第17話16 学校やめます! 少尉さん
フリューゲルは再び戦場へと旅立って行った。
近衛の副隊長の役職は解かれ、四万の軍を率いる西方守備軍司令官として。
そこにはケイン中尉など、近衛から引き抜いた若い将校たちも混ざっている。
無論、レイルダーも側近として、フリューゲルのそばに付き従っていた。
出立の間際、ひとり母の病室を
「話はカーマインから聞いているよ、アン。いくら前線から離れた大きな病院とはいえ、私は正直、お前に危険なことはしてほしくはない」
戦場を知り尽くしたフリューゲルの言葉は重い。
「しかし、我らに流れる血は、止めても止めきれないことも知っている。アン、信じる道を進みなさい。私も覚悟を決めた」
ラジム公領土はかつての内戦で大きく縮小し、現在の他領との境目は、西から流れる中規模の川である。
この川の存在で国境がはっきりしたのはよいが、主だった橋が修復されていないので、ラジム領の奥深くでの事情が伝わりづらくなったことも事実だった。
そして戦が始まる。
最初は川を挟んだ砲撃戦だった。
ラジム側は西の隣国からの支援を受けて、密かに蓄えた弾薬を惜しげもなく王国側に撃ち込んだ。それは突貫工事で掘った王国側の
首都もざわざわと落ち着かない。
「アン!」
その日、アンが学校を出た途端、声をかけてきたのはヨアキムだった。
「お前、学校をやめるって本当か!?」
「え? やめないわよ。とりあえず休学するだけ」
「馬鹿言え! それはやめるのと同じことだ! 後ちょっとで卒業なのに!」
「そうね。でも今しかできないことをしたいの」
「なんだよ、それは」
「看護師見習いとして、軍の病院に勤めるの」
「なんだってぇ!?」
ヨアキムは子どもの頃のように大声を上げた。彼も、すっかり背が伸び、下級生の女生徒から人気のある若者に成長している。
「俺は聞いてないぞ!」
「そりゃそうよ。だって言ってないもん。ソフィとローリエには昨日言ったけど、泣かれた」
「泣くわ! そんなもん! アン、嘘だと言ってくれ!」
その声は、もはや悲痛な色を帯びている。
「言わない。嘘じゃないから。けど、看護の勉強していることは二人には言ってたんだけど、こんなに急に戦争が始まるとは、私も思ってなかった。でも、彼女たちはさすがに商人の娘よ。ローリエは家で薬学を学んでいて、いつか病院で働きたいんですって」
「……」
「それにソフィの家は、シーツや包帯などを軍に提供しているわ。だから、二人とも理解してくれた。自分達にも何かできないかって考えてくれてる」
アンはよどみなく答えた。
「本気なのか? アン」
「冗談で休学なんてしないわよ」
「……俺は、またお前に負けるのか?」
ヨアキムの悲壮な声に、アンは首を傾げる。
「ええ? なんで勝ち負けの話になってるの?」
「俺は昔の競争でお前に負けて以来、乗馬も、勉強も必死でやってきたんだ!」
「知ってるわ。だっていつも学年首位だもん。あなたはすごく立派だと思う」
「なんのためだと思ってるんだ!」
怒鳴られても、アンの疑問符は増えるばかりだ。
「自分のため、お家のためでしょう?」
「お前に好かれたいからだ!」
「……え? えっと……ごめんなさい。言ってることの意味がわからないわ」
「お前が好きだと言ってんだよ!」
「は……? ええっ!?」
飴色の目が最大限に大きくなる。
「あなたが私を好き……好き!?」
「馬鹿野郎! 復唱するな! 不細工! 学校中で気がついてないのはお前くらいのもんだぞ! この鈍感女!」
「不細工!? 鈍感!?」
「だから復唱するなって言ってるだろ! ごめんて!」
「だってそれ、悪口だわ」
「ああそうだ! でもわかれよ! 俺はお前が好きなんだ!」
「……でも下級生の頃から意地悪された記憶しかない。あと大きな声で叫ばないでよ、恥ずかしい」
