第7話
パウンドケーキはボウルに必要な材料を一度に全部入れて、ひたすらかき混ぜ、型に流し込んで焼けばできあがる。
とはいえ、なんだかお菓子作りをしている気になれないので、実際にはもう少し段階を踏むレシピを私は好む。
つまり、クリーム状になるまで混ぜた無塩バターにグラニュー糖を混ぜ合わせるときには二回に分けるだとか、といた卵黄を四回に分けてよく混ぜ合わせていくだとか。他にも薄力粉とベーキングパウダーはそのままではなく、ふるいをかけて入れていくだとかだ。それらは皆、材料が理想的に混ぜあうように、部分的に塊ができてしまわないようにするための工夫だ。
腕力に自信もないので、全部いっしょくたにして混ぜるより自分に向いているという事実もある。
準備として肝要なのはバターと卵黄は常温に戻しておくこと。より正確には冷凍・冷蔵庫から取り出してそのまま入れない。冷凍保存されているバターをすぐに混ぜようとして失敗した経験がある。
フルーツなどを入れない限り、パウンドケーキは比較的日持ちする。むしろ粗熱をとってすぐではなく、二、三日寝かせたほうが生地に味が馴染むそうだ。乾燥を防ぐためにラップできちんと包み、そして常温保存。うまくできたら誰かに贈ろうかと作るたびに思いながらも実現に至っていない。
「鼻歌交じりで上機嫌ね。何かいいことあったの?」
混ぜ合わせが完了して、型にクッキングシートをセットした頃に、ふらりと姉が現れた。ちなみに型はテフロン加工がされたアルミ製で、幅十八センチ・奥行き八センチ・高さ六センチ。空焼き不要。
「そう見える?」
「もったいつけないで教えてよ」
「内緒」
「もうっ、いつからそんな生意気な子になったんだか」
実のところ、つい昨日の純玲を思い出してときめいていた。そうするのを自分に許した、ううん、彼女の笑顔やお披露目してくれた恰好を思い返せば自然と心があたたかな気持ちで満たされるから。
昨日、約束していたとおり期末考査の打ち上げと称して、何人かでショッピングモールへと足を運んだ。友達との休日の過ごし方として、出かけるなら駅前とここの二択が多い。残りは誰かの家でまったり。学校に近い子の家にお邪魔するのが集まりやすいので頻度が高かった。
ブラックフライデーなるアメリカ発祥の商業的記念セール期間に向けて、モール内は盛り上がっていた。いつまでもジェラートが溶けない外気温に対して、ソフトクリームがドロドロになりそうな熱気。人ごみと空調のせいで、厚手のコートを着ているとじんわり汗ばむぐらいだった。各々で体温調節を図る。
コートの下、純玲は透け感のある白いタートルネックの上にグレーのニットベストを重ねていて、その色味の上品さが純玲に優美に演出している。セットアップのスカートの丈は制服のそれと比べて心もとなく、脚部がより晒されているのに、ちっとも卑しくない。
純玲がひょいっと身を屈んで私に訊く。
「ねぇ、莉海。こっちは似合っているかしら。こうしたリボンカチューシャはもっと、ええと、ゴシック系? お人形さんみたいな服じゃないとダメ?」
「ううん、よく似合っているよ。リボンがそれより大きかったら不自然だったかも」
学校ではヘアアクセサリーをしない純玲がしているだけで新鮮であったし、お世辞ではなく本当に似合っていた。黒髪に映える白色系統のリボン。
「ありがとう。今日は好きなだけ見蕩れていいわよ」
純玲ならではの冗談に私は「そうする」と返してみて、普段から事あるごとにそうしているとは冗談でも言えなかった。
そのやりとりの直後、他の子が「ここじゃ目移りする人いくらでもいそうだけれどねー」なんて茶々を入れて笑い合った。たしかに私たちは少し背伸びした恰好をしたところで高校一年生に過ぎなかった。
モール内を歩いていると、長身で美形のモデルみたいな女性や、いわゆるデート服なのだろう、気合が入った服装をしている二十歳前後の女性もいた。そうした人たち以外でも、同じ高校生っぽいけれど上級生と思しき女の子たちがメイク込みでキラキラしている様にも何度か出くわした。
でも、その人たちと比べて純玲が見劣りしているとは思わない。思えない。
