第3話
そんな表情、
そうしてから遅れて、私に向けられたその否定的な感情にどう応じればいいか悩んだ。しかしそれに時間をかけずに済む。済んでしまう。芹香さんはしかめ面のまま、私のすぐ脇を通り抜けたから。そしてその際に彼女は言う。
「あの子に近づかないで。いいわね」
意味を理解する。振り向く。既に彼女の背中は数歩先、いや、もっと先にある。路地の頼りない街灯が照らす範囲からやがて彼女の姿がなくなり、夕闇に霞む。待っての言葉は出なかった。
純玲のとはまるで違う囁き声、私を底冷えさせるそれが頭の中でこだましていた。
しばらく呆けてから、私はとぼとぼと駅へと独りで歩きはじめる。
そのときになって芹香さんが不快感を突きつける直前に言ったことを思い出す。彼女は「好きなんでしょ?」と口にした。もちろん、それは話の流れからして、私が純玲のことをという意味だ。わかっている。それぐらい。
ただ、その好きはどういう好きなんだ。
私の心を焦がすその「好き」は友情のそれではない。つまり恋愛対象としての好きなんだ。そう結論付けるのと、私が自室に入って、着替えないままベッドにうつ伏せになるのは同時だった。
「食欲、ないな」
頭ではそうだとみなしたくせして、ぐぅと鳴るお腹に私は泣けばいいのか笑えばいいのかわからずにいた。
翌日の土曜日。
テスト勉強に身が入らないまま、午後一時半を迎えた。もとより、学業に熱心なほうでもない。誰か都合がつく友達を誘って気分転換にでも、と窓の外を眺めればその曇天に臆する。誘うなら午前中に連絡しておけばよかったな。そもそも私から誰かを遊びにということは高校に入ってからは前例がない。私、いっしょにいて楽しい人間ではないよね……等々、気が滅入ってしかたない。それを振り切るために部屋の掃除をすることにした。
振り切りたいのは、そうだ、振り払ってしまいたいのはもう一つある。
私は純玲に恋している。
いつから? わからない。
一夜明けるとそれは芹香さんの珍妙な勘違いではなく、真、図星を指されたものであるよう感じられたのだった。そうあってはならない、と純玲に想いを寄せる自分を拒む自分もいる。なぜ? だって、到底叶わない恋ではないか。
私は首をぶんぶんと横に振る。考えれば考えるだけ泥沼にはまる。
存外、もう一夜明かせば、この気持ちは変わっているかもしれない。いずれにせよ、今日が土曜日で本当によかった。
部屋の掃除は十五分で中断となった。
純玲の部屋にある立派な書棚と比べると縦も横も半分程度の小さな本棚に手が伸びて、気がつけばそこにある少女漫画を読んでいた。誰だったか、それが純玲でないのは確かだが、人に薦められてそれならばと一巻を買ってみたものだ。その調子で六巻まで買ったのが今年の梅雨時ではなかったか。うん。だから私に薦めてくれたのは中学生の時の友達だろう。
一巻から読んでみて、あっという間に六巻まで読み終えた。
登場人物たちは皆、現代を舞台に青春を謳歌していた。その葛藤さえも眩しかった。主人公の女の子は恋に落ちていた。クラスで人気者の男の子に。こうあるべきなんだろうな。
「私の恋は間違っている」
口に出してみて、ちっとも気が晴れなかった。
どうせ言い聞かせてみるなら「間違っていない」とすればいいのに、それができない私だった。第三者であれば肯定してあげられる気がする。女同士であるのを理由に諦めるのは前時代的ですよ、なんて。
じゃあ、たとえば純玲は私をそういう意味で好きになってくれる?
――――なってくれない。直感がそう告げていた。無論、芹香さんの件もある。
「あっ。もう新刊出ているんだ」
スマホでネット検索してみると最終巻にあたる七巻が二週間前に発売されていた。そういえば、何かわけあって発売延期だかになっていた気がする。世の中には新刊が出版されるのに年単位がかかる漫画もざらにもあるらしいので、恵まれたほうなのだろう。
「買いに行こうかな」
再び窓の外を見やる。相変わらずの灰色の空。六巻まで紙で揃えたのだから、最終巻だけ電子書籍というのも味気ない。とはいえ、続きの展開が気になって悶々としているわけでもない。なんとなく結末が予想できている。まさかの急展開ってのはないと思う。星間戦争が始まってヒロインと想い人が離れ離れになるなんてのはまずない。いっそ、あってくれてもいいのにとやさぐれた気持ちがあるのは空模様とそれとそっくりの心境のせい。雨、降っていないよね?
