第19話18 ここまで来ました! 少尉さん

 その日は、特に多くの負傷者が前線から搬送されてきた。

 比較的軽傷の兵士は病棟内に収容しきれないので、廊下に寝かせたり、病院の中庭に常に張ってあるテントに毛布を敷いて、そこに寝かせている。軽症と言っても、砲弾の破片が食い込んだり、ひどい火傷の者が多い。

 アンが兵士たちのつぶやきから聞き取ったところによると、二日前に激戦が繰り広げられたようだった。

 それも、川向こうで。


 でも、川にかかる橋は破壊されて、ラジム領へ渡れないんじゃなかったの?


 しかし、苦しむ兵士たちに自分から尋ねるわけにもいかず、アンは情報が回ってくるのをじっと待っていた。

 そこに新たな負傷者が運ばれてくる。

「そこに寝かせて!」

「はい! 傷口を洗って消毒します!」

 アンは仲間の看護師と二人がかりで、頬に大きな裂傷を負った兵士の傷口にやかんでそろそろと水をかけた。顔中泥まみれで、泥と血とリンパ液の混じったどろどろの液体が若い兵士の顔を濡らす。

「うううっ!」

「よかった! 目は大丈夫です」

 ぱっくり割れた傷口から白い骨が見えている。きっとものすごく痛いはずだが兵士は唇を噛み締めて耐えていた。

「痛かったら、叫んでいいんですよ」

 アンは消毒薬を染み込ませた清浄綿をそっとあてがう。染みるのか、兵士の顔がひどく歪んだ。

「ううううっ! 痛い! た、助けて!」

「もちろんです! このまま包帯で傷口を抑えます。お医者様の手が空いたらすぐに縫合しますから、待っててください。これ、鎮痛剤です」

「あ……りがとう」

 若い兵士はうっすらと目を開けて言った。よく見るとこの青年は金髪で、青翠の目をしていた。レイルダーとは全然似ていないが、色はよく似ている。

 不意にアンは、ぞっと身をすくませた。


 もしかして少尉さんもお怪我をして、戦場のどこかで倒れていたら……。


「アン、大丈夫?」

 向いの同僚が声をかけた。しばらくぼんやりしていたようだ。

「顔が真っ青よ。少し休む?」

「いいえ。大丈夫」

 アンは大きく首を振る。それは自分の想像に対する否定だった。


 その夜、アンは看護師長に呼び出された。

 部屋に入ると、この病院の院長、そして意外なことに、近衛のケイン中尉も立っている。

「ケイン様! ご無事でよかった!」

「アンお嬢さん、本当に看護師として働いていたんですね……聞いてはいましたが、驚きました」

「本試験を受ける機会がなくて、まだ見習いですが……あのぅ、何かあったのですか?」

「……」

 アンは話しながら、ケインの顔色が曇っていることに気がついた。

「アンお嬢さん、落ち着いて聞いてください」

 そう言われるということは、落ち着いて聞けない話があるということだ。一気に不安が押し寄せる。

 しかし、アンはぐっとこらえた。

「……はい」

「お父上が負傷されました」

「ふ、負傷!」

 急に足元の床が崩れ落ちる錯覚がアンに襲いかかる。おそらく蒼白になったのだろう、アンを見てケインが駆け寄った。

「お嬢さん! ご安心ください、命に別状はありません。ただ、砲撃の衝撃で頭部に傷を負われて今朝まで意識がなく、しばらく動かせない状態なのです」

「あ……あたまを」

「はい。うわ言で、奥様とお嬢様の名前を何度かお呼びになられていました。今朝方やっと目を覚まされたのですが、まだ意識が混濁されていて」

「……」

「はっきりと意識が戻れば、大丈夫だと軍医は言っております。ですが……万一のことがあるので、私はその事をお伝えに参りました。父上からお嬢さんがこちらで看護師見習いをしていることは伺っておりましたので」

「あの! ケイン様!」

 アンの決断は早かった。

「私を前線の病院まで連れて行っていただけないでしょうか?」

「……」

「お邪魔にはなりません! ぜひお願いしたいのです」

 ケインはしばらく黙っていたが、やがてほんの少し笑って言った。

「……アンお嬢さんなら、そう言われるだろうと思っておりました」

「では!」

「まずは状況を説明いたします。その上でご判断ください。現在、戦況はゆっくりではありますが、徐々に回復しているのです。つまり我が方の攻勢が、効果を出し始めています」