私にとって純玲は、たとえばショーケースの中で宝石みたいに堂々と鎮座しているスイーツだった。私がどれだけ頑張っても作れない。易々とフォークを突き立てられはしないし、スプーンでたった一口掬い取る勇気もない。甘い香りすらもケース越しでは届かず、ずっと見守ることさえ叶わないのだ。
その味を知りたいと希う、まさにそのことに罪の味がするのだった。
フードコートでの遅めの昼食を挟み、少ししてから友達がお手洗いにいっている間に――――時間が経つにつれて人が増えてきており「私たち皆でぞろぞろとお手洗いに行くのはマナー違反でしょ」と純玲が判断した―――私は純玲と二人で話す機会があった。
空いていたソファに並んで座っていた。斜め前方にはランジェリーショップがあって、共用通路に面した店頭で三十過ぎの夫婦と思われる男女が話しながら下着を選んでいる。男性が一つを指差し、女性が笑って首を振る。
「新しい下着でもほしいの?」
純玲が彼女のスマホから視線を私に移して言った。その指先は既に画面から離れている。
「ぼーっと見ていただけ」
「へぇ。あのね、ここだけの話なんだけれど」
純玲はそう言うと、拳一つ分、間を詰めた。すると、ほとんど私たちの距離はなくなった。純玲の香りがふわりとして、心をくすぐる。
「前にね、勉強会したときに話していたやつ。このベストやスカートだけじゃないのよ、新しく買ったの。なんだかわかる?」
「さぁ」
「下着よ」
店頭にいた男女は奥に入っていき、見えなくなった。
それで私の視線は宙を泳ぐ。
「いい値がしたのよ。ああ、でも違うわよ。とんでもなくセクシーな勝負下着って感じのじゃない。違うからね。そういうの想像しちゃダメよ」
純玲のその言葉に私はまた身体中が熱を帯びる前に、「しないよ」と言ってのけた。でも想像してはいけないと禁じられたら、かえって想像してしまう。不可抗力だ。私は純玲が淫靡な肌着を身につけている姿を思い描いた。
幸いにも、参考となる記憶をあまり有していなかったものだから、イメージ上の純玲はすぐに崩れてどうにもならなかった。代わりに、体育の着替えの際に彼女がどんな下着を上下につけていたのか思い出してしまった。
何も私はその姿をばっちりと目に焼き付けているわけではない。純玲がとくに恥ずかしがらずに着替えて、その途中でも話しかけてくることが過去にあったので覚えているというだけ。それだけ、だ。
「ねぇ、見たい?」
「え?」
「ちょっと大人っぽいやつ。今つけているのよ。芹香とお揃いで買ったの。微妙な顔していたけれどね。久しぶりに姉妹水入らずで買い物に出かけたのに。終始、気難しい顔色していたわ。あの子、笑ったら可愛いのよ。そりゃ、私の妹だから」
情報量が多かった。
いや、私が追いついていないのは「見たい?」なんて純玲が訊いてくるからだ。想像ではなく実物って、しかもこんなところでそんなの、ふしだらだ。理性としてはそうみなしているが、早まる鼓動はどうにもならない。見てどうする。どうなる。どうなっちゃうんだ、私。
それはそうと芹香さんとお揃い、か。姉妹なんだからそういうのもあるか。私は姉のおさがりって、もう一つもないけれど。
「芹香さんが声を上げて笑ったの、見聞きしたことないなぁ」
私は下着の話を続けたくない、厳密にはまた顔を真っ赤にしてしまうのを恐れて、話題をずらした。純玲にとってはもしかすると最初から芹香さんについて話したかったのかな。本気で見せたがっていないよね?
「頼んでおきましょうか。莉海へのスマイルをデリバリー」
「送り届けてくれるかな」
「無料とはいかないかも。それと離島の場合、送料が別途発生するわね」
「じゃあ、いいや」
「ふふっ。大丈夫よ、莉海ならきっとそのうち見ることできるわ」
私は黙って肯いた。芹香さんの笑ったところ。それは声を上げずになら、見覚えがある。あの日の勉強会、純玲の部屋でのとってつけた笑顔、それにカフェでの脅し文句を伴う微笑み。……思い出さなくていいことだったな。
結局、私は純玲がその日つけていたという「大人っぽい下着」を目にせずに帰宅した。帰ってきてから考えたのは、純玲はそれを見せたい誰かがいるのかという疑問。それは純玲なりに「そういう状況」に備えての買い物だったのか。それとも、単なる背伸びなのか。芹香さんとのお揃いなんだから、後者だよね……?
