第25話24 もしかして私ピンチかも! 少尉さん


 三人が去ってから時間の経過は短かったのか、それとも長かったのか?

 月もない闇の中では判断がつかない。

 おそらく実際には十数分のことだったのだろう。

 じっとしていると、それだけで体が冷え切ってしまうようだ。

 アンが藪の中で少し体の位置をずらせた時。

 いきなり高台の向こうから、激しい戦闘の気配が夜を切り裂いた。


 ダーン!ダーン! タタタタタ!


 戦いがはじまったんだ!


 自動小銃の身を引き裂くような爆裂音の中に、きゅんきゅんと耳ざわりな音が闇を走る。合間に馬の、悲鳴のようないななきさえ聞こえた。

 アンは恐ろしさで藪の中で身をすくめた。

「ううう」

 初めて身近に恐怖を感じる。

 恐怖は死に最も近いものである。

 銃声は絶え間無く続いていた。自動小銃は殺傷能力の高い武器だ。当たりどころが悪ければ即死だし、腕や脚が吹き飛ばされることもある。

 人の声は聞こえないが、馬の悲しげな嗎は時々聞こえてくる。

 それは純粋な恐怖の感情だった。

 馬はもともと臆病な動物で、大きな音が非常に苦手だ。いくら訓練された軍馬とはいえ、この激しい銃声に全部が恐慌状態に陥っている。


 馬達、逃げて!

 あなたたちには関係ない戦争よ。お願い逃げて!


 しかし、馬車馬はくびきに繋がれているのか、逃げることもできないでいるらしい。アンに伝わるのは、ただただ怖いという原始的な感情だけだった。

 そのただ中にレイルダーはいるのだ。

 耳をふさいでしまいたかったが、そんなことをしては周囲の状況がわかりにくくなる。アンは歯を食いしばって恐怖に耐えた。

 しばらくすると、銃声が途切れることが増えてきた。そして再び聞こえた時には悲鳴のような声が混じる。人が傷ついているのだ。

 ここからでは叫び声が誰のものであるかわからない。


 もしも、もしも少尉さんだったら……!

 お願い! 助けて! みんな……無事でいて!


 祈ることしかできない、自分が悔しく情けない。自分が男だったら、彼を助けに行けるのだ。


『俺も入隊する』

 不意に同級生のヨアキムの言葉がよみがえった。

 彼はどうしているのだろうか?

 伯爵家の次男である彼は、一般兵士の募集に応じることは家から禁止されたと言う。それ以降の噂は聞いていないが、負けん気の強い彼のことだから、もしかしたらこの戦場のどこかにいるのかもしれない。

「……こんなこと馬鹿げてる。誰にも死んでほしくない」

 アンは強くそう思った。

 レイルダーはもちろん、ケインも、ヨアキムも、敵である兵士たちも死んでほしくなかった。


 どうして人は戦争などしてしまうのかしら?


「あ……」

 不意にアンは夜の底がうっすらと明るくなっていることに気がついた。遥か遠い空の下、水中から見上げるような淡い色が見える。

 冬の遅い夜明けが迫っているのだ。

 今日も、光の差さないどんよりとした天気になるだろう。しかし、夜が明けてしまえば夜襲は無意味なものになる。

 敵は何人いるのかわからないのだ。もしかして、思ったよりも多かったのかもしれない。暗いうちに仕留めきれなければ、不利になるのは三人しかいないレイルダーたちだ。

 気がつくと腰が浮いている。

「ダメよ! アン!」

 アンは様子を見に行きたい気持ちを必死で押さえ込んだ。


 私が出て行ったって、何にもならない。足手まといになるだけだ。


 出がけに渡された拳銃は、内ポケットに入っている。幸い今まで必要になったことはなかった。

 しかし、もし、レイルダー達が不利になっているのなら──。

 アンは震える手で拳銃を構えてみた。


 私に……人を撃てる?


「絶対に無理!」

 アンは重くて硬い無粋な塊を抱きしめ、焦る気持ちをやり過ごそうと体を丸めた。

「少しくらい、馬と交流できるくらいで、あんたなんかがなんの役に立つっていうの!? ここは我慢するのよ!」

 声に出して言い聞かせないと、焦燥に駆られて無闇に飛び出してしまいそうになる。

 どのくらいそうしていただろうか。

「……あれ?」

 いつの間にか銃声が完全に止んでいることにアンは気がついた。夜が明け切るには、まだ少し間があるが、もう闇の中ではない。

 アンは意を決して藪の中から顔を出した。そして初めて自分がいる国境地帯を見渡す。

「すごい……広い……」

 たいていの国境線は、大きな川や山脈を基にしている。しかしここは、ところどころにいじけた林がある、だだ広い荒野だった。

 川沿いに鉄道があるはずだが、もっと西寄りなのかもしれない。父から聞いた通り、ラジム公領の近くで軌条レールが破壊されているのだろう。耳を澄ませても一番列車が通る気配はない。


