第15話14 私は決めました! 少尉さん

 少女はやがて、子どものからを脱ぎ捨てる。


 アンは六年生、十六歳になった。

 身長は標準には少し届かないが、豊かな飴色の髪と丸めの曲線を持つ立派な娘だ。

 しかし、アンの魅力は外見などではない。

 アンはこの数年、体力と持久力をつけるために毎日頑張ってきた。目標に向かって努力する、その一途で健気な心である。

 勉強は相変わらず得意ではないが、それでも積極的に課外活動に参加し、学校の科目にはない知識や技能を学んでいる。

「アン、今日もお母さんの病院に寄って行くの?」

「ええ。そうなの。お茶に付き合えなくてごめんなさい」

「いいのよ。でもあまり無理しないでね。あなたこの頃頑張りすぎよ」

「ありがとう。でも丈夫なだけが取り柄よ。じゃまた明日ね、ソフィ、ローリエ」

「ああ……行っちゃった。車に気をつけて!」

 運動着に着替えたアンは、母の病院まで走って行くのだ。

「ありがとう!」

 振り返ったアンは手を振って駆けていく。学校から病院まで三キロの距離だから大したことはない。


 だから、できるだけ早く、足を高く上げて歩幅を大きく!


 走るアンを変な目で見る紳士淑女もいるが、気にしない。

 確かに下級とはいえ、貴族の娘としてはデタラメな話だ。しかし、父が許してくれているのだから、アンは周囲の視線は無視して実行している。


 私は役に立つ人になるんだ!

 

