第4話
柿をメインに使ってスイーツを作るのは初めてだった。
昼下がりのキッチンは物静かで、試しにスリッパを履いた足を踏み鳴らしてみたら虚しくなった。天気は雨。いやにしとしと降っている。
書店にて芹香さんに出遭った翌日の日曜日。毎週恒例となっている、ひとりきりでのお菓子作りだ。いただきものの柿を好きにしていいと言われたので、甘んじてそうさせてもらう。よく熟れている。卵や牛乳以外にも必要な材料はほとんど常にあった。親が気を利かせて定期的に買い足してくれている。二人とも日曜日なのに仕事なのも普段通りだ。もともと、ひとりでの時間を埋めるために始めた趣味な気もする。
匂いに誘われて姉がふらりを姿を現した。柿と姉。似ている。
「今日は何を作るの?」
「プリン」
まず柿を半分に切り、皮を剥いていく。それから種をとって、今度は一口サイズにしていく。他の果物の皮よろしく、柿の皮にもケーキやクッキーの生地に加えるなどの用途があるが今回は捨てる。
「柿でプリンねぇ。もっと別の果物のほうが好きだな」
「私一人で食べるよ」
「もう四つも皮剥いちゃっているのに?」
親の分込みだ。作り置きして、帰ってきた時に食べてもらおう。
私はミキサーを用意する。トライタン製で容量は六百ミリリットル。作動音がもう少し小さかったらいいのにと思いつつも、静かすぎるキッチンにはあるべき音かもしれない。
「莉海だって柿よりオレンジや林檎のほうが好きだよね」
「今日はせっかく柿があるんだから、これでいいの」
ミキサーに切った柿を投入してピューレ状にする。ネットで調べたかぎり、柿のペクチンと牛乳のカルシウムさえあればそれで固まるそうだが、二つを混ぜ合わせるだけだとお手軽過ぎるので別のレシピを参照した。卵黄と牛乳、砂糖はミキサーではなくボウルに入れる。泡だて器で混ぜ合わせ、こしていく。
「そのまま食べたら? あ、それが嫌だからプリンにするのか」
「嫌ってほどじゃないよ。昔食べた柿があんまり美味しくなかったから、その印象が強くて。プリンにしたら変わると思う」
「トマトみたいね」
「トマト?」
「そう。クラスに一人はいるものでしょ、トマトが苦手な子。でもトマトケチャップにしたら平気。むしろ、フライドポテトやピザにはないと困るなー、って感じの子」
「いたかも」
「それにプチトマトは無理って子」
「いたはず」
こして白くなったボウルの中身を耐熱容器に移し替えて、電子レンジで過熱する。鍋まで使うのは面倒だと感じた。その間に、粉ゼラチンをふやかしておく。
過熱を終えたものに粉ゼラチンを加えて混ぜ、濡れ布巾の上に乗せて粗熱を取る。
「ナポリタンはさぁ、安いケチャップソースだと味がしつこくて後に引いて、口の中どころか胃まで気分悪くなっちゃうよね」
「たしかに」
「あとは柿とそれを混ぜて、冷蔵庫で冷まして終わり?」
「うん。今日は凝ったものを作る気分になれなかったの」
「というと?」
私はプリンカップを準備していなかったのを今になって気づく。安価で使い捨てのやつがまだたくさん残っていたはずだ。戸棚を探すことにする。
「あのね、お姉ちゃん。……私、アルバイトを始めることになりそう」
「へぇ、ケーキ屋さん?」
「ううん、本屋」
「どうしてまた。前に調べた時は意外と肉体労働で、接客もあるにはあるし、やめておいたんじゃなかった?」
「友達が誘ってくれたから」
「本好きのよしみってやつ?」
「……そんな感じ」
戸棚の奥、プリンカップが見つかった。混ぜ合わせた液体を流し込んでいく。
昨日、カフェで芹香さんにされた提案、それは半ば脅迫だった。
彼女と同じ書店でバイトすること。金銭を求められたり、その他の邪な行為を強いられるよりは断然ましではあった。言っていなかったけれど、バイト代は私が使っていいんだよね? 取り上げられたら嫌だな。タダ働きは真っ平御免だ。
彼女が話したことには、つい最近に大学生のバイトが二人まとめてやめてから人手が足りていないらしかった。そして、おそらく彼女からしたらこっちが肝心なのだろうが、私と純玲がいっしょにいられる時間を減らす目的がある。
「あっ」
「あーあ、こぼれちゃった」
