第2話
コンコンコン、と。規則正しい音の後でドア越しに声がする。
「
若い。母親ではないと思う。だとすれば、話していた妹さんだろう。「誰か」ではなく「誰が」と声の主は問うた。玄関口にあった私の無個性なローファーは、訪問者がいる証拠として見落とされなかった。
「友達。入ってきなさいよ、
純玲がそう言うと、ドアが開かれて私はそこに立つ少女を目にした。
姉である純玲と同じく、宵闇を溶かしこんだ黒髪。それをサイドテールにしており、やはり純玲と同じ形をした瞳に、眼鏡をかけている。直線的なラインを持つ四角いタイプのレンズで上半分しかフレームがない。知的な印象を受けた。顔は純玲と比べてやや丸みを帯びており、その唇は固く結ばれている。
彼女は純玲の傍にいる私に視線を滑らせ、そして純玲に戻すと口角を上げた。十二分に美人だ。少なくとも私なんかよりもずっと。
「仲がいいのね」
「まあね。紹介するわ、
「ごめんなさい、記憶にないみたい。よろしくね、砂埜さん」
「は、はい」
「芹香も今日は部活、それにバイトもない日だったわよね。いっしょに勉強する?」
「する。でも、その前にお客さんにお茶の一杯も出さないのはどうなの」
「お客さんだなんてそんな。私ならかまいませんよ」
「芹香の言うことも一理あるわね。私が何か用意するから、その間に二人は打ち解けておいて。まるで前世で恋人同士みたいだったふうに」
純玲の冗談に、芹香さんは黙って肩を竦めて「勉強道具を持ってくる」と言い、ドアを開いたまま去った。そして純玲は立ち上がると私を見下ろして「紅茶でいい? ティーバッグのやつ」と言って、私は「うん。ありがとう」と努めて笑ってみせた。
この後で芹香さんと二人きりにされるのだと考えると、あまり明るい気持ちになれなかった。内気で人見知りだという自負がある私だ。純玲が日頃から芹香さんの話をしていて、そのパーソナリティがある程度でも把握できていたらよかったのだが、現実としては話題に挙げることは少ない。避けている様子はなく、家庭内での出来事を率先して外に発しはしないというだけ。代わりの話題はいくらでもあるから。
「だ、大丈夫。当たり障りのない会話で時間をつぶせばいいだけ」
私は自分に言い聞かせてみた。まさかほぼ初対面みたいな雰囲気なのに、いきなり何かしてくるってことはないだろう。さっきの純玲のように吐息がかかる距離で接する子には見えなかった。その瞳には知性と共に、純玲にはないクールさ、誤解を恐れずに表現すれば冷徹さすら覚えた。そんな人が急に私と仲を深めようとしてくるはずがない。
ほどなくして芹香さんが純玲の部屋に戻ってきて、ドアをぱたんと閉める。別クラスなので授業の進捗に少し差があり、まずはそれを確認した。恐ろしく無難で事務的なやりとり。彼女は隣には座らずに向かいに座った。ぴんと張られた背筋。身長は純玲とほとんど変わらない。ぱっと見るに純玲より細身かな。
「暖房、利きすぎですか?」
「へ?」
「さっき純玲といた時の砂埜さん、顔真っ赤でしたよ。今はそうでもないですけれど。何か恥ずかしがったり照れたりすることがあったんですか?」
「そういうわけじゃないです。えっと、風邪気味、かも」
「はい? それなのにわざわざうちまで来たんですか」
棘のある調子に私は口をつぐむ。ぐうの音も出ない。
芹香さんは眼鏡の位置を指でくいっと正すと、一つ咳払いをした。
「ごめんなさい。きつい言い方でした。あの、体調が悪いなら早く帰った方がいいですよ。食べるべきものを食べて、とるべき睡眠をとってください。それが砂埜さんのためでもあり、うちの姉のためにもなるかと」
「お、おっしゃるとおりです。でも、今は平気で……なぜか純玲が傍にいると変に熱くなっちゃうっていうか」
私の返答に芹香さんは眉をひそめた。それで私は自分が口にしたのが、たしかに妙なことであったのを認識して慌てた。
「え、あ、いや、すみません、何言っているんだろう、私。とにかく大丈夫です」
「そうですか」
興味を失ったかのように、ぽつりと言って参考書をめくる芹香さん。私は解きかけになっていた数学の問題、その計算を時間をかけてしながらも、ちらりちらりと彼女の顔をうかがった。すると、彼女もまた視線をこちらによこした。自然とぶつかる。
