第26話25 悪者はやっつけます! 少尉さん
「それ以上近づくな! 動けばこの小僧の頭をぶち抜く!」
男はアンのこめかみに銃口を向け、レイルダーに向かって叫んだ。二人の距離は二十メートルほどある。
「そうだろう? お前達、統一王国の軍は尊い理想を掲げている。だから、貧しい民衆の味方なんだろう? 王国を
「確かにそうだな」
レイルダーは言った。その静かな声が、かえってアンをぞっと震わせる。彼は怒り狂っている。自分を
「おお! こんなに震えて! かわいそうに!」
アンの震えを感じた男はせせら笑った。
「さぁ、色男! 小僧を殺されたくなかったら、俺の見ている前で、馬を下りて川に入れ! 向こう岸まで泳ぎ渡れたら、自分の運に感謝するんだな」
「……わかった」
レイルダーはそう言って、馬から滑り降りた。
「おっと。もちろん銃は鞍に引っ掛けておけよ」
「……」
レイルダーは鞍の上に銃身を置くと、アンの瞳を見つめながらじりじりと後ろに下がった。革靴がぬかるみにはまり、そしてすぐに膝まで水に浸かっていく。
少尉さん!
アンは歯を食いしばって彼を呼ぶのを堪えた。
あんなに威勢よく宣言したのに、結局彼の邪魔になってしまった。名前を呼んでもし彼が振り返ったら確実に撃たれてしまうだろう。自分のせいで、これ以上彼を危険に晒したくない。
何か、何か私にできることを探さなくちゃ……!
アンは自分がしがみついている馬に向かって念じた。
立派な雄馬だが、疲れ切っている。
当然だ。一晩中走り続けた上、戦闘に巻き込まれてしまったのだ。馬は早く背中の荷物──男を下ろしたがっていた。彼を嫌っているのだ。
その間にもレイルダーは川の中へと入っていく。足の長い彼の太ももの辺りまで水が
「おお! なかなか気持ちがよさそうじゃないか。寒中水泳というわけだ。さあ向こう岸まで泳いでいけよ」
男はだらだら汗をかいていたが、引きつったように笑うと、アンに向けていた銃口を、対岸の方に目をやったレイルダーに向けた。
最初から殺すつもりだったのだ。
今だ!
「お願い!」
アンが軍馬に向かって囁いたその瞬間。
「うあああああ!」
突然後ろ足で立ち上がった馬に、銃を構えるために手綱を離していた男は、たまらず背中から転がり落ちる。
ピストルを握った手が虚しく宙を掻き、アンの耳元で破裂音が響いた。
思わず力が入って引き金を引いてしまったのだろう、弾丸は薄い明方の空に向かって放たれたようだ。
発射の衝撃でアンの耳が一瞬つきんと痛み、同時に駆け出した馬から振り落とされて、アンも河原の藪の中に転がった。
「あいたっ!」
丈夫な茎を持つ藪の塊のおかげで地面に激突は避けられたが、それでもあちこちぶつけた上に、鋭い茎に引っかかれる。
「いたた……!」
なんとか立ちあがろうと、もがくアンの目の前を疾風が駆け抜けた。
「え?」
体を低くしたレイルダーが、転がった男に飛びかかっていく。悲鳴が上がって、黒いものが飛んでいった。男が持っていた拳銃だ。レイルダーが男の腕を蹴りあげたのだ。
続いて嫌な鈍い音が連続して続く。
「離してよ! もう!」
アンがからみつく薮を振り切って駆けつけた時、レイルダーは顔面が血だらけになった男を尚も殴りつけていた。
「この下衆野郎! 昔、俺がつけた傷を忘れたか!」
そう言って、レイルダーは男の頬にへばりついた髪をむしる。すると半分ほどちぎれた耳たぶが現れた。ぎざぎざになっているが、血が流れていないから今の傷ではないようだ。
「よう! 久しぶりに見たぞ! かっこいい耳だよなぁ、おい!」
「助けて! 助けてくれ! 殺さないでくれ!」
「そう言って命乞いをした人間を、お前が助けたことが一度でもあったか! お前たち一族はいつもそうだ。え! ラジム!」
「……え?」
アンはその名を聞いて呆然となった。
ラジムというのは、この戦をはじめた辺境公爵の名だ。彼は領地内の城に立てこもって、自軍を指揮しているのではなかったのか?