カップから零れたプリンもどき。捨てた。躊躇いなく。容器いっぱいまで入れるのがまず間違っているのでは。そうだというのに、気がつけば入れていた。
芹香さんの顔を思い浮かべたせいだ。
それまでとは打って変わって、バイトの話をしたときは善良で良識のある人間が真っ当にお願いする雰囲気で私に頼んできたのだ。
馬鹿にしている。断ったら、純玲に何を言われるか、どんなふうに私の想いを純玲に伝えられるのかわかったものではない。
純玲にとって私はただの友達で、芹香さんは実の妹。どちらの言葉を信用するか考えてみて、純玲が人に流されない芯のある人間であるのを理解していてなお、私の申し開きは効果がないように思えた。
勉強会の夜から二日経って、彼女への特別な想いは偽れない感触になりつつある。プリンが固まるように。でも、ふわふわなんかじゃない。とろけはしない。カチカチとなって身動きできない、息苦しい、そして熱い。そんな想い。
「バイト、いつから?」
「期末考査が終わってから、って」
「面接はないの」
「どうだろう。もしもあったら、採用されないかも」
「変に根掘り葉掘り訊かれないって。友達の紹介だし。莉海、まともだもの」
「そうかな」
「ちがう?」
どうだろう。客観視を試みる。たとえば私が純玲に恋していること。異常ではない。性的マイノリティーというだけだ。理屈はそうだ。芹香さんに指摘されるまで気づかなかった事実はまともだろうか。
少女漫画を思い出す。恋心に無自覚なキャラクターだっている。現実にいたっておかしくない。あの最終巻、やっぱり意外性のない終わり方だったな。
冷蔵庫にカップを入れた。二時間も冷やせば充分だろう。午後三時のおやつにしてもいい。大した工程がなかったにもかかわらず、どっと疲れた。
でも片付けが残っている。
「莉海、顔色がよくないわよ」
「そうなのかな、鏡がないからわからない」
「無理しないでね」
ふらりと現れた姉はふわりといなくなった。
私は片付けを終えると部屋に戻ることにした。とくに誰からも連絡はない。教えてと言われて芹香さんに連絡先を教えてしまっている。どちらからもまだメッセージひとつ交わしていないけれど。
あくる月曜日も雨が降り続いていた。
朝の教室で純玲と顔を合わせると、心臓が跳ねた。覚悟していたのが、無駄だと思い知った。からかわれる度に顔を少々赤らめているから、今になってたとえ顔が紅潮していたって妙に思われないはずだ。そのはず。だから堂々と、いつもどおりにしていればいい。
純玲はいつもどおり綺麗だった。陰鬱な秋雨であろうと彼女が纏うどことなく神秘的な気配を高める演出装置になっているふうだ。退屈そうに窓の外を眺める横顔にしばし見蕩れて、そんな私に気づくと彼女は席を立ちあがり、近寄って声をかけてきた。
「聞いたわよ。アルバイト始めるんだってね」
「誰からそれを?」
「なぁに、とぼけちゃって。芹香以外いないでしょ。土曜日に偶然会って、意気投合して我が愚妹の頼みに応えてくれた……え、違うの?」
私の表情に翳りでもあったのか、純玲は訝しんだ。
「えっと、勢いに圧されたの、うん」
せめてもの抵抗だった。
でも真顔で言うのは気が引けて、冗談めかして口にした。すると純玲は「さもありなん」と笑った。
「まぁ、いくら莉海がお人好しでも、けっこう無愛想なあの子から急に頼まれて二つ返事ってことはないわよね。ねぇ、もしも嫌だったら私から断っておくわよ?」
「いい。芹香さんが困るから」
私がしたいんじゃない。私が困るとは言えない。私は関係ないって叫びたかった。
でも嘘だ。嘘なんだ。この気持ちも嘘みたいに溶けてなくなってしまえばいいのに。そうしたら芹香さんともひょっとしたら友達になれるのかも。なりたいかは別。
「そっか。それじゃ、よろしくね。って私が言うのも変かしら。それはそうと莉海」
突然、純玲が私の髪に触れる。
反射的にその手を、愛しい指先を自分の醜い手で振り払っていた。
軽く、だ。幸いにも。
だから、なんとか言い訳できた。
「な、なに。いきなり触ってくるなんて、へ、変態」
「は? 寝癖つけてくる莉海が悪いんでしょ。変態呼ばわりは失礼よ。それじゃ寝癖じゃなくて難癖よ」
