第8話 おしかけ

「……シズク、何で部屋にいるんだよ?」

「受験生は登校しなくていいから」

「いやそれは俺の部屋にいる答えになってないだろ」

「……なんでこの部屋から追い出そうとするの?」

「別に追い出そうとなんかしていない……」

「ならいいでしょ」


 そう言って、シズクはしかかっている鍋へと視線を落とした。

 ミディアムボブの黒い髪がポニーテールで結られている。わずかにゆらゆらと左右に揺れた。


 その細い首元から、色白いうなじが見え隠れした。


 くっそ……俺は何を見惚れているんだ。


 現在時刻は夜の8時。

 とある法律事務所の事務のバイトから帰ってきたら、すでにこの有様だった。

 

 急に押しかけてきて料理をしているのだから、相変わらずシズクの考えていることはよくわからん。事前に連絡の一つくらいくれてもいいものだろうに。


 俺はバックパックを置くために奥の部屋へと向かう。

 

「ねえ、ご飯食べてきちゃったの?」

「いや、まだだけど」

「そう、よかった。ちょうど二人分作っていたところだったから」


 シズクはチラッと俺の方へと振り返ってそう言った。

 なぜかわずかに口元に笑みを浮かべている気がした。


▲〇▲〇▲


 シズクは自分で作ったポトフと盛り付けたサラダに口をつけていない。

 どうやら俺から先に食べろということらしい。


 そういえば、実家にいた時も決まってこうだった気がする。


 商社マンとして忙しかった親父と法律家の母——マイコさん。 

 ほとんど一緒に夜飯をとったことはなかった。


 だから家事は俺とシズクで分担していた。

 でもいつしかシズクが自ら率先してやり始めた。


 料理もその一つだった。


 必ずシズクは俺を見ていた。

 

 今になってこの儀式を思い出した。


「……いただきます」

「……」

「——おいしいよ」

「前よりも上手になったと思う?」

「ああそうだな。てか、もともと上手だっただろ」

「ふふ、ありがと」


 なぜか満足げにシズクは笑みを浮かべた。


 静寂が支配した。

 時々、シズクから視線を感じたが、俺はそれに気づかないふりをして食事を進めていった。


 するとシズクが口を切った。


「ねえ、お兄ちゃん?」

「ん?」

「私がなんでお兄ちゃんと同じ大学に進学することにしたのか聞かないの?」

「……そういえばそうだな。なんでだよ?てっきりシズクは生物系かバイオ系の学部のある大学に行くと思っていたけれど……ほら、海洋系の生物とかよく好きだっただろ?なのになんで社会学部なんだよ?」

「うーん、文系の方がモテるから?」

「は?」

「冗談だよ、お兄ちゃん。そんなに怒った顔しないでよ」

「別に怒っていないから……それで、本当のところは?」

「興味があったからかな、色々と」

「……何に?」

「色々はいろいろだよ。社会のこととか人間のこととか……あれ……もしかして別の理由でも期待していたの?」

 

 シズクは静かに笑みを浮かべた。

 

 マジでこいつの考えていることはわからん。

 なぜ俺がいちいちシズクの進学理由などを考えなければならんのか。


「別に何も期待しちゃいない」

「そっか」


 そう言ってシズクはつまらなさそうに食事を再開した。


 今の質問は……なんだったんだよ。

 ますますシズクの考えていることがわからなくなった。


▲〇▲〇▲


 シャワーを浴びて、しっとりとした髪でシズクは部屋へと入ってきた。

 またしてもいつの間にか俺の服を奪って着ていた。


 もう面倒だ。

 俺は余計な指摘などせんぞ。


 そんなことよりも書きかけのレポートを終わらせなければならないんだ。

 ノートPCへと視線を戻して、俺はレポートの続きに取り掛かろうとした。


 しかしそれはできなかった。


 灰色の瞳が俺をじっと見ていることに気がついたからだ。

 ニヤッと一瞬だけ口元を歪めて、透き通るような声で言った。


「そういえば、お兄ちゃんの彼女——レイさんだっけ?」

「——っ!?」

「すっごく……私に似ているんだね」


 シズクはそう言ってスマホの画面を俺へと向けた。

 おそらく俺のスマホから写メを転送でもしたのだろう。


 レイちゃんと俺が映った写メがシズクのスマホに投影されていた。


「シズク!勝手に俺のスマホをいじったのかよ!?」

「ふふふ、パスワード、私の誕生日のまま変えていなかったんだね」

「それはただ面倒だったから——」

「この写メ……お母さんに見せたらどんな反応するかな?」


 俺の言葉を遮ってシズクはちょこんと俺の隣に座った。


 わざと見せつけるようにして、スマホの画面を俺へと近づけてきた。


「——っ!」


 俺はスマホを奪おうとした。

 

 でもそれが間違いだと気がついた時にはすでに遅かった。


 俺はシズクに覆い被さる格好になっていた。


 シズクはわざとこうしたかったのだろう。

 かつて過ちを犯してしまった時のように——灰色の大きな瞳が俺のことをじっと見ていた。


「ねえ、お兄ちゃん、約束忘れたの?私の初めてを奪った時に言ったよね?『一生大切にする』って言ってくれたよね?あの言葉は嘘だったの?」

「嘘じゃない……」

「だったら、なんで私にそっくりな女の子と付き合っているのかな?」

「それは……偶然好きになったのが——」

「お兄ちゃんは卑怯だよ。勝手に家も出ていっちゃうし、この2年間一度だって帰ってきてくれなかったもんね?」

「……」

「私のことを捨てる時に『妹としてしか見られない』って言ったよね?」

「捨てるって……別に俺は——」

「その言葉も嘘だったの……?」

「俺はお前のお兄ちゃんにならなきゃいけないんだ。それが死んだ親父との約束で——」

「そんな言葉ほしくないっ」


 シズクの瞳からポロポロと透明な涙が溢れた。


 俺は……またシズクを傷つけてしまった。

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