第20話19 お父さまの話とは…? 少尉さん

 朝早く町の病院を出たが、前線近くの野戦病院に着いたのは昼前だった。

 冬の弱い太陽がわびしく戦場を照らしている。

「お父さま!」

 防水テントの下にはマットすらない。それが前線の医療施設だ。ゴムのシートに横たわった多くの兵士たちがうめき声を上げていた。

 すっかり慣れた消毒液と血の匂い。

 この奥が父の部屋である。部屋と言えるかどうか。かろうじて壁と天井だけああるだけの建屋である。それでもここでは最上の待遇と言えた。

 剥き出しの湿った土にじかに置かれた、簡易ベッドの上に横たわっているのは父だった。

 さすがにシートの上には寝かされてはいないが、下は地べただから湿気は登ってくるだろう。頭には包帯が幾重にも巻かれている。

 頑丈だけが取り柄なのさ、と豪快に笑っていたフリューゲルが、土気色の顔色で力なく呼吸する姿に、アンは思わず粗末なベッドの側に走り込んだ。

「お父さま……お父さま……アンが参りました! お具合はどうですか?」

 だが、返事はない。眠っているようだ。

「あんたがお嬢さんかね? 私は軍医のサムエルだ」

「サムエルさま? 私は娘のアンシェリーと申します。」

「敬称略でね、アン。父上には砲弾の破片が当たったんだよ。鉄兜がなかったら即死だった。ただ、衝撃が大きかったようで、しばらく意識がなく、今朝方少し目を覚まして少しだけ話ができたんだが、十分ほどでまた眠ってしまった。だが、眼球や手足の指先の動きには異常はないし、吐き気もないので、頭蓋内ずがいないの出血はないと思われる。重めの脳震盪のうしんとうだろう」

 父とそう変わらない白髪の軍医が明快に説明する。そのてきぱきした言い方にアンはかえって励まされた。

「意識が戻っても、すぐには動かせない。しばらくは要観察だ。だが、後方に下がっても指揮は取れる。この男なら」

「サムエル先生は、お父さまをよくご存知なのですか?」

「ああ。若い頃は一緒に戦った。今は別の立場だが、やっぱり一緒に戦っておる」

 その時、一際大きな破裂音がして、直後に地響きが伝わってきた。テントの支柱がぶるぶると揺れ、思わずアンは父の体に覆いかぶさった。

「砲撃だ。近頃はあまりないが、たまに川を超えて来よる」

「……は、はい」

「心配せんでもええ。ここまでは届かん。我が軍は優位に立っておるよ。見習い看護婦に志願したとな? この男と同じく勇気ある行動だよ。父上をよろしくな、アン」

「……う」

 その時、フリューゲルのまぶたが動いて、うっすらと目が開いた。

「お父さま! アンです! お気を確かに!」

「おお……アン……アンか?」

「はい!」

「なんで来た……ここは危険だ……すぐに後方に帰りなさい」

「いいえ! アンはお父さまが後方に下がられるまで、お側にいます!」

 フリューゲルは苦しそうに深い吐息をついた。サムエルが眼窩がんかにペン型のライトを当てる。

「ふむ、異常なしだ。気分はどうだ? 頭痛はせんか?」

「ああ、藪医者か……頭痛はするな」

「そうだろう。しばらく動かない方がいい」

「戦況は?」

「今朝はまだマシかの。こっちまで届いは砲弾は二発だけ。川向こうからの報告では、昨夜から進んだ距離は五十メートルほどだ。まぁ成果と言えるじゃろう」

「……犠牲は?」

「この戦区じゃ怪我人を含めて三十人ばかり。まぁ、お嬢さんが持ってきくれた医薬品のおかげでなんとかなる」

「そうか……」

 そう言って、フリューゲルは再び目を閉じた。

「飲める時に薬を飲んでおけ。少しは楽になる」

「私がいたします」

 アンは医師から吸い飲みを受け取り、父の乾いた唇に流し込んだ。フリューゲルは顔をしかめながらも全部飲み下す。苦いのだろう。

「ではアン、この男を頼むよ。我が軍に必要な男だでな。私は他の怪我人を診ねばならん」

「お任せください」

「後で、寝具を届けさせましょう。何かあれば、テントの外に警備兵がいますから、お申し付けください」

 ケインもそう言って、父のテントを後にし、アンはただ一つだけある椅子に腰を下ろす。

 薄暗いテントの中はしばし静かになった。

 しかし、耳を澄ますと、周囲テントから重傷者のうめき声が漏れ聞こえる。時々、悲鳴のような声が上がるのは、少ない麻酔で傷口を縫合しているからだろうか?


 少尉さん……どうかご無事で……。


 そのままアンは眠ってしまったらしい。

 気がつくと、父がアンを見つめていた。先ほどより目に力が宿っているように見える。

「アン……」

「はっ、はい!」

 眠っていると思った父に名を呼ばれ、アンははっと我にかえった。

「すみません、うっかり寝てしまって……今何時ですか? いえ、いいんです」

 つい習慣で言ってしまってから、父にもわからないだろうと自分の時計を見る。六時を過ぎた頃合いだった。

「すまない……結局お前をこんなところにまで、呼び寄せてしまう結果となって……」

「いいえ。私は来るべくして来たんです。お父様のことがなくても、いつかはきたんだと思います」

「……」

「そんな顔をなさらないで。私は見習いでも看護師です。そしてお父様の娘です。ここでできる限りのことはします!」

「そうか……さすがは私の娘だ……アン」

「はい」

「ひとつ、確かめたいんだが」

「なんですか?」

「お前の、あの……能力は衰えてはいないか?」

「え?」

 父はアンの馬と交流できる、能力とも言えない妙な力のことを言っているのだろうか?

 乗馬を始めた頃、アンがあまりにも早く馬を乗りこなすのを見た父が驚き、アンはしどろもどろに説明した記憶。そして誰にも言うなと言われた、あの力のことを。

「は……はい。近頃は乗馬どころではありませんが、馬の心……というのでしょうか、感じていることや気配はわかります」

「そうか……ではやはりこれは、運命か?」

 フリューゲルは苦しそうに呟いた。体の苦痛よりも心の苦痛に苦しんでいる様子だ。

「お父さま? なにをおっしゃって……」

「アン……今まで言わずにすめばと思ってきたんだが」

 フュルーゲルは大儀たいぎそうに太い息をついた。

「ひょっとして、以前おっしゃった私に流れる血、と言うことでしょうか?」

 父の出生前に聞いたこの言葉を、アンはよく覚えていた。それは血縁と言う以外の意味があるように思ったのだ。

「そうだ。私たちには古くは秘色ひしょくの民と言われた人々の血が流れている……私にも、カーマインにも、そしてレイルダーも」

「秘色の民」

 初めて聞く言葉だった。

「お父さまやお母さまが?」

「そうだ。そしてお前にも、半分秘色の血が受け継がれている。その血の話をしておこう」

「……血の、話を」

 そうして父は語り始めた。


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