第6話
翌日の金曜日、放課後になると純玲が足早に、私の席までやってきた。
その歩調とは裏腹に、柔和な物腰で彼女は提案する。
「明日はまた私の家で勉強会をしない? ああ、なんだったら莉海の家でというのもありよね。前に話していたとおりに。ねぇ、部屋は片付いたかしら」
座ったままの私と傍に立って見下ろす彼女。
「えっと…………部屋はまだ片付いていない、かな。うん」
「また私の部屋ならいい?」
昨日、芹香さんから「普通」にしてと懇願されている。ここで断れば、純玲は芹香さんにまた何か言ってくれるのかもしれない。
言ってくれる?
そうか、私は愚かにも心配をかけていること、彼女が私なんかを心配してくれるのを後ろめたくだけではなく、嬉しがりだってしていたんだ。嫌な子。
「そうだね、前と同じく。それだったら行くよ」
提案を受け入れて、私は教室内に視線を投げる。共通の友達もまだそこにいる。二人きりないし芹香さんを足した三人きりでの勉強会よりも同じクラスの友達四、五人のほうがいい。
「あそこの二人は、昼休みに誘っておいたわ」
純玲が私の視線を追ってそう言う
「四人でちょうどいいわよね。それ以上増えたら、リビングを使わないとだわ。それが悪いってわけではないけれど、明日はお父さんも仕事が休みでいるし、十代女子の赤裸々トークは聞かせられないでしょ」
「勉強するんだよね?」
「当たり前でしょう。莉海ったら、私が勉強そっちのけで期間限定配信中のドラマや映画観たり、スナック菓子をぱくついていたり、枝毛の処理していたりするって考えているの?」
「しないでね」
「善処するわ」
私は純玲の内巻きの髪をじっと見た。ちゃんと手入れされていて綺麗だけれどな。
「なに?」
「ううん、なんでもない。……ちなみに芹香さんは? 参加するの」
「え? さぁ、今回はしないんじゃない。もし『お姉様、ぜひとも
「そっか」
「山吹色のお菓子があればなお良しね。まぁ、あの子って人数多いの嫌いだから、私と莉海との三人でなければ参加してこないと思う。下手に私たちが部屋で騒ぐものなら、隣から怒鳴り散らしにくるかもね。あるいは黙って外に出ていく」
「へぇ」
そこで純玲が私をじっと見つめた。髪の毛、ではないよね。
たぶん純玲はこう訊きたくなったのだ。「芹香がどうかしたの?」と。
私の様子がおかしくなったタイミングが芹香さんとの面識があった日以降なのだから、既にその線は検討しているであろう純玲だ。けれど、その芹香さん曰く、二人はもう私の件を話してもいるから、今きっとこうも思っている。「いいえ、芹香は何の関係もないんだったわね」と。そうだろう、まさか芹香さんが「自分のせいかもしれないわね」なんて言うわけない。
「それじゃあ、また明日。午後一時ぐらいでいい?」
私は努めて明るく笑ってみせて、話を戻した。
そして帰る準備を済ませて立ち上がる。
「ええ。待っているわ。さ、いっしょに帰りましょうか」
「……図書室でちょっと勉強していこうかな。いいよ、先に帰っていて」
私は返事を待たずに一歩踏み出す。二歩目で「ねぇ、莉海」と純玲が引きとめてくる。怖くて振り返れないけれど「なに?」とは訊く。大丈夫、まだ他の皆がいる教室だ。仮に純玲が私の悩みについて知りたくてもここでは踏み込んではこない。彼女は優しいのだから。
「もしかして今回のテストはいい点数をとらないと、何かまずい状況に陥るの?」
「へっ?」
予想外の質問に私は振り返ってしまい、彼女を見やった。真顔だ、純玲。
「たとえば好きでもない許婚がのこのこ現れて婚約を迫られているだとか。それでそれを回避するための方法が、いいところの大学に進学しないといけない、みたいな。ああ、これ冗談じゃなくて。何かそういう込み入った事情があるのかなって。違ったらごめんね」
やや早口で、そして周囲に響かないよう気を遣って。
想像力豊かな演劇部員の少女は冗談を意識して言う時以外も、冗談めいた想像を真剣にするものらしい。それこそドラマや映画、少女漫画の中の話ではないか。
許婚? そんなのいない。いたら困る。それともいてくれたほうが、諦められた?
