問題ないと判断してくれたのだ。
「陸上部にはね、入りたくて入ったんじゃないの」
「それは初耳。何かドラマチックな経緯があったの?」
私は純玲の問いにどう応じるか迷って「秘密」と口許に指先をやってみせた。こんな仕草、純玲には似合っても自分じゃ絵にならないのに。でも純玲が「そう」と微笑みを浮かべてくれたから許された心地がした。それで自分から話を続けた。
「詳細はともかくとして、ただ走りたかったんだ」
「……なぜ?」
「走っていないと落ち着かなかった」
「それって……」
「走って、走って、前に進む以外何も考えずにいられる時間が必要だった」
「……」
気がついたら、めったやたらに走る鈍足女子陸上部員になっていた
先輩の中には陰で蔑む人もいた。親切にしてくれた先輩もいるにはいた。後輩とは仲良くなれなかった。顧問は、陸上競技に対して門外漢だった。引退してから、走るのをやめ、走る気も失せ、日に焼けた肌が恨めしくなった。
「そうした時間って今はもう必要なくなった?」
「たぶん」
「莉海って不思議ね」
「えっ。私が?」
純玲のほうがよっぽど不思議だ。
ころころと変わる表情、声色、全部が純玲で、全部に惑わされちゃっている私。そうだ、記憶を辿ればこの頃には既に純玲の持つその魅惑的な振る舞いに、振り回されていた気がする。
現にその時、純玲が「うん、不思議」と繰り返して私の乱れてしまった後ろ髪、それから前髪にそっと触れたときには、奇妙な脱力感が押し寄せた。それは言い換えればずっとそのままされるがままでいたいという欲求だった。そうだ、その時は手で払いのけるなんてしなかった。しなくて済んでいたんだ。
「莉海は、急にスポットライトが当てられたみたいに華やぐことがある。その瞳から目が離せず、その声に耳をすっかりあずけてしまうことがある。ああ、待って。いつもは地味だって言いたいんじゃないの」
「地味なのは知っている」
「こらこら、拗ねないで。あのね、うまく言えないけれどそれは莉海の魅力の一つだと思うわ。きっと日頃は莉海の中に沈んでしまっている金剛石が、ふとした瞬間に光を浴びてまたたく」
「沈んでしまっている金剛石?」
いまいちディテールがつかめない比喩だった。そんな私に純玲は恍惚とした溜息をつく。私に、私の知らない何かを見ているふうだった。
「ファンタジーではなく、海底で採れるダイヤモンドってあるのよ」
「そ、そうなんだ」
「今は信じられないかもしれないわね。だけれど、莉海。いい? 私以外でもあなたに眠るそのダイヤモンドを探し当ててくれる人ってぜったいに現れるわ。あとはあなたがその人を気に入るかどうかね」
「何の話?」
「鈍感なんだから。運命の人ってことよ。ロマンチックに生きなさいよ」
「なんで私、責められているんだろう」
そうして私たちは笑いあった。純玲のおかげで私は午後から無事に文化祭の準備にとりかかることができた。
運命の人。彼女がそうではないのを自ら暗に示していたのを今なら、悲しく思う。そんな些細なことすら、今はささくれだつ。
パウンドケーキを焼いた翌日の月曜日の放課後。
私は藤堂先輩と校内を歩き回っていた。校内と言ってもそれは敷地内を意味するのであって、寒空の下だ。
例の園芸部ノートに従って、植物の点検を実地していたのである。たわいないおしゃべりをしながら見回っていく。先週と違って晴れていてよかった。
夏越しを果たした耐寒性の高いシクラメン、赤と白の二種類が屋外の花壇に地植えされていて花を咲かせており、冬の到来を印象付ける。また別の区画では、ひっそりと日の当たらない場所に寒椿の低木がちょっとした生垣を成しており、鮮やかなピンクの花が寒さに負けずに咲き誇っていた。剪定は私たち園芸部でしなくていいとノートにあった。寄せ植えされている寒咲きのクロッカスはまだ咲いていなかったが、藤堂先輩の好きな花であるそうで「頑張って育つんだぞー」と声をかけていた。
先輩のクラスでは早くも半分以上の教科のテスト結果が返却されたらしく、その点数は先輩の顔をにんまりさせていた。花の妖精は寒い中でぽかぽかとした調子で私に自慢げに話す。
「いやぁ、勉強した分だけ成果が出るといいもんだねー」
「例の家庭教師さんのおかげですか。えっと、(仮)がつくんでしたか」
「本業は別にあるからねー」
以前、聞いた話では藤堂先輩のありとあらゆるモチベーションに繋がっている人であるそうだ。それはようするに恋仲にあたる人なんだろうか。ただ、聞く限り社会人であるみたい。聞く限りと言っても、勝手に先輩が口を滑らせて、開き直って肯定したってだけだ。
「でも、そのとおり。あの人がいろいろ教えてくれたから、今のあたしがあるのだ」
「へぇ……」
「紹介してあげないよ?」
「何も言っていません」
「ところで莉海ちゃんはどうなの?」
どうって。
純玲が好きだ。疑いようがない。だから困っているのだ。
そうは言っても、今の自分があるのは純玲なんだって主張するのは、純玲に悪い気がする。そこまで深く関わっていないからだ。いくら今の私の頭を、いや、心を占めていたってこれまでの自分を築きあげた人と定義づけるのは、不相応に重いのでは?
