第5話
いつからなのだろうと何度か考えを巡らしてみて、たとえばあの時と追憶する。
純玲に特別を感じはじめた日。恋に落ちたその時を正確に捉えはできなくても、彼女との日々を振り返ることはできた。
思い出の中の彼女と私。大抵の場合、そこには共通の友達がいて二人きりでの密やかな会話なんてのはあまりなくて。でも、いつも必ずそうではない。
たとえば夏休み数日前の帰り道。七月下旬の真夏日。
私と純玲は二人で校門を出た。
他の子たちはそれぞれ用事があったかしたのだろう。
「一億五千万キロから光、届きすぎ」
シミ一つない白いスクールブラウス、その半袖からのぞかせた腕を片方、不意に高くあげて、純玲が太陽を手のひらで隠して仰ぎ見た。わざわざ足を止めて、背筋を張って、にこりとしていた。映画やCMの一カットみたいだ。当人もそういうのを意識している様子だった。演劇部では文化祭での公演に向けての稽古が既に始まっていた頃だったはず。
私も彼女につられて立ち止まったが、すぐに彼女が歩きはじめてそれに倣う。
ただ歩くだけで汗を掻く炎天下。
「太陽から地球まで、光でも片道八分余りかかるそうよ。私だったら一時間はかかっちゃうわね」
「音速の百倍そこらでも無理だと思う」
「細かい計算は任せるわ。それより、莉海は夏休みってどこか旅行に行く予定はある? 地球上に限定してだけれど」
言われずとも最初から地球外の選択肢はない。あったら、どうかな。一度ぐらい出てみる気になるのかもしれない。
「旅行かぁ。お盆にお墓参りに出かけるのは確定かな」
「まず出てくるのがそれって、花の女子高生らしからぬ。けしからぬことはないけれど、よからぬ」
「暑いのが苦手だから冷房をガンガン利かせた部屋にいたいよ」
「まぁね」
クラスの女の子のうちでは冷房対策用のブランケットを膝に掛けて授業に臨んでいる子もいた。席によってはそんなに冷気があたるか知らないが、私はその手の対策をしたことがない。ちなみに設定温度を上げると、往々にして男子の一部から不満が出る。それから先生が、昔は教室に冷房がなかった云々と言いだすこともある。今現在だって導入されていない地域もあるんだぞと言いだす先生もいて、ありがたがるのを強要される。多かれ少なかれ差異はあれども、きっと全国どこでもよくある風景。
「でも、部屋の中だけ過ごすのはつまらないでしょ?」
「つまらぬ、じゃなくて?」
「あら、拾ってくれるのね。滑ったかと思ったわ」
「べつに面白くはなかったかな」
「莉海のそういう素直なところ、美点ね。いつまでも忘れないでほしいわ」
「皮肉?」
「まさか。私も素直に褒めただけ。話を戻すと、夏休みは皆でどこか行きたいわね」
「海か山が定番だよね。私、どっちも気が進まないなぁ」
「強固なインドア精神の持ち主なのね。園芸部員なのに」
「それはそれ。夏休みってどこも込むでしょ?」
「こういう時、お金持ちの知り合いがいたら人里離れた避暑地に招待してくれるのかしらね。いっそ南半球に行っちゃうのがいいのかも」
「この夏からそんなふうに距離をとるのは風情がないかなぁ」
「エアコンガンガンはいいわけ?」
「……風鈴を吊るしておくから、それで手打ちということで」
「手打ちって言われると、そばやうどんがすぐに頭に浮かぶわね。ああ、でも手延べ素麺ってのもあるわね。個性を断つのではなく伸ばす。教育もそうあるべきだわ」
「急展開だなぁ」
「また話が逸れてしまったわ。ねぇ、本当に夏休みはどこかに行きましょうね。高一の夏は一回きりなのよ。太陽に負けじと輝かないと!」
ひらり、と純玲がその場で舞う。人気がない道なのをいいことに、それともたとえ人の目があってもしたのかな。とにかくその夏服仕様の薄手のスカートがなびく軽やかな様に見蕩れた。その日の純玲はやけにテンションが高かった。気温につられていたのかな。
「えっと、カラオケ……はいつでもいけるとして、室内プールや水族館にも行ってみたいかなぁ。あと美味しいもの食べたい」
「いいわね! それならプールに鮮魚を放流してライブをすれば全部いっぺんにできるわ。莉海は作詞作曲、ギターボーカル、ベースにドラム、合いの手をお願い。あと魚を捌くのも!」
にっこりと。純玲が今度は太陽ではなくて私にその笑顔を向ける。十二分に輝いている笑顔。それは記憶の中で煌めきを増している。
「全部私ひとりでやらないとなんだ」
私が笑い返すと、純玲の笑顔がさらにはじけた。
「そういう時もあるわよね。でも、魚を食べる係は引き受けるわよ」