「な、ないよ。そっちこそ数学、ⅠとAどっちとも赤点ならないようにしないと」
「うっ。それじゃあ、私も図書室いこうかな」
「静かにできるの?」
「莉海、私をおしゃべり好きな小さい子供か何かだと思っていない?」
日に日に、大人びていくそのかんばせ、全身のプロポーション。振り返ってみれば、それを本人に伝え憚ってしまうのは私だけで、他の友達は平然と純玲の顔や体つきを褒め、羨む。
「思っていないよ」
「まぁ、いいわ。ほら、いきましょう。やる気が起きなかったら、隣で本読んでいるから」
そうして私たちは教室を出て図書室へと向かう。
テスト直前の図書室は自習目的の利用者でほとんど席が埋まっており、「うち、そんな進学校だったかしら」と暢気に呟く純玲と並んで座れる席はなかなか見つからない。数年前に改築され、自習スペースが大幅に拡張された図書室だ。どういう経緯があったかは知らないが、広いに越したことはない。高校選びで自習室の充実を基準にする生徒がどれだけいるかは知らない。蔵書数も県内の高校ではかなりあるほうらしく「図書委員が真面目に図書委員をやらされる」という噂だ。
ぐるりぐるりと室内を見て回ったが、空いている席はなかった。
担任教師の無駄話のせいで帰りのHRが長引いたのが悪い。あんなのだから独身なんだ。そう悪態ついたところでしかたあるまい。それにそもそも私が図書室に居残って勉強しようとしたのは、純玲といっしょに帰らない体のいい言い訳、姑息な手だったんだ。それなのに利用できないと知るや否や、不服を感じて人を悪く思っている。私、こんな嫌な子だっけ。うんざりする。
「教室でしよっか」
純玲が囁く。
しかもすぐ耳元。その不意打ちに声をあげそうになって、なんとか堪えた。
結局、その日はお開きとなった。
教室に帰ったら、ちょうど共通の友達二人が帰るところで合流したのだった。夕暮れを四人で駅まで歩いた。私は三人が会話しているところに、適度に相槌を打っていればそれでよかった。気が楽だった。純玲の顔を盗み見ていたって、誰も何も言わない。ふと、一度だけ後ろを振り向いてみた。そこに芹香さんの姿はない。ほっと胸を撫で下ろす。
勉強会を経て、月曜から水曜日に三日間に分けて実施された二学期末考査。
テストが終わったからと言って羽目を外さないようになと先生のお小言を貰いつつも、純玲たちと週末に買い物に出かける約束をした。純玲曰く、その前哨戦としてテスト最終日の放課後にカラオケに六人で出向いた。全員が純玲と仲がいいと言えるが、私とはあまり話したことがない子が三人、つまり半数いて落ち着かなかった。けれども、代わる代わる歌っているのを聞くうちに、そして自分も歌い、騒ぐうちに緊張はほぐれた。
どこから聞きつけたのか、純玲に対して「演劇部の先輩とはどうなの?」と聞く子がいて「え、どうもない」とまっすぐに返す純玲が愛しかった。その流れで話題が恋愛になると、彼氏持ちの子が愚痴をこぼしつつ、のろける。バイト先の他校の生徒とひと夏のアバンチュールがあったと前に聞いた子だ。その人と今の彼氏とが違うのはその日初めて知ったけれど。
その翌日、また芹香さんに呼び出された。放課後に落ち合う約束。一方的な。
前と違ってメッセージ上で用件が明らかにされている。「バイトについて話す。筆記用具持参」とあって、場所はやっぱりあのカフェであるようだ。
これまた前と異なり、私がカフェのある駅で降りると芹香さんの後ろ姿を見つけた。別の車両に乗り合わせていたみたいだ。ひょっとすると前も今回も、乗車前に彼女が私に気づいて車両を別にしたのかな。
距離を保ったまま尾行していくのも、後で「仕返し?」とでも言われそうなので、小走りで近づき「芹香さん」と声をかけた。
「寒いわね」
無難な話の振り方。芹香さんは隣までやってきた私にまずそう言った。たしかに寒さが増しているのは違いない。私は同意を示しつつ、今週は雨が降らないようだから、まだいいとも付け加える。
「そのとおりね」
今日は肩の前気味に垂らしたサイドテールを、そっと撫でたかと思えば、そう呟き返しただけだった。会話を楽しむ、という気はないらしい。私だってそうだ。
三度目もキャラメルラテだった。そんな芹香さんに対して、私は抹茶ラテを注文した。そして席に着く。いつもと同じくBGMがかき消される程度に賑わっている。もとより静かに流れているものからなおさらだ。そして芹香さんは明澄な調子で話す。話すべきことが、段取りが定まっている雰囲気だ。
「はい、これ。履歴書。私が前に買ったやつ枚数がまだ残っていたからあげる。写真はちょうど駅前に写真機があるわ。そっちの費用は自己負担ね」
「ここで書けってこと?」