自室にこのままいたら、純玲と芹香さん、つまりは三嶋姉妹のことばかり頭に浮かんでどうにかなってしまいそうなので身体を動かすと決めた。
家から徒歩十分にある寂れた小さな個人経営の書店ではなく、一駅向こうのチェーン展開している書店に行くことにした。そこでなら確実に手に入るだろう。三嶋家最寄りの駅と私の家の最寄り駅の間にある駅で降りた。
しばらく訪れない間に本の並びが大きく変わっていた。お目当ての漫画が収められている書架を見つけるのに時間がかかってしまう。結局、その場でスマホを使って出版社名を確認したのが決め手となった。我ながら鈍臭い。
最終巻は手前に平積みされて、ポップまでついていた。感動のフィナーレ。ハッピーエンド。手に取るのを躊躇してしまう。
読めば、彼らの物語はそこで終わる。めでたく。それが寂しい一方で、癪に障る自分がいた。どうかしている。買うために来たというのに。
きゅっと靴音がした。
他に誰の姿もなかった通路、私が今いるそこに人がやってきたのだとわかる。積まれた本から顔を上げて、横目で一瞥した。が、思わず二度見した。
「……芹香さん?」
そこに芹香さんがいた。惑いの根源。
見間違いようがない。昨日目にしたままのサイドテール。書店員であるのを示すエプロンを身につけている。紺色の生地、目立たないロゴに店名が並ぶ。ここでアルバイトしているんだ。
「なんであなたがここにいるの」
驚き半分、苛立ち半分。芹香さんの声は優しくなかった。
「純玲に聞いたの?」
そして彼女は唇を尖らせた。苛立ちが優勢になったのがわかる。
「ち、ちがいます。私はただ本を買いに来ただけ。偶然の出会いです」
「敬語はやめてって言ったよね。私が悪者みたいじゃん」
敬語かどうかで善悪はない。その主張を私は飲み込む。火に油を注ぐ事態になりかねない。とりあえず私は自分の発言が出まかせでないのを証明する手段として、サッと漫画を手に取った。そして芹香さんが来た方向とは逆からレジへと向かおうとする。彼女に背を向けた。
「待ちなさいよ」
怖々と振り返る。そこにあったのは困り顔。「えっ」と思わず声が出た。なんで芹香さん、そんな困った顔しているのか。怒られるよりはいいけれど、でもこれ以上、私の心を乱さないでほしい。
「私、三時であがりなの。……時間、あるよね?」
「どういう意味ですか」
「ちょっと付き合ってよ」
「芹香さんに」
「そう。純玲はいない」
またこの人と二人きりで次は何を言われるのだろうか。それでも本気で嫌な気がしないのは、彼女があの純玲の双子の妹だからなのだと思う。姉妹揃って不思議な魅力がある。時に人を寄せ付けず、時に人をみだりに惹きつける。カロリー高めのスイーツみたいな?
「わかりま……ううん、わかった。時間が来るまで、これ買って、ぶらついている」
「逃げないでよね」
私は肯くと、再び背を向けてレジへと足を進めようとした。すると芹香さんが「レジ、こっち」とぶっきらぼうに、でも小さな声で言ったので足取りをまた変える私だった。
午後三時過ぎのカフェ。
自分たちと同年代の子が何人かいる。知り合いではなかった。幸い、と前につけるべきだろうか。他の人に知られたくない事柄。芹香さんとの間で交わされる内容にそれが含まれるのは、もはや予感ではなく明白な予定であった。
「あの漫画、私も持っている」
注文した飲み物をそれぞれ受け取り、席に着くと芹香さんはそう切り出した。
ほうじ茶をベースに柚子風味を加えたものを頼んだ私に対して、彼女はキャラメルラテを頼んでいた。芹香さんが言いだした漫画の話は本題ではなく、どちらかといえばそう、どうでもいい話なのだった。
「芹香さん。いくら鈍い私でも、漫画の趣味が合ったから声をかけたのではないってのはわかるよ」
「だよね」
芹香さんはストローでキャラメルを混ぜずに、まずは一口啜った。それで気持ちを正したのが表情にも反映される。
「私が言葉足らずなせいで、
一語一語は理解できるのに、うまく繋がらない。
「つまり?」
「私が純玲からあなたを遠ざけたがる理由は、ちゃんとあるってことよ」
微かに声を潜めた芹香さんに、私はなんと返せばいいか迷った。
「……じゃあ、ちゃんと聞かせてくれる?」
私は彼女に倣い、飲み物を一口飲んでからそう言った。
「純玲から中学生のときの話ってどれだけ聞いている?」
「勢いで吹奏楽部に入ったはいいけれど何回もやめたくなった。フルートを綺麗に吹きこなす横笛少女になりたかったのに、トロンボーンなんていう、名前からしてとろそうで無骨な楽器を相棒にして三年間を闘い抜いたって」
「ずいぶんとトロンボーン奏者に失礼な物言いね」
「私もそう思う」
けれど、これを語ったときの純玲が何も本気で蔑視していたのではなく、期待外れの青春を大袈裟に言い表したに過ぎないのは私も芹香さんもわかっていた。