「なんでやねん」
「そこはもっと感情を込めて言わないと」
「滑らないボケをお願いします」
「ええ? 今のもダメだったかしら? そういえば通年で利用できるスケートリンクってのもあるのよ」
「夏場にアイススケート?」
「そう。風情を重んじる莉海にしてみれば邪道かしら」
「……プールでライブした後、水を凍らせてしまえばスケートも楽しめるね」
「待って。凍らせるのは大変。シロクマやペンギンがどれだけ必要になるのよ」
真顔でボケた純玲に、私はつい可笑しくって噴飯してしまった。ウケたことで純玲は上機嫌になった。くるりとその場でターン。やや短くしているスカートがさっきとは違うふうに、ふわりとめくれて、なんだかハラハラした。
「そうだ、動物園もありだわ。週に一度は御免だけれど年に一度は訪れたい場所よ、動物園。ずー。リピートアフターミー。ズー」
「ずー」
「ふふ、よくできました。まだ夏休みまで少しあるから、皆で計画立てましょう」
鼻歌まで歌い出しそうな調子で隣を歩く純玲を眺めていた私。
それで結局、夏休みはカラオケには数度行って、県外の大きなプール施設に数人で出かけて、そうする前には皆で水着を買いもしたし、それから動物園は行かなかったけれど近場の水族館には訪れてみて……。楽しく過ごした。そこには芹香さんの姿はなかった。純玲は彼女を誘いはしなかった。誘っていたのを芹香さんが断っていた可能性もある。
とにもかくにも、過ぎ去った日々のうちで純玲の傍にいる私を見出すとき、それを恋する少女として認識を改めるのは簡単ではなかった。そのうえで言えるのは、彼女の隣にいて何度もドキドキさせられていたということ。その高揚感と幸福感は友情の域に収まっていた。その時期が絶対にあった。ひょっとしたらつい最近まで。
あの子の顔が勝手に思い浮かぶ。
彼女が柵を取り払った。羊飼いは狼の心配をしなくてはならなくなった。サファリパークみたいに安全な場所から見物するわけにはいくまい。
芹香さんから呼び出しをくらったのは、テスト四日前の木曜日の放課後だった。
彼女は朝一番で私にメッセージをよこした。放課後、あのカフェで待っていると。断る選択肢はない。直接会って話すのは、文面や音声として残しておくとまずいやりとりだから? そんなふうにも推測できる。私の大切な友達の、いけ好かない双子の妹。近い将来のバイト仲間。隣のクラスの大人しくて可愛い女の子。なんでもいいけれど、会いたいとは思えなかった。
重い足取りでカフェの店先まで到着すると、背後から芹香さんに声をかけられた。話を聞くに、同じ電車の別の車両に乗っていたのだという。
「駅から出て、あなたの後ろを歩いていたのよ。案外、気づかないものね」
「私が後ろ向きな人間だと思っていたの?」
「やめてよ、そんな言い方。純玲はそんな子だって話していなかったわよ」
いけない、そうわかっていても純玲の名前と内容に心が揺らぐ。表情にだってそれが出てしまう。芹香さんが意地悪そうな顔になる。
「あなたのこと、どんなふうに話していたか聞きたい?」
「いい。さっさと入って、用件を聞かせて」
「そうよね。純玲が、あなたが期待するような評価を下していると勘違いしていないわよね、さすがに」
「期待? 評価? もっとわかりやすく言えないの」
余裕のあった面持ちが、不愉快の様相へと変わった。つり上がった眉。
彼女は「はぁ」と溜息を吐き、眼鏡の鼻あてに指先を添えて位置を正す。
「純玲は砂埜さんをただの友達としか思っていない。察しなさいよ」
「……知っている」
また嫌味の一つでも言われるかと身構えたが、彼女は黙った。そして私の横を抜けて、店内に入る。入り際に睨んできて、ついてくるよう促す。
芹香さんはまたキャラメルラテだった。私は最も安い、小さいサイズのドリップコーヒー。ブラック。飲んだことはこれまでない。
「もっとうまくやりなさいよ」
席に着いての開口一番、芹香さんは私をなじった。
「何の話?」
「心当たりがないとは言わせないわ。いい? 純玲が心ぱ……不審がっている」
心配と彼女は言いかけた。それで私は思い至った。
「私の様子がおかしいから?」
あの日以来、純玲とのやりとりはぎくしゃくしっぱなしで、なるべく会話を長く続けずにどこかに去ってしまうようにしている。まだ彼女が強気に出て、私をその場に留める状況はない。でもそれは時間の問題だ。彼女の優しさは知っている。友達が悩んでいたら、いきなり避けはじめたら、その原因を究明する。今はまだ「待ち」の姿勢というだけ。理想的には、私からの相談を待っている。
