第16話15 言うこときけません! 少尉さん



 冬にしては暖かい、よく晴れた休日の午後。

 アンは図書館に立ち寄ってから家路を急いでいた。

 最近のアンはエレンの付き添いを断り、昼間に近所まで出歩く時は、ほとんど一人だ。エレンは嫌がったが、人通りの多い道を選ぶと約束している。

 図書館の前の通りは、葉を落とした街路樹が立ち並ぶ、古くて美しい街並みだ。

「急がないと。すこしおそくなっちゃった……え?」

 本がぎっしり詰まった重い鞄を抱えて歩くアンのすぐ横に車が停まり、車の中から帽子を深く被った男が下りてくる。

 警戒したアンが、さっと建物側に駆け寄ると、その横に男が並んだ。

「なんですかあなた! って……え? あっ……少尉さん!」

 レイルダーは見慣れない私服のスーツを着ているので、ちょっと見には彼だとわからなかったのだ。

「図書館の帰りかい? アン」

「はいぃ!」

 アンの声は上ずる。

 思いがけず、レイルダーに会えたことが嬉しくてたまらないのだ。ほぼ一月ぶりだった。

 帽子の影でレイルダーの表情はよくわからないが、美しい瞳がアンを見下ろしていた。

「ちょっと! ヴァッツ!」

 停車した車の運転席から鋭い声を上げたのは、アンも知っているガピラエル侯爵夫人、ミレイユだ。

「あなた、急になによ! どうしたの? それは誰?」

 夫が亡くなって、未亡人となった財産家の彼女は、社交界ではもっぱらレイルダーの恋人と噂されていたが、アンは信じてはいなかった。彼が本当に愛する女性を知っているからだ。

「ああ、悪い。この娘を送っていくから、一人で帰ってくれ」

「なんですって!? 久しぶりに会えたというのに! そんな小娘放っておきなさい!」

 ガピラエル侯爵夫人は以前、パーティで会ったアンを覚えていないらしい。

「小娘じゃない。アンシェリー・マリオン・フリューゲルだ」

 そういうと、レイルダーは車が入っていけない小道にアンの腕を引っ張って滑り込んだ。

「あ、あの! 少尉さん、いいんですか? ガピラエル侯爵夫人を放っておいて」

 大股でどんどん歩いていくレイルダーに合わせながら振り返ると、もう大通りは遠く、ミレイユの車も見えなかった。

「いいんだ。無理やりつきあわされてさ、逃げる機会をうかがっていた」

 それを聞いたアンの足取りは、小鹿のように軽くなった。


 侯爵夫人には悪いけど、通りかかってくださって感謝だわ!