「そう。あれこれ調べる手間を省いてあげる。一部を除いて私とあまり変わらないだろうから。そうね、アピールポイントや趣味について詳しく書きたかったら別だけれど。たとえばどんな本が好きでよく読むかは情報として不要よ。面接のときに軽く話せればいい。さっさと書き上げてさっさと出ましょう」
きびきびと話を進めていく。バイト中の彼女はまさにこういった感じなのかな。私としても、怒られたり憐れまれたり、蔑まれたりするよりはずっと、こういう芹香さんを相手にするのが精神的な負担が少ない。
説明されるままに、ボールペンで必要項目を埋めていく。
「綺麗ね」
「えっ?」
半分まで書き進んだところで、芹香さんがインクを一滴垂らすみたいに呟いたものだから聞き返した。そして「字」とたった一文字をよこす。
「お世辞じゃない。ただの感想。気にしないで」
私が何か言う前に、芹香さんが唇を尖らせる。そしてずずずとラテを啜っていた。
「あの、スマホいじっていてもいいよ? 残りはさっきの説明でなんとなくわかったから。そんな見つめられると緊張する」
それに不用意に褒められると、とは言わなかった。
「あのさ」
私の提案をまるで聞こえなかったふうに、彼女は姿勢を正すと、ついで眼鏡の位置も調整して言う。そんなにずれていることはないだろうから、ポーズというか癖なんだろうな。
「なに?」
「あれから、どうなの」
年に二、三回しか会わない親戚並のざっくりとしていて曖昧な話の振りだった。
「芹香さん、言葉足らずってよく言われない?」
「言われない」
即座に否定してきた彼女は、拗ねた面持ちをとる。でも、すぐにきりっとしたものに戻す。
「わかるでしょ。砂埜さんと私とを結びつけているのが何か、いいえ、誰かは」
「純玲とは何もない。あったら、純玲はあなたに言うでしょ。これを私に言わせたかったの?」
「ちがう。卑屈にならないでよ」
「……なっていない」
「残り、埋めてしまいなさい」
「芹香さんが邪魔してきたんでしょ」
反論はなかった。
無視されて、そのまま私も履歴書を書く作業に戻った。
やがて履歴書が仕上がる。芹香さんがしげしげと眺めてくるから、誤字脱字のチェックを頼んでみると「まぁ、いいわよ」とテーブル上の履歴書を摘まみ取り、そして両手で持って読み始めた。その丁寧な仕草と目の動きに私は、バイト先ではシフトがいっしょになっても嫌がらせを受けることはなさそうだと安堵した。
「悪かったわね」
履歴書のチェックが済み、互いにドリンクを飲み干して店を出てすぐ、芹香さんがそう言った。
「それはまったく見当がつかない。何の話?」
「あの勉強会の夜。気持ち悪いなんて言って」
思い出す。赤面した私に向けられた誹謗。
狐につままれた心境だった。彼女は謝らないと、同情しないと表明していたのに。いや、それよりもどうして今になってそのことを謝罪するんだ。
「あの……」
「勘違いしないで。応援も協力もあり得ない。でも、まるっきり否定するのはモラル、いいえ、私の信条に反する」
「そう、なんだ」
一度はそうしておいて、今更だ。
反省や自省という表現を今の彼女に当てはめるべきかわからなかった。
「それだけよ。あと、いちおうアルバイト仲間になるんだし」
「うん」
「明日、ちゃんと来るのよ」
「うん?」
「面接。……言っていなかったっけ」
どうやら明日の放課後に面接が設定されていて、そのまま何も問題がなければ、さっそく研修ということでバイトに入る予定を組んだそうだ。
「私に用事があったらどうするつもりだったの。それに口座振り込みだったら、そういう部分の準備もいるかもだし」
「悪かったわよ」
さっきとは全然違って、いいかげんな謝罪だった。それをして、先の謝罪が本気であったのも察した。彼女なりの。彼女の信条ってのを保つための。
結論として予定どおりに事を進める手筈となった。
履歴書に貼る証明写真を忘れずに撮っておくこと、それと学校のほうに提出する書類もあるらしく――――事前承認が原則の書類だが、おおよそすべてのアルバイト生徒が事後に提出しているらしい――――それも貰っておくようにと言われた。
反対方向の電車であったが、同じホームで私たちは待った。あと数分早く着いていれば私は別のホームに来た電車に乗れたのに。
無言で待っていると、先に彼女が乗る電車が到着する。彼女は「さよなら」と愛嬌なしに告げて乗車した。純玲だったら「またね」だ。他の友達も大体そう。
三嶋芹香の流儀、か。
わだかまりは残っていたが、しかしどこか彼女を憎めなくなってきている自分に帰宅してから気づいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます