第18話17 追いかけていきます! 少尉さん

 戦争が始まって一年後。


 研修期間を終えたアンは、見習い看護師として前線を三十キロ先に控える、大きな町の軍病院にいた。

 戦いが始まって二回目の冬を迎え、内戦はこう着状態にある。

 ラジム側は予想以上にしぶとく、戦線を維持していた。

 領土を分つ川に残された橋の上では激戦が繰り広げられ、橋脚は崩れてしまったが、さすがにラジム辺境公爵は覚悟の上だったようで、戦線各所で激戦を繰り広げている。

 ──戦争が長引けば当然、負傷者も増える。

 犠牲者は病院には運ばれず、特殊ルートで首都まで移送される。

 助からないと判断された重症者は、最前線に設置された野戦病院で、痛みを感じなくする処置をして眠るように逝かせる。

 だから、アンのいる病院に運ばれてくるものは、助けなければいけない負傷者ばかりだった。

「アン、あなたは今日はもう、休みなさい。朝からずっとここにいるでしょ?」

 フロアの看護師長が、足に裂傷れっしょうを負った兵士の包帯を替えているアンの背中に言った。

「わかりました。この方の包帯を巻き終わったら宿泊棟に戻ります」

「そうしてちょうだい。あと必ず食事もとるのよ。明日は六時に」

 師長はアンの顔も見ずに言い捨て、次の部屋へと向かう。

 彼女もほとんど朝から休みをとっていないはずだが、経験の浅いアンを常に気遣ってくれるのだ。

「強めのお薬を飲んだからすぐに痛みが和らぎ、よく眠れると思います。何かあったら、すぐに近くの看護師を呼んでくださいね」

 アンは傷ついた兵士に声をかけて、病棟を出た。すでに星がまたたき始めている。


 確かにお腹すいたわね……。


 雪の降らないこの地方は、風だけが無情に冷たい。

 アンはコートの襟を立てて病院の中庭を歩きながら、一日中怪我人の手当てをして、それでもお腹が空くというのは、自分が少し強くなったあかしだと思った。

 半年前、ここに来た初日は大量の血を見て気を失ったし、三日くらいはほとんど水しか口にできなかった。無理に食べてもすぐに戻してしまったからだ。

 傷ついた人間の体は想像していたよりも、ずっと悲惨で恐ろしいものだった。比較的軽症者が運ばれるこの病棟といえどもだ。

 しかしそれはアンだけでなく、見習いの看護師の全員が同じ状態で、ベテランの看護師も慣れているのか、何も言わなかった。どれだけ知識を詰め込んでいても、現場に耐えられなければ続けられない。

 経験値の足りないアン達に支援があったのは、たった一ヶ月間。

 それも職業看護師よりも勤務時間が短かったくらいの僅かな配慮だ。その間に血にも、うめき声にも慣れることができなければ、辞めるしかない。

 実際、傷病兵と同じくらい真っ青な顔をして、数人が病院を去った。

 アンがそうしなかったのは、ひとえにレイルダーと父を案じてのことだった。

 彼らはこの街から遠く離れた前線に近い基地にいる。アンの父は司令官だから、最前線の塹壕ざんごうが広がる河川付近に出ることはないと信じたいが、それでも戦場では安全など補償されない。

 しかし、何かあれば伝わると思う──というか、人望厚い司令官に何かあれば、この戦いは士気が崩れ、前戦が一気に後退する可能性もある──なので、今のところは大丈夫だとアンは思うようにしていた。

 宿泊棟には簡易食堂があり、パンとスープが常時用意されている。運のいいことにスープは作りたてで、まだ湯気が立ち上っていた。


 美味しい! いくらでも食べられる!


 暖房設備がないので、熱いスープはありがたかった。朝食を食べたきりだったので、カチカチのパンを浸して食べる。

 今日もたくさんの怪我人の手当てをし、何人かは亡くなってしまった。

 若い兵隊は涙を流して「お母さん」と呼ぶ。アンは自分よりも年上の負傷兵の手をとって幾度も母の代わりをした。母にも姉にも、時には恋人にもなった。

 傷が癒えても、手足を失って退役してしまうものもいる。しかし、そうでないものは再び戦場へと戻っていくのだ。

 彼らを見送ることにも慣れた。アンは自分が意外に強いと言うことを知った。


 お父さまは「血」とおっしゃってたわね。

 それがどういうものなのか、詳しく尋ねる暇もなかったけれど……。


 アンは最後のパンを飲み下した。

 歯を磨くゆとりはないので、うがいをして顔だけを洗った。お腹が満たされるとすぐに眠くなる。

 二階の共同寝室には二十脚の簡易ベッドが並んでいて、そのうち半分は疲れ切った見習い看護師達で埋まっている。ちゃんとしたベッドは全て、病棟の方に供出しているのだ。

 アンは一日の仕事で汚れた上衣を脱ぐと、すぐに自分のベッドに疲れ切った体を横たえる。

 つい一年前まで、たっぷり湯の張られた風呂で体を清めてから眠っていたのが嘘のようだった。


 明日もきっとたくさんの負傷者がここに送られてくるんだわ。


 まぶたの奥に思い浮かべるのは、澄んだ翠色の瞳と王冠のような髪を持つあの人のことだった。もう一年会えていない。


 どうか、お父さまと少尉さんが無事でありますように……。


 祈りの言葉を最後まで唱えることもできずに、アンは眠りに落ちていった。


  

   *****



私は戦争の記録を読むことをライフワークにしています。

なので、丸きり想像で書いているわけでもないのですが、あまり恐ろしい表現は控えています。


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