顔が熱くなるのがわかった。なんでだ、勘弁してほしい。
「トイレに行って、直してくる」
「そんな爆発しているほどじゃないから、ここで私がやってあげるわよ」
「なんで」
「えっ。どうしたのよ、莉海。今日なんだか変よ。あ、シャンプー変えた?」
冗談だ。いつもの。けれど今は作り笑いも返せそうにない。
変えていないっ。そう叫ぶ寸前で堪えた私は「行ってくる」と急ぎ足でその場を離れた。純玲はついてこない。そこまで世話焼きではないし、私が一番の友達っていうわけでもない。学年男女問わず演劇部の人たちと仲がいいのは知っているし、他にも……ダメだ、考えてどうする。
廊下に出る。朝のHRまで残りわずか。女子トイレから出てくる生徒に見覚えがある。今、一番会いたくない子。こんな偶然いらない。運命だとしたら呪われている。
「挨拶もなし?」
伏し目がちにそのまま脇を抜けようとしたら、芹香さんがそう言った。
「――――あなたのせいだから」
口から衝いて出た言葉に自分で動揺する。芹香さんは顔をしかめた。
「なによそれ」
「うるさい」
「はぁ?」
これ以上はまた何か言ってしまいそうになると思って、私はトイレに逃げ込んだ。もしも芹香さんが追いかけて来たら逃げ場はないが、でもそうはならなかった。
鏡。私はそれを目にするのが怖くなった。寝癖なんてどうでもいい。私の顔、そこにたとえば純玲への熱情だったり、あるいは芹香さんへの拒絶だったりが浮かんでいたのなら、それが混ざり合ってぐちゃぐちゃになっていたら……怖い。
純玲を避けて過ごしたのはその日が初めてだった。
お昼休み、教室にやってきた演劇部の先輩に誘われて純玲は彼らとお昼を共にするべく教室から出た。二学期になってからよくある光景。文化祭が終わっても続いている。誘いに来るのは女の先輩だけれど、男女数人で集まっているそうだ。そんなこと、金曜日まではさほど心に留めていなかった。寂しさはあったかな、そこに嫉妬はあったかな。先週までの私には戻れないというのはわかる。
放課後になると、私は黙って独りで教室を出た。月曜は園芸部の唯一の活動日だ。
私を含めて四人いる部員のうちで親交があるのは私と二年の
藤堂先輩は端的に表すなら花の妖精。小柄で、明るめの髪色は地毛だそうで、笑うとへこむえくぼがチャームポイント。おっとりしていた雰囲気で可憐な人だ。彼女と懇意になりたがって、男子の一人か二人が園芸部に入らないのが不思議なぐらい。遠回しに訊いたら、一年のときはいたらしい。
「莉海ちゃん、おひさ~」
外での活動になるため、昇降口に傘を取りに行く。その道中で、藤堂先輩に会った。週に一度しか会って話さない、タイミングが合わないともっと間隔が空くので、決まって彼女の挨拶はこうなる。あれ? 彼女は帰る準備を済ませて荷物を全部持っている。園芸部に倉庫はあっても部室はないから、貴重品は携帯してバッグ等は教室に置きっぱなしなのに。
「お久しぶりです」
「元気していた?」
「ぼちぼちです」
「なんか曇っているね」
「いや、雨降っていますよ」
私は廊下の窓から外を見やる。雨脚、朝よりは弱まったかな。
「ちがうちがう、莉海ちゃんがってこと」
「……そんなひどい顔していますか」
「ええっ? 今日も可愛いよー」
「あ、ありがとうございます」
「こんなところで会ったのも何かの縁。先輩に話してみる?」
「でも部活……」
「うん? 今日からもうテスト前の部活動休止期間でしょー」
私は愕然として、そのまま数秒、藤堂先輩を見つめた。
そうだ、テスト一週間前だから。休みなんだ。演劇部や弓道部も。
「だいぶまいっちゃっている感じなのかな」
心配そうに見つめ返してくる先輩に、私は首を横に振った。
「大丈夫です」
「そう? あたしでよければ相談乗るからねー」
にっと笑ってえくぼを見せる先輩に和んだ。いや、犬や猫の類といっしょにしているつもりはないけれど。そうして私は先輩を見送り、教室へと荷物をとりに戻った。
純玲、もう帰っているかな。
既に帰っていてほしいのか、まだ残っていてほしいのか、私は私がわからなくなっていた。
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