「というと?」

 尋ねたのは院長だ。

「ここ数日、砲撃の音が少なくなったとは思っていましたが」

「はい。破壊された橋の代わりに、軍用運搬船が開発されたのです。これで兵や武器、馬。それに一台であれば車両も対岸まで運べます。それで我々はラジム領に取り付くことに成功しました」

「軍用船、ですか」

「まだ数は少ないのですが、そのうちもっと届くでしょう。前線の兵站へいたんは大幅に改善されています」

「……では、ラジム領内での戦闘が始まっているのですね」

「そうです。我々は進撃しています。そのうちここまで届く砲弾はなくなるでしょう。フリューゲル閣下も最前線で指揮を取るため、ラジム領まで渡られたのです」

「では、父は対岸で負傷したのですか? まだ向こうにいるのですか?」

「いえ、閣下はこちら側に御運びしました」

 アンはほっと緊張していた肩を下げた。

「しかし、川向こうは激戦に継ぐ激戦なのでしょうね」

 院長が重々しくつぶやく。

「そうです。敵も必死なのです。もう後がないので」

「……事情はわかりました。私、参ります!」

「ありがとうございます! 閣下もお嬢さんに来ていただけると、ご回復が早いと思われます。後で私は閣下に大目玉を喰らうでしょうが、そんなものは平気です」

「お父さまは、私の思う通りにせよとおっしゃいました!」

「さすがはフリューゲル閣下です。あの方は私情を一切挟まずに戦っていらっしゃる。今は他の将官で指揮をとっておりますが、やはり閣下の存在は大きいので、我々にも少なからぬ動揺があり……お嬢さんが来てくださると助かるのです。ただ……」

 ケインは語尾を濁した。

「まだまだ危険があるのでしょう?」

「……その通りです。野戦病院は、前線から少し離れた場所にあるとはいえ、ここよりはよほど河岸、つまりラジム領に近い。危険は常にあります。いえ、我が方もできるだけ警戒はいたしますが」

「はい」

「それに、お嬢さんには辛い光景もあるかもしれません」

 前線の病院はこことは違い、もっと生々しい光景が広がっているだろう。それは容易に想像できた。

「それでも来てくださいますか?」

「行きます。すぐに準備を整えますので」

 アンはケインを見つめた。彼はかなりやつれていたが、それでも少し頬を赤らめたようだった。


 明くる朝。

 アンはケインや、応援の医師や看護師と共に軍用トラックに乗って、前線へと向かっていた。

「昨夜は眠れましたか?」

「さすがに、あまり……」

 アンは毛糸の帽子の下で首をすくめた。豊かだった巻き毛は肩くらいまで短くしている。首都にいた頃のように毎日髪を洗ったりできないからだ。

「ですが、アンお嬢さん、たくましくなられましたね。見違えるようだ」

「そりゃあ……少しは。ここにきてもう半年以上経ちますし」

「レイルダーが見たら、さぞや驚くでしょう」

 その名はアンがずっと聞きたかったものだった。

 いつ尋ねようかと逡巡しゅんじゅんしていたのだが、ケインが言わないのなら無事なのだと、無理やり自分を納得させてきたのだ。

「あの……レイルダー少尉さんは、ご無事なのですか!?」

「無事と言えば無事なのですが、今、彼は敵地深くに潜入中です」

「潜入……敵地に?」

 アンの胃がおかしな動きをはじめた。手足が急速に冷えていく。

「ラジム側はひどく焦っているのです。西の隣国からの支援をあてにし過ぎていたようですが、その国でも民衆が蜂起して、我が国の内乱に首を突っ込むどころではなくなってきているのです」

「……」

「そこでラジムは、物資の補給を西北の国に依頼しようと、密かに使節団を送りました。レイルダーはそれを追っているのです」

「では少尉さんは……?」

「はい。今頃はもしかしたら、西北の国との国境近くにいるかもしれません」

「そう……なのですか」

 レイルダーがとりあえずは無事らしいと知って、アンはほっと肩を落とした。


 よかった……少尉さんならきっと大丈夫。大丈夫よ、アン。


「ああ、見えてきました。あれが野戦病院です」

 アンが顔を上げると、低く曇った空の下にうずくまる灰色の建屋が見えた。そのずっと向こうに川が流れている。

 現在の統一王国軍は渡河とかに成功し、ラジム公領で交戦しているはずだが、向こう岸は霧にけぶって見えない。

 時々、お腹に響くような砲声が聞こえるのがとても不気味だった。


 あの川を渡った北にレイルダー少尉さんがいる……。


 アンは灰色の空の下をゆくトラックの上で背を伸ばした。


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