「おおー? もしかしてその顔は、赤点があったのかなー」
「へ? あっ、そっちですか」
「そっちとはどゆこと?」
「な、なんでもないですっ」
「どったの急に!? 顔が赤点になっているよ!」
「うう、四十点未満の顔で悪かったですね」
「ちがう、ちがうよ! 莉海ちゃんは可愛いよ! 平均プラス十点あげていいよ!」
生々しかった。
が、藤堂先輩だからこそ嫌味っぽくなく、後腐れもなく笑ってスルーできた。
「もやし……じゃなくて、もしや莉海ちゃん」
「なんですか、その言い間違え」
「我が校の園芸部に代々伝わるガーデニングユーモアだよ。漢字では園芸諧謔節。卒業した先輩が言っていた」
なんだそれは。うちの学校、菜園には力入れていないぞ。そういう問題ではないか。まぁ、でも純玲だったら喜びそうだ。
「ん、ん。もしかして恋のお悩みだったの? 先週は暗い顔していたよね」
「いえ、違います」
ずばり的中だったが、私はズバッと返した。それが藤堂先輩相手ならできた。もちろん、平気で嘘をつける相手というのではなく、冷静に対処できる相手という意味合いだ。
「なんだー、ちがうのかー。噂じゃ、うちのクラスの男子が近々、気になっている年下の女の子に愛の告白をするってんで、盛り上がっていたよ」
「告白前から噂されるものなんですか」
「クラスのお調子者で、そのくせナイーブ、実は女子にもそこそこ人気の細マッチョくんなのだ。あたし、話したことって数回しかないけれど」
「藤堂先輩と波長が合いそうですけれど」
「ないない。あたし、包容力がある人が好きだから。あの程度の筋肉じゃ片腹痛いって。柔軟性も皆無だし」
筋肉が要るのか、むしろ柔軟性に重きをおいているのか解釈が分かれるが、詮索するつもりはない。
「それにね、あたし、こう見えてシャイガールだからなー」
「あの、先輩。シャイって内気だとか恥ずかしがり屋だとかいう意味です」
「知っているよ!?」
久しぶりの園芸部の活動は終始のどかだった。図らずとも、藤堂先輩の花の妖精らしからぬ大きなくしゃみで始まり、終わった日であった。
その翌日の火曜日のことである。
昼休みが終わってから純玲がそわそわしているのは、彼女の背中が望める私の席からでもわかった。午後一番の授業の後、話しに行ってみたら「放課後に話すわ」と手のひらで制止された。私がまだ何も言っていないのにだ。どれだけ私は顔に出やすいタイプなんだろうか。以前、鏡を避けたのを思い出してそれが正解であったのを複雑な心境で答え合わせをした。
そして迎えた放課後。純玲は私をつれて人気のない場所を求め、彷徨い始めた。二人きりになれる空間を探している雰囲気であったが、なぜそれを欲するのかわからぬまま、彼女の隣を歩いた。ピリピリでもなければワクワクでもなく、絶えずそわそわし続けている彼女の動きに反してその横顔からは感情が読み取れない。
「ここでいっか」
東棟の誰も来ない四階の廊下、窓の外、校庭を見やって私たちは横に並ぶ。そこは暖房の温かい空気がまともに流れておらず、寒々としていた。
「んー。少しだけ悩んだけれど、莉海にまず言うことにするわね!」
「え、どうして」
中身ではなく私を選んでくれた理由を問う。驚き半分、嬉しさがあるのが隠せなかった。少なくとも私の罪を罰するような話ではないと確信していた。
「それはまぁ、大切な友達だからよ」
「……悩んだんだよね?」
「お口がふわっふわしている子には言いたくないと思って」
「――――聞かせて」
予感がした。花香るように、ふわりと。
嬉しさは霧散したが、張りつめた声を出さないように、私にとっての「杞憂」であるように願った。純玲は両手をすり合わせて、はぁと息を吐いた。さすがに白くはならない。
「良いニュースと悪いニュースがあるわ。どちらから聞きたい?」
私は面食らったが「じゃあ悪いニュースから」と咄嗟に口にした。
「さっき返ってきた数学Ⅰがあと一点足りなくて追試を受けないといけないわ。これは入学してから初めての経験よ。あんまりだわ」
「今回は平均点が低かったから、受ける人多いみたいね。赤点のボーダーを平均点の半分にでもしてくれればいいのに」
「そうね、そのとおりだわ。これは試験作成者である教師側のあるまじきミスね。大勢で直訴すれば追試は覆るかもしれないわ。ねぇ、莉海は何点だったの?」
「六十七点」
「平均より十点は上じゃないの」
そんなことをつい昨日、別の形で別の人から言われた気がする。
いや、そんなのは今は関係ない。笑う純玲に私は笑えず、躊躇いながらも訊く。
「それで良いニュースは?」
純玲は「ああ、うん」と言うと、咳払いをする。それから、あたかもどんな顔したらいいのかわからないって顔をした。
「昼休みに演劇部の先輩から告白されて、付き合うことになったの」
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