「お前の父親が俺たちを捨て駒にした! 俺の父も兄も、味方に見捨てられて死んだ! 俺はお前の一族を許さない。義のないものに勝利はない!」
ごきりと鈍い音がした。踏み潰された
「ぎゃああああ! 痛い! ゆ、許してくれ! 助けてくれ!」
ラジムは這いずり回って惨めに叫んだ。その胸ぐらをレイルダーが引きずり上げ、放り投げたかと思うと長い足が回転し、ものすごい蹴撃が男を再び地面に叩きつける。石にでもぶつけたのだろう、歯が何本か折れたようだ。
「嫌だね。たった今、お前は、俺にとって一番許せないことをした」
「ひいい! そ、それはなんだ!? 金ならやる! 馬車の座席の下に金塊が入っている! それをやるから!」
口からだらだらと唾液と血を流しながら、男は歯切れ悪く叫んだ。
「俺のアンが金などに変えられるか!」
「まだだ! こんなものでお前の罪は消えない」
レイルダーはずぶ濡れの長靴から細身のナイフを取り出した。
「両耳をお揃いにしてやる。なんなら耳を全部切り取ってみるか!」
「ひ……!」
冷えた目で見据えられ、血と涙と
「少尉さん!」
飛び出したアンは、レイルダーの腰にしがみついた。
「少尉さん、もうやめて!」
「アン! 下がっていろ!」
「嫌です!」
アンは今さっきレイルダーが言った言葉を繰り返した。
「その人はもうぼろぼろだわ! これ以上殴ったら死んでしまう!」
「死ねばいいのさ」
レイルダーが冷酷に笑った。
「こいつは戦況が不利と見て、仲間を見捨てて西北の国に逃げようとしていたんだ! まだ戦っている家臣もいるというのに、今も昔も卑怯な血筋なんだ!」
「それなら、その人達にこの人を罰してもらいましょう!」
「その上、アンにも手を出した! それだけでも万死に値する!」
泥のついた靴のつま先がラジムの掌を踏みつけた。再びどこかの骨が折れる音がする。
「ぐげえええ!」
カエルが踏み潰されたような声を発し、ラジムは気を失った。ズボンが濡れているのは失禁しているのだろう。
レイルダーはその胸ぐらをつかんで乱暴にゆすった。
「起きろ! このクソ野郎! 眠ったまま楽に殺してはやらんぞ!」
アンが大好きな美しい瞳は、オオカミのようにぎらつき、整った口元は憎悪に歪んでいる。
いつも眠そうで、熱のない話し方をする彼に、ここまで残酷な面があったのだ。
今の話から察するに、この二人には深い因縁があるようだったが、今はそんなことはどうでもいい。
この人を痛めつける以上に、少尉さん自身が傷ついてる!
こんな苦しそうなレイルダーを、アンはそれ以上見ていられなかった。
「少尉さん、レイルダー少尉さん! こっちむいて! 少尉さん! 私を見て!」
アンが絶叫する。
その声でやっとレイルダーは顔を上げた。
「……アン! 怪我は!?」
完全に沈黙したラジムを放ってアンの前にレイルダーが駆け寄り、外套の上からあちこち触って確かめる。
「私は平気です。どっちかといえば、私が馬に頼んで、その人を転がしたんです! だからもう……」
アンは、わっとレイルダーにしがみついた。
「怒らないで!」
血だらけの男の拳をひっつかんで胸の中に抱きしめる。
「これ以上少尉さんが手を汚すことはないわ! お願い、落ち着いてください! 私なんでもするから!」
涙がすごい勢いでぼろぼろ飛び出してくるが、構わなかった。意外にもアンは滅多に泣かないが、レイルダーを抑えられるなら、みっともなく泣くくらいなんでもない。
「……アン!」
「お願いです! 少尉さんに何かあれば、私生きてられない!」
それはアンの心からの叫びだった。
*****
さりげなくタイトル回収。
Twitterにアンの看護師スタイルのイメージがあります。
統一王国の王様は、一応王族で王宮もありますが、シンボルみたいなもんだと思ってください。
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