第24話23 どうかご無事で! 少尉さん

 ざざざ!

 不気味な音がする。

 何かが、いや何者かが、高いところか滑り降りてきたのだ。

 灌木の枝が音をたてて折れ、木の葉とともにアン達に降り注ぐ。

「うわ!」

「なんだ!?」

 素早く臨戦体制に入ったケインたちだが、弱い明かりの光にも美しく輝く金髪の長身の男を見とめて、すぐに銃を下ろした。

 アンは見た。見つめた。

 目を離すことができずに、その男を。

 一年ぶりに見た彼の姿は、あいかわらず夜目にも美しい。

 しかし、頬の肉がげ、顎がやや鋭くなり、明るい瞳だけがぎらぎらと光っている。まるで飢えた猛獣のように。

 戦火は彼の野生を引き出してしまったのか。

「レイルダー!」

「よかった! 合流できた! 探したぞ!」

 しかし、レイルダーは援軍たる朋輩ほうばいの方など、見向きもしないで、後ろで縮こまっているアンの前に立ちはだかった。

「なんで来た、アン」

 初めて聞く氷のような声音にアンは震え上がった。病院で初めて血を見て失神した時以上に恐ろしい。

 なのに目が離せないし動けない。

 これではまるで、獅子に喰われる寸前のうさぎだ。

「……わ、私は」

「帰れ。今すぐ帰るんだ。ケイン、アンを連れて行け。手筈は整っているはずだな」

「……あ、ああ。無論だ」

 ケインはレイルダーの迫力に押されながらうなずいた。

「アンお嬢さん。レイルダーとも合流できたし、あなたの役目は終わりです。私と一緒に……」

「この近くに馬が六頭います。すぐ向こうです!」

 アンは急いで言い放った。

「……やめろ、アン」

 レイルダーが低く遮ったがアンは続けた。

「七十二号が伝えてくれます。動かないみたいだけど、仲間がいるって。それにみんな怖がっているって」

 みんなというのは馬たちのことだ。鼻面を寄せてくる七十二号にアンはうなずき、ケインは眉をひそめた。

「本当か? レイルダー、お前も見たのか?」

「そうだ」

 レイルダーは、飛び降りた時に吹っ飛ばされた帽子を被り直しながら言った。

「この高台の向こうで馬車が立ち往生している。ご大層な馬車で無理に獣道けものみちを通り抜けようとして、深い溝にはまって車軸が破損したらしい。馬車の中に三人、御者が一人、そして護衛が四人いる」

「なんと! それは絶好の機会じゃないか! ぐずぐずしてたら、のがしてしまう!」

「だから、俺が上から襲撃をかけようとしていたんだ。そこにアンがやってきた」

 レイルダーはお前たちとは言わずに、アンがと言った。よほど腹に据えかねたのだろう。

「しかし、いくら夜目が聞くお前でも、さすがに八人を一度には倒せないぞ。向こうは機銃も持っているだろうし、奇襲をかけるにしても、最低でもあと二人いる。だが……」

 ケインがアンを見る。アンはその意味をすぐに悟った。

「私は藪の中に隠れています! お邪魔はしません。少尉さんたちは任務を果たしてください!」

「ダメだ。周囲に敵がいないとは限らない。今すぐケインと共に川を渡れ。船はどこかに停泊しているはずだな。向こうは合図を持っているだろう」

「嫌です。私だって軍人の娘です。覚悟がないなら、はじめから見習い看護師になどなりません」

「アン、頼む……ここから離脱してくれ。でないと俺は閣下に顔向けができない」

 レイルダーはアンの肩に手を置いた。

「少尉さんは父に負い目などないわ。そんな心配は無用です!」

 アンは彼の手を振り払った。

 今までこんなことはしたことがない。しかし父のために、自分の無事を案じて欲しくはなかった。

 レイルダーの顔が初めてゆがむ。

「……違う。嘘だ。アン……アン!」

「え?」

 振り払ったはずの手がいつの間にか背中に回されている。

「本当は俺が怖いんだ」

 レイルダーはアンを抱きしめて言った。分厚い外套越しに彼の温もりと震えが伝わる。


 ──ああ。

 きっと今夜も魔法の夜なんだわ。


 月も見えない戦場の荒野で、アンは確信した。


 私は、何度少尉さんの初めてをここで見るのかしら?


 アンは一瞬だけ、自分の短い腕でレイルダーを抱きしめると、そっと抱擁を解き、努めて事務的に言った。

「私は大丈夫です! 自信があります!」

「……アン?」

「レイルダー少尉、あなたも軍人でしょう。任務が最優先です! さ、時間がありません!」

 そういうと、アンは自分から斜面に茂った固い灌木の茂みに飛び込んだ。

 外套は黒いし、冬でも葉のよく茂る灌木なので、小さな灯りくらいでは見分けがつかないだろう。

「早く行ってください!」 

 アンは藪の中から叫んだ。

「レイルダー、お嬢さんを信用しよう」

 ケインはレイルダーの肩を叩いた。

「なるべくなら、お馬さんは傷つけないでくださいね」

 藪の中から聞こえる声にレイルダーはしばらく黙っていたが、ついに決意したように、顔を上げた。

「アン、そこから絶対に出るなよ。たとえ、俺たちが戻らなくても、朝までそこにいるんだ。鳩は持っているな……よし! 馬は放す。朝になったら絶対に迎えがくる……頼むからこれ以上、俺の心臓を追い詰めないでくれ」

「はい。どうかお気をつけて! ご武運を!」

 どうしてここに心臓の話が出てくるのだろう、と考えながらアンはとりあえず藪の中から返事をした。

 それ以上は答えず、三人の男たちは斜面を登り始める。

 奇襲に有利な高台から攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。


 多分、馬車の修理で明かりを灯しているだろうから、標的にしやすいのね。


 父が話してくれた、レイルダーの優れた感覚がどんなものか、アンはわからない。しかし、先ほど「夜目が利く」とマルクが言っていたので、その能力は兵士たちにも評価されているのだろう。

 戦争が綺麗事ではないことを、アンはもう知っている。けれど、絶対によくないものであることは確かなのだ。

 野心家で王という存在になりたいラジム公爵は、戦争の劣勢を知って、西北の国に支援を求める使者を出した。ラジム領には資源の鉱脈があると噂されている。西北の国がそれに応じたら、戦争はもっと長引くことになるだろう。

 レイルダー達はそれを阻止する任務に命を賭けている。

 小さな戦闘でも人は簡単に傷つく。もしかしたら、いや、高い確率で死者が出るだろう。


 ああ、神様おねがいです!

 どうか、人も馬も死にませんように。

 そしてレイルダー少尉さんが、無事でありますように!

 もし、少尉さんが無事に帰ってきたら、私はこの恋をあきらめてもいいです!

 というか、諦めます! 忘れます!

 どうか! どうか!

 あの、綺麗な横顔をもう一度私に見せて!


 アンは目をつぶって強く祈った。

 夜はまだまだ深い。

 どのくらいの時間が経ったろうか? あまり遠くない高台の向こうから、いくつもの銃声が響いてきた。

 戦闘が始まったのだ。



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