 戦争さえなければ、美しい場所だわ。

 荒地とはいえ、寒さに強い紫の花がそこらじゅうに咲いている。灌木の上には小鳥が止まっていた。

 アンは鞄からパンと水筒を出し、少し食べて飲んだ。昨夜から何も食べてなくて、今も緊張で空腹は感じなかったが、いざという時体力がなければ、なんにもならないということは知っている。

 不意に背中からかさこそと音がする。すっかり忘れていたが、伝書鳩を預かっていたのだった。

「お前も起きたね」

 アンは木箱の中の鳩にもパンを分けてやり、ついでに藪の外へもまいてやった。すぐに小鳥が集まってくる。

 

 今がこの子を放つ時なのかもしれない。

 きっとすぐに応援が来てくれる。


 アンは蓋を開け、伝書鳩を放った。

「頼むわね。気をつけて!」

 鳩は明け切らない空の下に飛び立っていく。灰色と菫色を混ぜたような雲に、ほんの少しある切れ目──味方のいる方角へと向かって。

 アンは思い切って藪から出ることにした。


 やっぱり、もう銃声はしないわ。馬達の気配もほとんどない。もしかしたら死んでしまったのかもしれないけれど……今は確かめられない。

 戦闘はもう終わったのかしら?


 隠れていた灌木は冬でも葉を落とさない種類だが、アンがごそごそしたせいで、身体中に乾いた葉っぱがくっついている。

 静かだった。風もいつの間にいでいる。

 小鳥達が完全に目を覚ましてちらほら鳴き始め、一層静寂を際立たせた。

 再び恐怖が込み上げる。あまりにも静かすぎるのだ。


 まさか……まさか!


 アンは駆け出しかけて止まった。獣道は高台の縁を回り込んでいて、見通しは悪い。

 昨夜見つけたわだちは思ったよりも深く、泥の中に食い込んでいた。

「そうだ、少尉さん達は上に登ったはず」

 平地より危険が少ないかもしれないと思ったアンは、石塊いしくれだらけの斜面を登り始めた。斜面はもろもろと崩れやすく、アンは何度も足を滑らせた。よくも兵士たちは闇の中を駆け上がれたものだと思う。

 ようやく三メートルほど登った時、道の向こう側から何かが猛烈な勢いでやってくる気配があった。


 馬だ! もしかしたら少尉さんの!?


 アンは慌ててやっと登った斜面を滑り降りる。そこに馬の首に身を伏せた男がすごい勢いで通りかかった。

「きゃっ!」

 アンは勢いよく尻もちをついたが、男も馬を急停止させた。

 それは立派な服装の痩せた男だった。帽子はなく、この寒いのに髪がべったりと額に張り付いている。

「なんだお前は!」

「あなたこそ誰ですか!? 私はこの近くの農夫です」

 アンは万が一見つかった時のために用意しておいた嘘をついた。声変わりのしていない少年のふりで通すことにしたのだ。

「農夫? まぁいい。おい、お前! こっちに来い」

「え? 嫌です」

 アンの直感は危険を告げている。

 それに、こんな偉そうな男の言いなりになるつもりはなかった。アンはじりじりと後ろに下がりながら男の乗る馬の目を見た。


 お願い。動かないで。できたら下がって!


「くそ! 言うことを聞け!」

 男は立ち止まったままの馬の腹を蹴ったが、馬はアンを見つめたまま動かない。

「これでも、来ないか!」

 男は持っていた拳銃をアンに向けた。

 この男からは非常な焦りの色が見えた。目は血走り、口の端には泡が張り付いている。


 あ、これはまずい。


 そう思ったアンは、ゆっくりと後退あとじさる。

「これは都合がいい。お前に盾になってもらおう」

「たて?」

「人質だ。あいつらは民間人を殺そうとは思わないらしいからな。そら!」

「え?」

 あっという間に、アンは乱暴に間合いを詰めた男に馬上に引っ張り上げられ、銃口を突きつけられる。

「ここは目立つな。川岸の方が安全だ」

 男はそう言って、馬を操って道から土手を下る。河岸は広いが、あちこちに丈の高い草が生えているため目隠しになるのだ。


 なにか、聞こえる……馬の気配だ!


 アンが耳を澄ますと、下りてきた道の方からひづめの音が近づいてきた。馬はひどく急かされているな、と思った瞬間、黒い影が目の前を横切る。馬が土手を飛び降りたのだ。

「うわぁ!」

 男は悲鳴を上げたが、さらに強くアンの腰を引っ張って自分の盾にした。

「おい貴様! それ以上近づくな! この小僧の頭を吹っ飛ばすぞ!」

 驚くアンの前に現れたのは、悪魔のように美しい男だった。



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