第27話26 お馬に感謝です! 少尉さん

「生きて……いられない?」

 レイルダーは、自分の腰にしがみついて泣きじゃくるアンを見下ろした。短くなった髪がくしゃくしゃになっている。藪にいたからだろう、たくさんの枯れ葉や蔓までくっつけて。

「わあああああ! 私の少尉さんが壊れちゃうぅ〜!」

「……アン」

「ああああん!」

「アン……泣くな、泣くなよ」

「だって、だって……少尉さんが怖い顔で人を殴って……」

「もう殴らない! だから泣くな! アンが泣くと、俺はどうしていいかわからん。アン、お願いだ……」

 そう言いながら、レイルダーはアンの目線に合わせて腰を落とした。

「頼むから泣き止んでくれ」

「本当に……もう怒っていませんか?」

「ああ。怒ってない」

 レイルダーは、ついさっきまでと別人のような情けない顔をしていた。

「ほんとう?」

 その肩越しにだらしなく伸びているラジムが見える。大怪我をしているようだが、命に別状はなさそうで、アンはとりあえず泣くのをやめた。

「ああ。ほらもう怒ってないだろう? さ、これで涙と鼻をふきな」

「ふ、ふぁい」

 レイルダーが取り出したのは、いつかアンが水をこぼした時に貸りて、ヘタクソな刺繍をして返したハンカチだ。

 緑色のRの文字が血や泥に汚れず、きれいに残っている。


 これ、まだ持っていてくれたんだ……。


 アンはごしごしと汚れた顔を拭きながら、懐かしいハンカチを見て心が落ち着いてくるのを感じていた。


 きっと今、私は最高に不細工なんだろうな……ヨアキムのいう通り。

 でも、もうなんでもいい。

 少尉さんが怒るのをやめてくれたんだから。


「すっ、すみません。ハンカチ、また洗って返します」

「そんなの気にするな。それよりほんとうにもう泣かないか?」

 心配そうに覗き込む綺麗な瞳は、もう炎を吹いてはいない。

「はい……もう泣きません」

「ごめんよ。アンの前なのに、つい激昂げきこうしてしまった……」

「それはもういいんです。きっと私にはわからない事情があるんでしょう?」

「……」

「とにかく、この人の手当をしなければ……そうだ! ケインさんたちはどこですか? ま、まさか……」

 アンの顔色がさっと変わる。

「マルクが怪我をしたので、付き添わせている。大丈夫だ。命に関わる怪我じゃない」

「でも、それってきっと銃槍じゅうそうですよね? 早く手当てをしないと! どこにいらっしゃいますか? 私、応急処置できます!」

「心配ない。彼らも兵士だ。自分のことは自分でなんとかできる。アンは俺とここにいろ」

「でも!」

 ちょうどその時、ケインがマルクを背負って土手の上から顔を出した。

「おおい、無事か?」

「ケイン様! マルク様!」

 アンは慌てて土手を駆け上る。すぐにレイルダーが追い越して、ケインと二人で支えながら土手を下りてきた。マルクはふくらはぎに銃槍を負ったようだが、既に止血はされている。