百七十度に設定したオーブンで予熱後に四十分余り。十分経過したところでケーキの生地の中央にナイフで切れ目を入れる。オーブン内と生地の温度が下がり過ぎないよう、素早く行う。これで、完成させたときにきれいな割れ目ができるはず。
「そういえばバイトのほうは?」
二十五分が経過したとき、姉がそう訊いてきた。
「一昨日の金曜日に急遽、面接があって受けてきた」
「それで?」
「採用」
「おめでとう」
「しばらくは、誘ってくれた友達と同じシフトで働くことになったよ。その子がいろいろ教えてくれるって」
「その子が教育係なの? しっかりしている子なのね」
そうなのだ。
芹香さんはゴールデンウイークの中ほどからあの書店で働いていて、つまり半年余りの経験なのだが、他の従業員からは一定の信頼が置かれている。
面接をしてくれた雇われ店長曰く、あれで接客時にもっと自然な笑顔があれば言うことなしだそうだ。フロア担当時の陳列作業のテキパキとした様子は他の人にも見習ってほしいとも褒めていた。若いから体力と集中力があっていいね、と私にもそれを期待する眼差しに私は愛想笑いを浮かべて応じた。
ちなみに当の芹香さんは「馬鹿みたいに全力出しっぱなしだと肩や腕、腰も痛めるから、うまくサボるのがコツ」と、しれっと言っていた。まずは陳列棚の配置を頭に入れるのと、電話対応はマニュアルがそんなに頼りにならないから、他の人がしているのを聞いて早く覚えてとも彼女は話していた。
「莉海がバイトねぇ。最初は誰しも失敗がつきものよ」
「そういうの、私が失敗して落ち込んでいる時にかけるんじゃないの」
「事前に言っておこうと思って」
「なんだかなぁ。でも、そうだよね。初めから全部うまく人はいないよね」
「そうそう。せいぜいその子の面子を潰さないように頑張るのね」
「その意識はなかったかも」
「制服ってあるの?」
「うん。白いシャツに黒のスラックス、上から紺のエプロン」
「シンプルかつ平凡ね」
「それが一番だよ」
書店員に可愛い制服を要望するのが間違っている。けれど、芹香さんの制服姿は様になっていたな。眼鏡をかけているのが補正になっているかもしれない、なんて。いかにも本屋さんで働く女子って雰囲気だった。芹香さんにそれを言ったら「は?」とでも返されそう。それとも存外、照れたり……は、しないだろうな。
私と純玲とが一緒にいられる放課後の時間を減らす、それが芹香さんの意図としてあったのだが、よくよく考えれば大差ない気がする。もしやバイトがある日は放課後になるとすぐに私の教室にまで迎えに来て、連行するのかな。
「なに考えているの?」
「べつに」
「ふうん。アルバイト代、使い道どうするの?」
「……さぁ」
今よりもたとえば服装に気を遣えば、純玲は可愛いねと言ってくれる? 思い切ってゴスロリでも着こなしてみれば、それまでと違う気持ちを私に寄せてくれる? 大人びた下着をつければ彼女に近づける? 昨日、モールで皆で洋服やアクセサリーを物色している際に私の頭にあったのは純玲のことばかりだった。お揃いのコーデをしてみたいと提案したら乗ってくれたかな。リボンの一つでもつけてみればよかったのかなって、そんなことを後から考えている私がいた。
もう少しでパウンドケーキが焼き上がる。ぼんやりと私はオーブンを眺めた。
バターの香りが漂うと共に、姉がいなくなっていた。
オーブンの設定温度は前とそのまま、少し時間を長めにしたから生焼けはないと思う。切り込みも深めにした。しっとり感を維持するためには下手に設定温度を高めたり、焼き時間をぐっと伸ばしたりするのは禁物だ。
「パウンドケーキ、純玲のために持っていったら芹香さん怒るかな」
誰も答えてくれなかった。
そして新しい一週間が始まり、秋の終わりを告げるような冷たい風が真昼に吹きつける頃、私を芯まで焦がすこの恋は新たな局面を迎えるのだった。
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