スイート・ペンデュラム

よなが

第1話

 タルト生地を作るのに使った薄力粉の四百倍。それだけの重みが三嶋純玲みしますみれにあった。


 高校一年生の春、身体測定の時に彼女が「四十八キロぴったり」と呟くのが、すぐ後ろの私には聞こえた。彼女は体重計を静かに降り、振り向きざまに私と目を合わせた。そして「聞こえちゃった?」と囁いた彼女の微笑みは、その前日に焼いたストロベリータルトよりも甘酸っぱくて、ぐるんぐるんと私の心をかき混ぜた。均一化なんてとんでもない、全然落ち着かない。溶け合うどころか、こわばったものを心に形作るような。

 さっと耳まで焼き上がり、そんな私が首を横にふるふるとするものだから彼女はふふふと品よく笑った。

 入学直後、あてがわれた教室での自己紹介の時には緊張し過ぎて、他の人の声に耳を傾けるのも、まともに姿を見やることだってできなかった私。数日後のその身体測定でのほんの数秒、やりとりとすら言えないようなその瞬間に私は初めて彼女に出会った気がした。

 

 麗しい黒に染まるワンカールのミディアムヘアを、つややかなチョコレートソースでコーティングされたザッハトルテとでも喩えたのなら意地汚い子だと思われるかもしれない。気品とミステリアスな奥深さを兼ね備えたその細長い楕円型の眼をアーモンドに喩えるのは凡庸だ。その小ぶりの唇をチェリーやラズベリーで喩えるのなら、瑞々しさだけではなく色が要る。彼女がその唇をきらめかせているのを私はまだ目にしたことがない。

 背丈は私とそう変わらず平均的なのに、その指先は私とは違ったスケールで測られてできあがったみたいに、細長く美しかった。気まぐれな神様か、単に彼女を好きになった神様のおかげなのだろう。私よりも泡だて器やパレットナイフを上手に使えるに違いない。

 たとえばすれ違いざまに仄めく、彼女の匂いは果実ではなく花の香りだ。三嶋純玲そのものが一輪の花であるかのように錯覚する、そんな妄想を彼女に直接言える日は来ないのだろうけれど、とにかくうっとりとしてしまった。


 四月下旬。彼女が演劇部に所属したのを知ってから、さらに一週間してようやく私は彼女と話す機会を得て友達になれた。「園芸部と演劇部なら一字違いだね」と言う彼女に何か気の利いたことを返そうとしたが、できなくて少し落ち込んだ春の終わりだった。


 季節が菫の花から紫陽花に移り、それから向日葵を経て、遅咲きの秋桜が咲いている頃になったある日、純玲の家にお邪魔することとなった。

 それは二学期末考査まで残り十日となった日であり、互いに部活は休みだった。昼休みに、期末考査について自信がないと愚痴る私に彼女が勉強会を提案してくれたのだ。てっきり土日のどちらかにとでも思っていたら、善は急げと追い立てられて帰りのHRが終わるなり、さっさと教室を二人で出た。他の共通の友人は皆、部活であったから二人きりの勉強会。そう考えると、しだいに胸が騒がしくなった。


 午後四時。

 帰宅したり寄り道予定であったりの中高生が多く乗る電車で、私たちはドアの近くに並んで立っていた。窓の外から沈んでいく夕日が眩い茜色を車内に注ぐ。十一月に入ってから一段と日が短くなったように感じられた。


莉海りみは、ここからもう二つだっけ」


 私は肯く。私たちの通う高校の最寄り駅から一駅。そこが純玲がいつも降りる場所だ。私はというと同じ路線で二つ進んだ先。純玲といっしょに下校することが多いわけではない。登校だって、朝が弱い私は彼女より前に教室に入った覚えはない。

 思えば、六月半ばあたりまでは「砂埜すなのさん」と苗字で呼ばれていたのが、何人かで遊ぶうちに名前で呼ばれはじめた。それで私も「三嶋さん」ではなく純玲と呼べたのだった。けれども、どうしてか未だに呼ばれ慣れないし、呼び慣れずにもいる。後者は顕著だ。いざ彼女本人をその綺麗な名前で呼ぼうとすると不思議と体の芯が熱を帯びてしまって舌が回らないのだ。

 

 電車を降りて、改札を出て歩く。肌寒い。カーディガンでは心もとない時季が来ている。雪は降ったとしても粉砂糖、地に落ちてすぐ失せる様は甘味などなく。そんな地域だけれど吹きつける風はひどく冷たい。そうだというのに、純玲と肩を並べて歩いていると気にならない。それどころか、たとえば背中を妙にあたたかな汗が流れて、戸惑う。

 風邪を引いたのかな。そんな私におかまいなしに純玲が訊ねる。 


「勉強会、今度は莉海の家でしたいわね。どう?」

「気が早いね。……えっと、部屋が散らかっているからなぁ」


 高校生になってまだ友達を一人も招いたことのない部屋だ。純玲を含む友達数人の住まいの立地ゆえに、集まる場所として選ばれることはこれまでない。


「へぇ、そうなの。莉海はいかにも几帳面で部屋の掃除を欠かさない雰囲気なのに」

「そんなことないって。ちょっと神経質なところがあるってだけだよ」

「蜜柑の白い筋の部分、一所懸命に取るとか?」

「栄養があるっていう話だから食べるようにしている」

「そっか。冬になったらお昼に蜜柑を持ってきて、白いところだけあげる」

「いや、そこが美味しくて好きだなんて言っていないよ?」

「私は苦手だから、できるだけ取るようにしているの」

「でも勉強はそういうわけにもいかない」

「そういうこと。ねぇ、莉海は英語も数学もできるわよね」

「クラス平均より少し上ってだけだよ」

「私は平均より少し下。現代文や古典、それに社会科目ならわりと得意」


 わりとも何も、英語を除く文系科目であれば学年上位の純玲だ。英語にしたって、中学生のときにもっと真面目に勉強していればできたと思う。本人曰く、相性の悪い先生だったのだとか。ただ、数学は先生に関係なくめっぽう弱いのは知っている。それでも赤点を回避できているのは、なんだかんだ与えられた課題をこなしてテスト対策をしているからだった。


「人には得意不得意がある。だから勉強会が成り立つ。私たちはそれぞれが異なる事実に感謝しなければならない。そうよね?」

 

 不意に凛々しい表情になり、そんなことを口にした純玲。私はまた黙って肯いた。

 声色もどことなく芝居がかっていた。演劇部ゆえか、それとも元々の性格なのか、純玲は時折、何気ない会話の途中でも表情や調子を一転させる。取り立てて理由なしに。内実があってないような、それに本心とは結びつかないような、演者の素振り。

 私はそれにドキドキさせられてばかりだ。その様子を見るのを純玲は楽しんでいる節がある。やめてほしい、とは思わない。むしろもっと大胆に、と考えるときもあるぐらい。なぜと訊かれても自分自身よくわからない。

 

 先月の頭にあった文化祭では一年生ながらも舞台に上がって脇役を見事に演じてみせた彼女だ。活動は基本的に週三日、それから毎月第三土曜日にあるという演劇部。週二日か、時には一日しかない園芸部と比べると積極的であるし、部員数も全然違う。園芸部は私含めてたったの四人であるが、演劇部は一学年につき十人前後で、三十人ほど所属しているのだ。純玲曰く、兼部している人もちらほらいる。


「今日はそれほど時間もないし、部屋でくつろいでくれていいから。大したもてなしもできないけれど」

「ちゃんと勉強するよ」


 甘言にはつられまい。一度流されたらそのまま引き返せなくなりそうだ。


「そんなふうに気負われると、かえってしたくなくなるわね。考えてみると、莉海と二人きりって初めて?」

「……うん」


 改めて本人からそう言われると、喉がゆるりと絞られる心地がした。苦しくはない。ただ、言葉にできない何かがあってそれがせり上がってくるのを自分で無理に止めるような。

 

 ふと、容赦ない風が吹いて純玲の髪を乱す。ショートボブの私でも、この冷ややかな風に撫でられるのは不愉快であるから、日頃から髪に気を遣っている純玲はいっそう嫌だろう。案の定、純玲は「嫌な風」と呟くと手櫛で髪を簡単に整えた。


「寒いわね。手でも繋ぐ?」

「えっ」

「冗談よ。莉海ったら驚きすぎ。目を見開いちゃって。そんなに嫌だった?」

「嫌じゃないけれど……からかわないでよ、もう」

「ふふっ、ごめんごめん」


 駅から徒歩十分、三嶋家に到着する。

 三嶋家は私の家と違って周囲に田畑のほとんどない、閑静な住宅街に構えた南欧風で二階建ての住宅だ。浅めの軒があり、白い塗り壁に明るいブラウン系の色をした屋根。片開きで木目調の玄関扉を、純玲が鍵を使って開ける。他の家族は誰もまだ帰宅していないと話す彼女に、私は二人きりという事実を再認識した。


 二階にある純玲の部屋は、九月に入ってすぐに何人かで訪れた時とあまり変わっていなかった。可愛らしいぬいぐるみや小物の類はない。ものはあるから殺風景とは違うけれど、無機質な感じがする部屋だ。目が疲れないことが第一なの、と前に話していた気がする。書棚に整然と並んでいる本は増えたかな。小説が多い。背表紙だけで推察してみるに、恋愛ものが多いという感じではない。たぶん。

 全体として模様替えはそんなにしていないが衣替えはとうに済ませたのだと言う。


「クローゼットの中も見せてほしい?」


 蠱惑的な笑みを向けられ、「えっと」と視線を逸らしてから応じる。


「何か披露したい服でもあるの?」

「あると言えばあるわ。でも、今じゃないわね。そうよ、テストが終わったら皆でどこか行きましょう。その時に見せてあげる」

「楽しみにしておく」


 皆で、か。ここにはいない友達を頭に思い浮かべる。私なんかよりお洒落な子たちだ。夏休みを機に垢抜けた子もいて、地味な私としては狼狽えている。


「ああ、でもそんなにハードル上げないで。どうせ寒くて厚着しないといけないし。そのあたり、深く考えずに買っちゃったのよね。しかも妹にお金をいくらか出してもらって」

「妹さんって別のクラスの……」


 双子の妹だというのは聞いている。

 二卵性で見た目がさほど似ていなくて、人柄も全然別なのだとか。肯定的に捉えると、お淑やかで生真面目らしい。

 純玲は派手ではないが、その美人ぶりがそのまま言動に繋がって、人の目も耳も惹く。妹さんのほうはそうでもないと誰かが話していた。それを姉である純玲に伝えるのは愚行だろう。私はその妹さんの顔を思い浮かべさえできないのだ。いること自体、夏の中頃に初めて知った。


「そうそう。あれ? そう言えば、間が悪くて莉海には紹介していないわよね。学校で関わることがあったら、よろしく」

「う、うん」


 そうして私たちは勉強会を始めた。純玲は私服に着替えてしまうと集中力が皆無になるからと話して制服のままだった。

 ……どうもこうも捗らない。教科は数学。今日ちょうど課題が出ていた。

 低い長方形のテーブルを挟んで、当初は向かい合わせに座っていた私たちだったが「見えづらいわね」と純玲が不服そうに口にして、ごく自然に私の隣に移動した。

 それはまぁ、逆さに見るよりも同じ方向から見たほうがいいに決まっている。けれど、距離感というのはぐっと近くなる。向かい合わせに座ったときは、近いなって思ったのが幻想だったみたい。今、すぐ隣に彼女を感じてどぎまぎしてしまう。


「判別式ってなんだっけ」

「解の公式って覚えている? ……中学生で習ったやつ」

「覚えたわよ。不本意ながら」

「そこ、抵抗するところなの」

「だってほら、公式で導き出せる解なんてつまらないものよ。世の中、そんなに甘くないわ。そうでしょう?」

「うん。そんな屁理屈でテストが免除されるほど、甘くないね」

「莉海ってけっこう意地悪ね」

「褒め言葉として受け取っておくね」


 軽口を叩いてみたものの、純玲がどんな顔で私をなじったのか正視できなかった。声のトーンからして笑ってくれていたと思うけれど、本当に気分を害してしまっていたのなら謝るべきだ。でも、そのタイミングは既に外した。

 なんでかな、心臓がうるさい。


「ねぇ、莉海。顔、赤いわよ?」


 純玲の心配そうな声、その吐息が耳にかかって私は叫び声をあげてしまいそうになった。

 

 そのとき、ドアをノックする音がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る