「そうよ。妙な避け方しているんじゃないわよ」
「じゃあ、教えて。上手な人の避け方。大事な友達を相手に、本当はしたくない、避け方。それからついでに、あなたみたいな人の避け方も」
顔が熱くなるのがわかったが、それは純玲といるときの火照りとはまるで違う。
怒りだ。厳密には誰かを非難すること、敵意をむき出しにすることそれ自体に熱くなっている。そうした行為に不慣れな私は、純玲に外面だけ似ている少女を精一杯睨みつける。声は荒げない、あくまで対等に利口に彼女と対峙するつもりだった。
「実際、どうなのよ」
ぼそっと。
そう口にした芹香さんの表情は読みにくかった。それは勉強会のとき、つまりはほぼ初対面のときを思わせた。彼女はそのまま続ける。
「砂埜さんは、純玲から遠ざかろうとしているの? 私に言われて。指示通りに。もしくは……そうではなくて、あなた自身がそうせざるを得なくなっている? 純玲を意識しちゃってさ」
挑発ではなかった。芹香さんの瞳に浮かんだのは憐憫めいた色だった。それが私の言葉を詰まらせる。けれど、彼女は続けなかった。前と同じく、私の答えを待った。
「……意識、している。それは間違いないよ。あなたのせいで私は純玲への想いに気づいちゃって、それで何て言えばいいかな、持て余している。これをこのまま、うん、ありのままぶつければ純玲は困るってわかる。優しいから直接言わないかもしれないけれど、気持ち悪く思うんだろうね。それで……私は友達ですらいられなくなる。それが、怖い。――――これで満足?」
吐露してしまった。覚束なくも、たしかに紡がれていく言葉に、私は縋った。
睨み続けたかったのに、できなかった。視界が滲んで慌てて手で擦った。
大丈夫、それは流れはしない。させてたまるか。泣いてどうにかなるなら、とっくの昔に私の涙は枯れている。
芹香さんは飲み物を啜る。一度離して、また啜る。私になんと返したらいいか迷っている。戸惑いがやっと表に出ていた。一方、私はまだ手元にある苦くて黒い、熱いものを喉に流し込む気になれずにいる。
「私は謝らない、あなたに同情しない。でも、あなたを追いつめたいわけではない」
純玲と比べてひどく口下手なその妹は、先ほどからしきりに捉えどころのない言い方をする。それを好んでいるのではなく、ただ口下手なのだと私は信じた。
「ただ双子の姉が傷つくのを見たくないだけ、そう解釈していい?」
私はあたかも彼女に助け舟を出していた。彼女の主張、彼女がこの件において何を譲らない条件としているかということ。純玲のストーカー被害と、芹香さんが今日、私を呼び出した理由。総合的に考えて、彼女は姉を護りたがっている。それがすべてなのだろう。
「そうよ。だから、つまり……。砂埜さんが害のない友達でいる分には別にかまわない。でも、たとえばあのときの顔、純玲といるときのあなたを見ていたら、察しがついちゃったのよ。ああ、この人はいずれ友達という立場で我慢できなくなるって」
あのストーカーの女の子と同様に。芹香さんがそれを言外に示唆していた。
あの日の三人での勉強会。私を観察していた芹香さん。帰り道での糾弾。
ふと、私は彼女の語ったことから予想を一つつけてみる。
「あの、もしかして例のストーカーって、芹香さんと親しかった人だったの?」
少なくともその顔色が確認できるような間柄。私にその女の子を重ねたと言うのなら、芹香さんと関わりのある人間であったはずだ。
果たして芹香さんは無言で肯いた。俯き、間があって顔を上げる。
「これ以上詳しくは話せない。私が勝手にしていいことではない。そうよね?」
そう言い足した彼女に今度は私が肯く。彼女はまた一口啜った。
そしてその声に今までにない色が帯びる。
「砂埜さん、お願いだから普通にして。それを純玲も望んでいる」
内容だけなら、やはり憤ってしまう台詞だ。私の心中を顧みていない。
それなのに私は憤れなかった。
悲痛。芹香さんの声色にそれが込められていた。口下手な彼女がまさか、純玲以上に演技ができるとは思えない。私の同情を誘うための台詞ではなく、飾らぬ本心。
だから、つい私の怒りは鎮まった。だが、それは快い感覚では決してない。私は飲み物に怖々と口をつけてみる。苦い。わかっていても、それは苦かった。
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