「ちょうどいいところに、私が通りかかったってわけですね?」 

 我ながら性格が悪いと思うが、嬉しさは隠しきれない。うまく使われたって、それがなんだというのだ。彼の役に立てたのだ。

 屋敷までほんの十分程度の道のりが、永遠に続けばいいのに、と密かに願う。

 父は戦争の準備で多忙を極め、家にも帰ってこられないほどなので、きっとレイルダーも忙しいのだと思っていたのだ。

「……結果はそうだが、実はそうでもない」

「?」

 言葉が短いレイルダーの真意はつかみにくいが、聞き返すのは野暮だとアンは知っている。これでも古い付き合いなのだ。

「持つよ。鞄に本がいっぱいだ」

 言いながらレイルダーは、アンの重い大きな鞄をなんなく自分の肩にかけた。

「医療関係の本ばかりだな」

 ちらりと見ただけでレイルダーは、アンの借りた本の系統を見破ったようだ。

「あ……はい。ちょっと、興味があって」

「……ふぅん」

 レイルダーは帽子の影からアンを見下ろしている。

「少尉さんも、もうすぐ戦争に行くのでしょう?」

「ああ。お父上と共につ」

「いつですか? お父さまは教えてくれないのです」

「閣下が教えないなら、俺も言えないな。けど、おそらくここ数日のことだろう」

「やっぱり。軍関係の施設は、軒並み立ち入り禁止になってますし、そうだろうなって思ってました」

「アンは賢いな」

「これでも軍人の娘ですから……でも……無事で帰ってきてくださいね」

「ああ。必ずお父上をお守りする」

「もちろん、父のこともそうですけど、レイルダー少尉さんも、です。かつての戦いぶりが凄かったから、父が少尉さんを軍につなぎ止めたって聞きました」

「ああ、俺はもともと野良犬のような傭兵ようへいだったから」

「そのことはよく知りません。でも、今は違うでしょう? 絶対に無茶はなさらないで」

「それはアンも、だぞ」

「え?」

「アン、お父上の役に立ちたいって思ってるだろう? だから、医療や看護の勉強をしてる。でもダメだ」

「ど、どうして、ですか?」

「アンは清潔で安全な場所にいるべきだ」

「なぜです?」

「俺がそうして欲しいから」

「……そんな! 私はもう子どもじゃありません」

「だからだ」

 小さなため息がアンの耳たぶをかすめる。屋敷はもうすぐそこというところでレイルダーは足を止めた。

「アン。軍には関わるな。頼む」

「ごめんなさい……でも、できません。私はお役に立ちたいのです」

 否定されるのは嫌だった。いくら彼が自分を案じてくれているのだとしても。

「私は、お父さまの……少尉さんのお役に立ちたい。ほんの少しでも!」

 それは初めてアンがレイルダーに反論した瞬間だった。

「以前も言っていたな。だが、俺はそれが軍とは思ってもみなかった。アン、軍は……戦争は、綺麗事じゃない。大人の……男の仕事だ」

「……知ってます。先の内戦の記録や、お父様の日誌も読みましたから。怖かったけど……私は……え?」

 アンの両肩に大きな手が置かれている。

 そして、自分の手に顔を埋めるように、背の高いレイルダーが腰をかがめていた。

「行かないでくれ、アン。君にはなにも知らずにここで笑っていてほしい」

「……いいえ。それはできません」

 アンは内心の動揺を押し隠した。

「俺が頼んでもか?」

 不意に顔が上がり、至近距離で目が合う。信じられないくらい透明度の高い翠の瞳。

 その奥に暗い炎が見えた。彼はたぶん怒っている。

 その事実にひるみながら、アンは勇敢に答えた。

「そ、そうです。挑戦も失敗も、私の人生です。少尉さんが決めることではありません」

「確かに……でも、お母上はどうなる?」

「母は認めてくれました!」

「カーマインが……?」

 レイルダーは本気で驚いたようだった。

「そうです。少尉さん」

 肩に置かれた手の重さを意識しながら、アンはレイルダーを見上げた。


 ああ……この方は、心の中でお母さまのことを名前で呼んでいたのね。


「でもそのことはあんまり関係ないんです。お母さまのことは少尉さんが心配してください」

「……アン?」

 整った美貌がゆがめられる。

「私は、父の、国の、そしてあなたの役に立つ人間になる。私は真剣です。これはもうずっと前から決めていたことなのです」

「お嬢様!? そちらにいらっしゃるのですか?」

 向こうからエレンと下男がやってくる。帰りが遅いので迎えに来てくれたのだろう。

 アンの肩から愛しい重みが消えた。手が外されたのだ。途端に首筋が寒くなる。

 その首をアンは背後に向けた。

「ただいまエレン。遅くなってごめんなさい。レイルダー少尉さん、送ってくださってありがとうございました。お父様に出発前にお会いできたら嬉しいとお伝えくださいますか? それではおやすみなさい」

 精一杯強がって、アンは無理やりレイルダーから顔をそむけた。

 屋敷の門はもうすぐそこだ。通りはすっかり暗くなって、街灯が灯り始めている。

 長身の男の影が壁際に沈み込んでいる。

 彼はアンの去った方向を見つめていた。

 その瞳が僅か揺らいで見えたのは、街灯のせいかもしれない。


 

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