「すみません、アンお嬢さん」

 マルクは足を投げ出して土手に座った。ケインは気絶しているラジムの様子を見ている。

「痛むでしょう? 薬を」

「もう飲みました。通常の三倍くらい。だからちょっとぼんやりしてますが」

「また手ひどくやったな、レイルダー」

 ラジムの顔はひどく腫れ上がり、三箇所ほど骨折している。

「ふん、そっちは?」

 レイルダーは冷淡に尋ねた。

「ああ、護衛は全て倒した。御者と付き添いは縛って木にくくり付けてある。馬車は動けない。お前の奇襲戦法のおかげで大成功だ。で、周囲に敵の気配はあるか?」

「……問題ない。半径一キロ以内にもう敵はいない。こいつを除けばな」

 レイルダーは縛り上げたラジムを顎でしゃくった。

 彼は気を失ったままで、骨折の手当てもされていない。アンは添え木をあてがうと言ったのだが、それもレイルダーに禁止されたのだ。

「……」

 アンはさっきの彼の様子を思い出して一瞬体が震えた。

「寒いか? アン」

 ずぶ濡れのレイルダーに言われて、初めてアンは彼の手が血塗れなことに気がついた。ラジムの血と彼自身の血だ。アンはかつては白手で長い指を包んでいた優雅な手を取った。

「平気です。少尉さん、手当をさせてください」

「俺こそ平気だ」

「私は看護師です。ここはいうことを聞いてください。まずは消毒です」

 アンは救護箱から消毒液を取り出すと、ガーゼにたっぷり染み込ませてレイルダーの両手を洗う。その上に、とりあえず化膿止めの軟膏を塗って、細めの包帯を巻いた。

 レイルダーは餡のなすがままにさせている。

「できました」

「上手だな」

「だって看護師ですから! 見習いですけど」

「すごいな、アンは。勇敢で、賢い」

 彼女を見下ろすレイルダーの顔からは、すっかり険しさが消えていた。

 こんな場所ながら、アンはかつての魔法の夜を思い出す。

「……普通ですよ」

「レイルダー」

 背後からケインがラジムを検分している。このまま死んでしまわないか心、配になったらしい。

「ひどい様子だが、命に別状はないだろう。俺も初めて生で見たが、これが野心家の成れの果てか。けど、意外と小心者だったんだな。戦争を起こした張本人が敵前逃亡を図るなんて前代未聞だ」

「……そういう男だ。こいつの親父もな」

「とにかく川辺で迎えを待とう。待機の船がどこかに潜んでいるはずだ」

「鳩はもう向こうに着いていると思います。あ! あれは」

 土手をゆっくり下りてくるのは七十二号だった。一旦放たれたが、レイルダーやラジムの馬の気配を感じてやってきたものだろう。

「七十二号! 無事だったのね、よかった!」

 アンが駆け寄って馬の首を抱いてやると、七十二号も嬉しそうに鼻を鳴らした。

「あなたのおかげよ! ありがとう!  ありがとう!」

 レイルダーはそんなアンを見つめている。

「あ! 迎えが来るぞ! 護衛船も一緒だ!」

 ケインが鏡で合図を送ったので、待機していた運搬船がやってきた。鳩から知らせを受けた二隻の護衛船も一緒だ。一行はラジムを担いで船に乗り込む。負傷したマルクはすぐに手当を受けられるようだ。


 行きと違って、明るくなってからの渡河は楽なものだった。

 しかし、アンはレイルダーの豪華な金髪が泥に汚れているのを見て、胸が締め付けられた。彼は今しがた離れたラジム領の方角を向いて立っている。


 何を考えていらっしゃるのだろう?


 邪魔をしてはいけないと思ったアンは、夜明けの光を受けた横顔を見つめていた。

 対岸には小型のトラックが待ち構えている。

 とりあえず怪我人を先に運んでもらう。ケインも報告のために乗り込んだ。

「さ、お嬢さんも」

「いいえ。私は馬の世話をいたします。父への報告は、とりあえずケイン様がしてください」

「ダメだ。アンもお父上のところに行くんだ」

 レイルダーが厳しい声で言った。

「いいえ、馬たちが先です。この子たちすごく頑張ったのですから、ね? 七十二号」

 アンは側から離れない雌馬の手綱を取った。

「この子が馬車馬たちの気配を勘づいて近道を教えてくれたんです。馬を休ませるのが先です」

「そうか……なら、厩舎で休ませてやろう」

 レイルダーが折れた。

 珍しいことだ、とアンは思った。彼はいつもアンに安全圏に、綺麗なところにいて欲しがるから。

「わかりました。それではお嬢さん、なるべく早くお父上に顔を見せてあげてください。きっととても心配していらっしゃいます」

「はいケイン様。マルク様もお大事に」

 トラックが土埃を立てて出発する。

「じゃあ、行こうか。アン」

「はい」

 手綱を引くアンに、七十二号が何か言いたげに立ち止まる。

「……え? 大丈夫なの? 七十二号」

「アン?」

「あの、この子が自分に乗るようにって。大丈夫だからって」

 アンはレイルダーの馬も同意していることを告げる。

「……やっぱりすごいな、アンは」

 厩舎のある辺りは、前線基地のはずれだ。馬たちを守るためだが、それでも塹壕が掘ってあり、所々崩れて穴が空いている。

 砲撃が一番酷かった頃はここにも砲弾が届いていたのだ。アンがのぞき込むと、穴の底には泥水が溜まっていて、冬の空を寒々しく映していた。

「見るな」

 アンはぐいと腕を引っ張られ、穴から遠ざけられた。

 何をどうしたところで、彼にとってのアンは、いつも後を追いかけてくる小さな子どものままなのかもしれない。

「じゃあそうしようか」

「はい!」

 二人は馬にまたがり、でこぼこの戦場を離脱した。既に陽は高く上がっていた。


 こんな風景を二度と作ってはいけないわ。


 七十二号を御しながらアンは思う。

 大地は美しく荘厳であるべきだ。


「アン!」

 呼びかけられて振り返ると、レイルダーがすぐ後に着いている。

「ほんっとに上手だな! 追いつけない!」

「え? えへへ……ありがとうございます」

 アンは気がついていない。レイルダーが自分を追いかけていることを。

 冬の透明な光がアンを照らす。

 短くなった髪が淡い空に映えた。

 

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