 学園ではもうすぐ後期の学期が終わる。その直前に卒業生を祝う儀式があるが、この冬はいつもの年と様子が違っていた。

 校内にも街にもひりつくような空気が流れている。

 つい一月前のこと。

 ここ十数年、鳴りを潜めていた西方のラジム公爵領地が、西の隣国からの支援を受けて、突然「ラジム公国」の独立を宣言してきたのだ。

 統一王国は、長年ラジム領への警戒を続けてきてはいたが、この宣言は無謀なほど唐突で、対応が遅れてしまった。

 ラジム公の父は反乱に失敗し、失意のうちに世を去っていたが、領地と財産の半分を没収されても、ラジム家の血に流れる欲望はついえていなかったのだ。

 もともと大陸屈指の古い家柄の名家だが、その家風は常に野心的であり、領土内では常に圧政が敷かれ、領民は重税と使役に苦しめられてきた歴史がある。

 その公爵家が真正面から王家に、統一王国に挑んできたのだ。

 無論、そんな暴挙を王国側も認めるわけにはいかない。

 この冬は戦争の冬となる。

 首都は慌ただしく、不穏な空気に包まれていた。


「お母さま」

「まぁ、アン。また走ってきたのね? 頬が真っ赤よ」

 カーマインは柔らかく娘に微笑んだ。彼女の体調はこのところ少し持ち直しているが、退院したらすぐに無理をするという父の意向で、いまだに療養中である。

「ええ。体力では女生徒の中で一番です」

「あなたの学校は、体力を競うところではないでしょうに……でも、そろそろ私に話してちょうだい。あなた、もしかして軍に入ろうと考えているのじゃない?」

「……はい」

 アンは母の目を見ながらうなずいた。その目をカーマインの赤い瞳が受け止める。

「でも兵隊さんになるわけじゃないです」

「当たり前よ! そんなことなら誰も許さないわ。それになんの訓練も教育も受けてないのに、軍属にはなれない。あなた、従軍看護師になるつもりでしょう」

「そうです」

 アンの答えには迷いがなかった。

「私のお見舞いに来た後、この病院の看護講習を受けていたのね」

「お母さまには隠せないわ。私のお小遣いの中から受講費を出してたのに」

「わかるわよ。だって、あなた私の看護師さんに色々質問したりしてたじゃない。それにたまにかばんから専門書がのぞいていたし」

「淑女の勉強はあまりできなかったけど、目的があったら勉強って楽しいって思えたの」

「……」

 カーマインは娘の顔を見ながらしばらく黙っていた。

「……その顔じゃ反対しても、無駄のようね。お父さまには話したの?」

「いいえ、まだ……」

「きっと反対されるわ。お父さまはあなたをすごく大事にしてるもの」

「かもしれないけど、そうでもないかもしれません。だって、薄々私が看護の勉強してること、気がついていらっしゃるような気がするし……」

「そう……そうなのね。お父さまも悩ましいところだわね。独立心の高いのはフリューゲルの血筋だもの」

 カーマインはつぶやく。

「どこまで勉強したの?」

「とりあえず、最初の試験には合格したんです。あとは実技の経験を積んで、見習い看護師になって……二次試験が」

「大変よね。あなたも、世の中も」

「だからこれから必要になるかなって思ったの」

「で、あの人は知ってるの?」

「……あの人?」

「とぼけないで、アン。ヴァッツライヒ。あなたの少尉さん、よ」

「……」

 アンはすぐには答えられなかった。

 なんでも見抜く母のことだ。自分が彼を好きなことくらい、もう何年も前から気がついているだろう。


 でも、私の恋は永久にかなうことはないもの。

 少尉さんは、お母さまのことを好きだし。お母さまは、気がついていたとしても当然知らんぷりをしている。

 そして少尉さんは、その微妙な関係を保持しようとしている。


 まるで、少尉さんへの想いを諦めてる私みたいだと、アンは思った。

 この頃はほとんど彼に会えていない。

 戦争の準備で、にわかに軍務が忙しくなってきたのだ。しかし、たまに会えば微笑んでくれるし、言葉は短くてもいつも優しい言葉をくれる。

 けれども。

 あんな夢のような夜は、もう二度とやってこなかった。

 アンは眠る前のまぶたの奥で、あのパーティの夜を再現しない夜はないくらいだったが、今ではあの時の出来事全てが幻だったのかと思いはじめている。

 そのくらい遠くなった。


 アンは微かなため息をついた。

「言ってないです。最近はお会いすることも少ないですし……そもそも、あの方には関係ないし」

 吹っ切ったようにアンは言った。

「そんなことないわ。きっと彼も反対するわよ。彼はあなたのことをとても可愛がっているのだし」

「私はもう、子どもじゃありません。少尉さんの支持は要りません。私は本気でお父さま達のお役に立ちたい」

 アンはカーマインを見据えた。

「私には、お父さまやお母さまのような戦いの能はない。でも、もし、戦争で傷つく人がいれば、その傷を癒すお手伝いくらいはできます」

「その決意は立派だけど、従軍看護師の仕事は、あなたが考えるよりも凄惨な仕事場よ。戦いで手足がなくなったり、内臓がはみ出したりする重症者もいる。そしてもちろん、医療は全ての人を助けられない。たくさんの人の死を目の前で見ることになる」

「……はい。きっと私は、泣くかもしれないし、逃げ出すかもしれません。私は今までぬくぬく育ちすぎたのです。でも、やってみないうちから諦めるような弱い娘でもないつもりです。お母さま、お願いです。やらせてくださいませんか?」

 アンの真剣な訴えに押される様子で、カーマインはしばらく娘の瞳を見つめていた。

「これは真剣な目の色ね」

「……お母さま」

「さすがはあの人の娘ね……わかったわ。お父さまには私からも話してあげる」

 カーマインはいっそ晴れ晴れと言った。

「ありがとうお母さま!」

「でも、約束して。本当に怖くなったらいつ逃げてもいいの。十六歳の娘にとって、それは恥ずかしことじゃない。命の方が大事なのよ」

 抱きついたアンの髪を撫でながら、カーマインは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


 そして、その数日後──。

 ついに西の地で戦いが始まる。

 隣国の支援を受けて、強引に独立しようとするラジム公爵と、それを阻止しようとするアルストロム統一王国の間で開戦が宣言されたのだ。

 父フリューゲルは再度、戦いへと招聘しょうへいされる。

 そして当然のように、レイルダーも戦場へとおもむくことになった。

 厳しい冬になりそうだった。

 


    *****



ゆるい設定・・・。

国のことなど、色々突き詰めて描写したいのは山々ですが、需要がないので今回はあえて割愛しました。

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