「なにか? ……私、数学って得意じゃないですよ。純玲よりはできますが」
「そ、そうなんだ。えーっと……芹香さんって何部に入っているんですか」
「弓道部です」
「わぁ、袴姿似合いそうですね」
お世辞ではなく本心だった。この黒髪美人が袴姿で弓を射る姿は様になり、絵にもなるに違いない。ああ、でもそれなら純玲もだ。純玲が矢を弓の弦に番えるときの真剣な表情を想像するに、凛としていてこっちまで気が引き締まりそう。
「普段は指定ジャージで練習していますけれどね」
無感動に芹香さんはそう言って、ペンケースからシャーペンを取り出す。自立するもので、純玲のと色違いだ。純玲のはコバルトブルーで、芹香さんのは薄いオレンジ系の色をしていた。内容物は純玲より少なく、すっきりしている。純玲がごちゃごちゃしているだけとも言えるけれど。
「そう言う砂埜さんは? 部活は何かされているんですか」
カチカチカチ、と。芹香さんは芯を出して私に義務的に訊く。
「私は園……当ててみてください! な、なーんて」
「演劇部なんですか? 二学期になって入ったとか。でも、そんな話は純玲から聞いていないです。ひょっとしてつい最近に?」
面白くなさげに問う芹香さんに、私が春から園芸部に入っているのを明かすと、一瞬、彼女はぽかんとしてから「あったんですね」と素直に感想を漏らした。
「学校の中庭に植えられている秋桜なんかも砂埜さんが世話をしているんですか」
「世話って言うほどじゃないです。秋桜は雨水が当たる場所だったら、地中まで乾燥する夏場でない限りは水遣りってほとんどいらないんです。鉢植えだとまた違いますけれど。今、咲いているのを萎む前にいくらか押し花にしてみようかって先輩と話しています」
「……へぇ」
「芹香さんってお花、好きなんですか。中庭の花壇の存在自体を知らない子も多いのかなって思っていました」
そんな話を先輩ともしていた。ぼやいていたと表現すると、まるで私が学校の花の世話に熱心なふうであるが実際としては最低限のことしかしていない。顧問が保管しているノート――――顧問そのものが数年でころころと変わるそうだが――――に校内の植物の取扱について記されていて、それに沿って活動しているのだった。無論、専門家すなわち業者の手を加えないといけない案件はそちらに任せるので、はっきり言って楽な部活だ。草むしりが多少、億劫ではある。
「べつに。偶然ですよ、花の名前もろくに知りません」
素っ気ない態度をとって、芹香さんはそれ以上は話す気がないと言わんばかりに、彼女自身の課題に取り組み始めた。
果たして純玲が紅茶を三人分淹れて部屋に戻ってくるまで私と芹香さんの間に会話はなかったのだった。
純玲がまた私の隣に座ろうとしたのを芹香さんが「いちいち移動されたら面倒だから」と止め、三人を点にして正三角形を作るように座らせた。「こっち側は狭いわ」と言う純玲を黙殺して芹香さんはペンを走らせる。
勉強会は純玲が合流してからは、賑やかなものとなった。女三人寄れば姦しいとは言うが、純玲の数学嫌いはほとほと困ってしまうもので、問題を解いていく途中で何度も脱線していき、その先で話が膨らむ。当然の如く、私にも芹香さんのどちらにも話が振られる。芹香さんは私への対応よりも、いっそうおざなりな様子で、純玲に対して遠慮のない返事をよこす。私の知る姉妹関係と照らし合わせてみれば、なんとも気の置けない仲だった。
ただ、純玲の前で私と芹香さんが言葉を交わすことはまったくなかった。それを何とも思っていないように純玲は振る舞う。純玲からすると、あんな冗談は言ったものの、私たち二人が仲良くなろうとなれまいと些末なことであるらしかった。
私が気になったのは、そうした空気でずっと三人での勉強会が進んだというのに、芹香さんが私を時折、じっと見つめてきたことだ。「どうかしました?」と何度か言いかけて、しかしやめておいた。彼女の視線に気づいて目を合わせようとすると、芹香さんはすっと視線を外してしまう。それが何回かあった。