「それも全部謝る! あの頃は子どもだったんだよ。でも、いじめても平気で俺を無視するお前が好きだったんだ! くそ! 何度も言わすなよ!」
「わ、わかった。でも今それ言われても……私だって、ずっと前に決めてたの。いつか誰かの役に立ちたいって……そう、初めて参加したパーティの夜から」
「あの色男の役に立ちたいんだろ? はっきり言えよ! わかってんだよ!」
「そうです!」
アンはヤケクソで怒鳴った。
「私はレイルダー少尉さんの役に立ちたいんです!」
「くそ、あの万年少尉が!」
「なんですってぇ!?」
アンの赤いくせっ毛がめらめらと逆立つ。小さいくせに結構な迫力だ。
「わ、悪かったよ。本気で怒るな!」
「怒るわよ!」
「だけど俺、もうずっとお前を守ってきたんだぜ」
「は? いったいなんの話?」
アンは心から不思議そうに首を傾げた。
「あの夜、秋のパーティの日な。お前が靴ずれで弱ってた時さ」
「嫌なこと言うわね」
あの日はアンにとって、特別な夜だったのだ。
ダンス、情けない靴ずれ、星空、やっと渡せたハンカチ、そして最後の言葉も、全てアンにとっては特別な夜だった。
それをヨアキムに
「あの時、俺あいつに言われたんだよ」
「え?」
そう言えば……とアンは思い出した。あの夜、自分を車に乗せてから二人は少し話をしていたような気がする。
「本当に好きなら守れって。それから、学生の間は絶対に手を出すなって。だから俺は、お前にちょっかいをかけようとする奴らからずっとお前を守ってきた」
「ちょっかいなんか、かけられなかったけど」
「だからそれは俺が妨害してたんだって! お前隙だらけだから!」
「不細工なのにぃ?」
アンは思い切り顔をしかめた。普段母やレイルダーを見ているのだから、自分の器量くらいは認識している。
「悪かったって言ってんだろが! お前は結構可愛いよ! ちっこくて、細くないし、それに負けん気が強いし!」
「全部悪口じゃないの! とにかく、私はやることを見つけたから挑戦するの!」
「ああそうかい! じゃあ俺も決めた!」
ヨアキムは負けじと言い返した。
「はぁ、決めた? なにを?」
「俺も軍に入る!」
「ええ!? あなたは政治家になるんじゃなかったの?」
「なるさ、いつかはな。でもその前に軍を経験しておくのもいいだろ? そういう人は多いし」
「……でも、すぐには兵士になれないわよ」
さすがにアンは軍人の娘だから、そういうことはよく知っている。
「近衛になるのだって、すごい厳しい訓練があるんだから。ましてや国防軍なんか想像を絶するわよ」
「お前だって、そういう世界にいくんじゃないか。だから、どちらが役に立てるか勝負だ!」
少年は無闇に威張っている。
「なぁんだ。結局勝負なのね?」
「そうさ。だが、今度こそ俺が勝つ。そんで、お前に婚約を申し込む!」
「こんやくぅ? 私結婚なんてしないわ」
「そうか! それならライバルがいなくて都合がいい!」
「……あなた、本気?」
「もちろんだとも。なぁ、アン」
いつの間にかヨアキムは、アンの両手を握り込んでいた。
色白だった少年の手が、いつの間にか自分よりもずっと大きくなっていることに、初めてアンは気がつく。
「ヨアキム……」
「よし! 善は急げだ! 俺も休学の許可をもらって、入隊の申請に行ってくるわ。戦争が終わったら、もう一回申し込むから待ってろよ!」
「え? ちょっ……まっ」
くるりと
目の前を武装した兵士達が行進していく。新たに投入される師団の出発だった。
中にはアンやヨアキムとそう変わらない若い顔もあり、道ゆく人たちの声援を受けている。
「……私も、もっと勉強して即戦力になれるよう、ちゃんと準備をしなくっちゃ……でないと少尉さんの役に立てない」
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