「べつにあの子の話しぶりを真似しなくていいわ。ねぇ、他には?」
「野球部、サッカー部、バスケ部、テニス部、剣道部の男子から告白された。誰とも付き合いはせずに、ちょっとだけ気になっていたのは新任の数学教師」
「他に」
「芹香さんが知らないようなことを私が知っているかな」
「知っているわけないでしょ」
すまし顔でさらりと言ってのける芹香さんだった。
じゃあどうして訊いたのだ。何を聞き出そうとしているのだ。
私は目で抗議する。言葉にするには勇気が足りない。芹香さんは小さく溜息をつくと「やっぱり、聞いていないわよね」と憂い顔をした。
「何を?」
私の真っ当な質問に、芹香さんは辺りをきょろきょろを見まわした。露骨に。そして軽く身を乗り出すと、さらに声を潜めた。そうなってくると自然に彼女の顔が近づいて、少しだけドキッとした。それは彼女が純玲の妹であるからで、私の性的志向が同性に向けられているのを裏付けるのではない、そう思いたい。
「純玲は中学生の時に、ストーカーにあったのよ。熱烈なやつ」
「っ! それって襲われたんですか」
声が上ずった私に芹香さんは「いいえ」と短く返す。
「そのストーカー、誰だったと思う?」
「え?」
「――――後輩の女の子だったの」
芹香さんは、私の瞳を深く覗き込んでそう告げた。私の心の動き、その一ミリさえも見過ごさないように。
「私はストーカーになりません」
私がすぐにそう言い返せたのかと問われればノーだ。
その前に重々しい沈黙があった。体の位置を戻した芹香さんは、私が反応するのを、すなわち純玲のストーカー被害の一件について感想を述べるのを辛抱強く待っていたのだ。それをして私が姉にとって有害か無害なのかを判別するかのように。
「そうね、そうだと助かる」
平然と彼女は。私から視線を外すと、ストローでキャラメルをゆっくりとかき混ぜ、優雅に啜った。
「でもね」
芹香さんの声が一段と低くなる。
私は気構えるが、そんなのは何の役にも立たない。
「異性同性問わず、恋愛感情って厄介よ。一歩、道を踏み外してしまえば、憎悪にだって変わる。そうよね? そうならないためにも砂埜さんは純玲から距離を置くべき。適切なやり方、そうよ、純玲が気を悪くしないかたちで。昨日、こうやって説明できればよかった。でも生憎、あの時のあなたの顔を見ていたくなかったから」
刺々しく芹香さんは私に言葉を放る。
納得できなかった。
昨日、他ならぬ芹香さんに指摘されて私は純玲への特別な想いを自分の内に発見したばかりだ。まだ整理をつけられていないし、はっきりと自分が彼女とどういった関係を築きたいかも描けてなどいない。そもそも描ける見込みがあるのか怪しいが、とにかく芹香さんに別離を強いられるのは違う、そう思う。
「なによ、その顔。……じゃあ、代わりに私から伝えておこうか?」
「へ?」
私の間の抜けた声に芹香さんは微笑んだ。純玲とは違う、けれど素敵な微笑み。それこそクラスの男子がくらっと恋に落ちでもしそうな。
「純玲に、さ。砂埜莉海はレズビアンで、下心をもって接している。襲われる前に縁を切ったほうがいいよって」
今度こそ私は言葉を失った。
憤ればいいのか、それとも泣きわめけばいいのか、この人はいったいどうしてこうも挑発的な態度をとるのか。
姉である純玲が過去に同性のストーカー被害に遭っていた。妹である芹香さんは直接相談を受けたのだろう。それで純玲が傷つく様を見ている。知っている。彼女を理解している。姉妹ゆえに、家族ゆえに。
ずるいな、と感じたそれを私は打ち消した。その妬みこそが私を誤った行為に向かわせる種となり得る。たとえば、今しがた購入した少女漫画の中でもそんな場面があったではないか。
「それは……やめて、ください」
絞り出した声が芹香さんに届いたのかどうか、確かめたかったのに俯いてしまっていた私には彼女の表情、あったかもしれない変化が見られなかった。
それでも、間を置いて彼女が「ええ」と曖昧な返事をよこしたので、呼吸が少しだけ楽になった。息を止めていたんだってそのとき気づいた。
「ねぇ、砂埜さん。……顔、上げてよ。ほら、早く」
私は深く、深く息を吸った。そうして言われたとおりに顔を上げる。視線は泳ぐ。二卵性であっても純玲に似通っている彼女の顔立ちを今は目にしたくなかった。いや、今だけじゃない。
「本は好き?」
そうして芹香さんから出てきた言葉はその場しのぎにしては、不恰好で、聞き流してしまうにはもってこいで、けれどもそうしたら彼女の反感を買ってしまうからできなくて、私はただ肯いた。
「提案があるの」
そう口にした芹香さんはたどたどしく笑ってみせた。
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