午後六時過ぎ。なんとか無事に私たちのクラスで与えられた数学の課題を純玲も終わらせることができた。純玲一人が、私を玄関まで見送りに来てくれた。そして「また月曜日にね」と手を小さく振って微笑む。私は肯いて手を振り返しながら、玄関扉を開けてそのまま出ようとした。
「駅まで送りますよ」
二階から降りてきた芹香さんが私に言う。彼女も制服姿のままだったが、上着を羽織っている。ベージュのダッフルコート。私と純玲が玄関に移動している間に自分の部屋に取りに行っていたのだろう。
「意外ね。顔に出ないだけで、莉海を気に入ったの?」
純玲が小首をかしげる。
「そんな言い方しないで。ただ……もう少し話したくなっただけ」
「ふうん。もう暗いから気をつけなさいよ」
それなら純玲もいっしょに来てもらって、帰りは姉妹二人で帰宅すればいいのでは、と思ったが口にはしなかった。そうするつもりがあるなら純玲はそうしている。察するに、寒い外に出るのを厭っている。そんなことで憂いてもしかたないが、私はつい唇を軽く噛んでいた。芹香さんが「行きますよ」と促して、私たち二人は外に出る。
家を出て五分。つまり駅にはあと五分ほどで着くという地点になってもなお、芹香さんは黙っていた。
「あの、もしかして話したくなったというのは嘘で、私の体調を気遣ってついてきてくれたんですか」
私は思い切って訊ねた。芹香さんがコートのポケットに右手を突っ込む。
「違う。敬語、やめて。私もやめるから」
「あ、はい」
「ねぇ、砂埜さん」
苗字にさん付けするのはやめないんだ。
私を見る芹香さんの目つきは鋭くなっていて、私は怯んだ。
「な、なに?」
「純玲のこと、どう思っている?」
「えっ」
唐突だった。冷たい風が吹きつけ、しかし身体が熱くなるのを感じた。
芹香さんが眼鏡の右側の蔓の位置を正した。わざとらしく。ずれなどないのに。
「あなたが純玲を見る眼差し、どうも普通じゃないわ」
「普通じゃない?」
「そう。気のせいだって、私の勝手な思い込みだって言い切るには、あなたの顔ったらまるで……」
「まるで、なんですか」
やめてと言われたのに敬語を使ってしまう。出し抜けに、純玲に向ける視線の異常性を指摘されても困惑しかない。問いかけの意図や理由は不明瞭だ。
「寄り道するわね、ほんの少しだけ」
私の疑問に応じず、続きも言わないで芹香さんは脇道に入っていく。しかたなしに私は彼女についていく。路地にある自動販売機の前で足を止めると、彼女が財布を取り出した。記憶が正しければ、これも純玲と色違い。純玲はホワイトピンクで、芹香さんが手にしているのはネイビー。ペンケースの色合いとは逆だ。
「純玲は紅茶の淹れ方が上手じゃないわ。ティーバッグだって、淹れ方一つで変わるものなのに。ねぇ、何を飲む?」
「えっと……」
私は芹香さんに言われたことを何度も心の内で反芻している真っ最中だった。
普通じゃない。つまり?
「あの、よくわかりません」
「奢ってあげるってことよ」
「そうではなく! さっきの質問、です」
「ただの友達って即答してくれればよかったの。でもそうじゃなかった」
「いきなりだったから」
芹香さんが自動販売機から、私へと向き直る。夜の帳を下ろした周囲は静まり返っていて、冷たい空気にぶるりとする。
「それじゃ、もう一度考えてみて。いい? 嘘はつかないで。あなたが純玲をどう思っているか聞かせて」
芹香さんが百円硬貨を指で弄ぶ。
純玲と同じだ、と思った。その指先はほっそりとしていて、美しい。日々、弓を引いているとは感じさせない。どちらの手でどんなふうに扱っているのかまで知らないけれど。
考える。考えるよう強いられている。私が純玲をどう思っているのか。
ただの友達だと言い切れる? 言い切れない。なぜ?
「私は、純玲のことを……」
ふと芹香さんの指から百円硬貨が零れ落ちた。でも器用にも、彼女はそれが地に落ちてしまう前に、手でそれを掴みとることができた。私だったらそのまま落として、なくしてしまいそう。
「好きなんでしょ?」
「え――――」
震えの代わりに熱さが込み上げた。
「顔、真っ赤にして気持ち悪い」
百円硬貨を財布にしまい直して、芹香さんは私にそう言った。
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