第4話 さいかい

 ピーンポーンという音がかすかに聞こえた。

 

 つけっぱなしになっていたノートPCの画面には書きっぱなしのままになったレポートが開かれている。しかもいつの間にか大量の『あああああ』の文字列が並んでいる。


 どうやらうたた寝してしまっていたらしい。


 てか、さっむいな。


 ゴソゴソとソファーから立ち上がって床に落ちたままだった上着を羽織る。


 壁にかけた時計の針は19時だ。


 こんな時間に誰だ?


 バタバタと廊下を歩いて、玄関まで向かう。

 覗き穴から外を見ると——シズクがいた。


 なんでいるんだよ?

 

 とりあえず寒そうにしているシズクを無視するわけにもいかない。

 扉を開けるとすぐに、シズクがスッと俺の前に近づいた。


 うわっとミディアムボブの黒髪が揺れて、甘い香りを運んできた。

 

 シズクの灰色の大きな瞳が俺を覗き込み、桜色の小さな唇がわずかに動いた。


 透き通る声が狭い玄関内で反響して俺の脳内を支配した。


「久しぶり、お兄ちゃん?」

「………そうだな。シズク」


▲〇▲〇▲


 仏頂面でシズクはソファーに腰を下ろしており、俺のノートPCをのぞいている。


 先ほどからすでに数十分ほど経っていた。


 部屋に上がってからのシズクの第一声は『パソコン貸して』だった。


 あいかわらずこいつの考えていることはよくわからない。


 くるくると髪先を色白い指で弄んで、画面を睨んでいる。


「それで……どうしたの?」

「今日、泊まっていいかな」

「いいけど、なんで?」

「お兄ちゃんが寂しいかと思って」

「は?意味わからん」

「ふふ、嘘だよ。ただなんとなくそうしたいだけ、いいでしょ?」


 そう言って、シズクはノートPCから視線を上げて微笑んだ。

 

 くっそ……そんな儚げな瞳で俺を見るな。

 それに向かい側に座っている俺の位置からは、少し捲れたスカートの奥が見えそうになっていることに気がついてくれ。

 

「わかった……てか、スカート」

「……気にしないで」

「あのな、お前は一応恥じらいというものを——」

「外では気をつけているよ?それにお兄ちゃんにだったら別に見られてもいいし」

「そういう問題じゃないだろ」


 じっとシズクの灰色の瞳が俺を見つめ続けた。

 数秒ほどしてから、またノートPCの画面へと視線を戻した。


「……何もかもうまくいかないね」

「は?」

「ううん、なんでもない。スカートのことは今度から気を付けるね」


 シズクは少し突き放すような雰囲気で言った。

 

 ほんとに……何を考えているのかわからん。


▲〇▲〇▲


 それから俺たちはポツポツと近況を話し合った。

 どうやらシズクはこの儀式をしたくてわざわざここまできたらしい。


 メッセージだけでやり取りはしていたから今更報告することなんてなかった。

 しかし、やはりシズクとしては直接話したかったらしい。


 シズクは少し改まったように居住まいを正してソファーに座った。


『お母さんだけど転勤?転属?出向?よくわからないけど、するんだって』

『……急だな』

『うん、だから来年の春からは、お兄ちゃんと一緒に暮らすから』

『いや、飛躍しすぎだろ!?なんで俺がお前と一緒に——』

『ここの部屋は空いているからいいでしょ?』

『それはそうだけど——』

『同棲する相手でも見つかったの?』

『そうじゃないけど……付き合っている子はいるし』

『そっか』


 どこか遠い目をしてから、シズクはそれ以上何も言わなかった。

 結局、シズクと一緒に暮らすことになるのか判然としない。


 シズクはいつもそうだ。

 最終的に、俺に決定させようとする。

 まるで試されているかのように。

 

 だからこそ、いやそれゆえに……それが嫌で俺は実家を出たんだ。

 

 そんなやりとりがあったのがかれこれ数十分前のこと。

 そして現在——シズクはお風呂場だ。

 ちゃぷんというお湯の滴る音がかすかに聞こえた。


 先ほどチラッと見えてしまったシズクの色白い太ももが脳裏にフラッシュバックした。


 くっそ……義妹に欲情なんかしている場合かよ。


 そうだ。

 こんな時こそ、レイちゃんのことを考えよう。

 

 てか、次のデートについてどうするか連絡でもするか。


 あれ……そういえば、スマホが見当たらない。

 

 充電器に繋いでおいたはずだが、どこかに放り投げっぱなしにしてしまったか。


 数分ほど部屋を探し回っていると、シズクが上がってきた。


 しっとりとした髪を拭きながら、ちょこちょこと歩いてきた。

 そして、流し目で俺をチラッと見て、ソファーへと腰を下ろした。


「お風呂でたよ」

「そうか。それで——なんで俺の服を着ているんだよ?」

「え?だめ?」


 シズクの頬は僅かに上気している。

 火照った身体をすずめるようにして、俺のロングシャツをパタパタとした。


 当然サイズの合っていないダボダボの服だ。

 暑いのかバタバタとあおって風を立てるから、小さなおへそや色白い肌がチラチラと見えてしまった。

 そして何よりも、俺の下着を履いているらしい。


 ……勘弁してくれ。


「シズク!流石に下着くらい自分のものでいいだろ」

「……換えのもの忘れちゃったから」

「だったらコンビニで買って来いよ」

「私はこれでもいいんだけど?機能性も良いし」


 そういう問題じゃないだろ。

 兄と言っても血のつながらない他人の下着を身につけるとか、マジでシズクの感覚というか価値観がわからん。


 ……あれ、既視感がある。

 そうか。そういえば実家にいた頃もこんなことあったけか。


 確かあの時も結局、シズクは俺のいう事なんて聞かなかった気がする。


「もういい。勝手にしてくれ」

「うん」


 どこか満足げにシズクは頷いたような気がした。


▲〇▲〇▲


 俺の部屋には、ベッドしか寝る場所がない。

 だから初め俺がソファーで寝ようとした。

 しかし、なぜかシズクは自ら『私がソファーでいいよ』と言って半ば強引にソファーを占拠した。


 すうすうという僅かな寝息が聞こえてくる。

 だからシズクは現在、ソファーで眠っている。


 寝返りうったのだろう。

 毛布が床に落ちていた。


 全くこれじゃあ風邪を引くだろうが。

 俺はゴソゴソと立ち上がって、毛布を拾う。


 てか色白い腕がソファーからだらんと飛び出ているし……寝違えるだろ……。


 そっと右腕を持ち上げる。


 右腕には小さく傷が残ってしまっている。

 かつて中学生の頃に家事当番だった時だ。

 落としたガラス製の食器で、シズクが切ってしまった跡だ。


 静かにシズクの胸の辺りで下ろす。


 その上に毛布をかける。


 よし、とりあえずこれでいいか。

 

 ベッドに戻ろうとしたが——シズクの寝顔を見てしまった。

 

 長いまつ毛、桜色の小さな唇、色白い肌。

 こうしていると、眠り姫みたいだな。

 

 ——いや、俺は何を考えているのか。

 

「——っ!?」

「……ふふ」


 パッチリとした瞳と目が合った。

 灰色の瞳はどこかサディスティックに細められ、ゆっくりと唇が動いた。


「約束のこと忘れていないよね?」

「……とっとと寝ろよ」


 俺は無視してベッドへと引き返した。

 どこかシズクから不満げな雰囲気を感じたが無視して、俺は目を閉じた。


 しかし結局、眠気は訪れなかった。

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