第14話13 星の海です! 少尉さん *

 何が起きたのか、アンにはすぐには理解できなかった。

 目の前にはゆらゆら揺れる自分の足。なのに、膝と背中を支える腕は、少しも揺るがなくて。

 講堂から続く広い廊下は冷え冷えとしている。音曲は既に背中に遠く、規則正しい靴音の反響がアンの鼓動と連動した。


 私、今少尉さんに抱っこされてる!?


「ここか?」

「……」

 ヨアキムは無言でドアを開けた。

 講堂から離れた講義棟の一階に、医務室はある。しかし、今日は誰もいない。普段は保健医か看護師がいるのだが、今日はパーティに参加しているのだろうか?

 ヨアキムはすぐに電気をつけた。アンはこの部屋に入るのは初めてである。


「鍵がかけられてないのか? 不用心だな」

「薬品類は奥です。ここには大したものは置いていないので」

 白いシーツの寝台にアンはそっと下ろされた。冷たいリネンの感触が薄いドレスを通して這い上ってくる。

 肩にかけられた重みは近衛の上着だった。その人の温もりと香りに包まれて眩暈めまいがしそうだった。

「使ってない部屋は寒いな」

「……ありがとうございます」

 上着から立ち上る甘苦い濃い香り。


 少尉さんの香りだわ……。


 アンの夜はまだ終割っていない。

「ひどい靴ずれだ。なぜ言わなかった?」

 ぼうっとしているアンに厳しい言葉がかけられる。

「それほど痛くはなくて……」

「嘘だな。結構血が出ている。しかも両脚とも。これは痛いはずだ」

「いえっ! 私踊りに夢中で……え?」

 アンの言葉を無視したレイルダーは、アンの靴を脱がせた。無理してはいたかかとの高い華奢きゃしゃな靴だ。

「さすがに靴下は脱がせないな。我慢だ、アン」

「ひゃっ!」

 消毒液に浸した綿花がぺちゃりと肌にくっつく感触。と同時に、つーんとした痛みがはい登ってきた。アンは肩をすくめて我慢する。

みるだろ?」

「いいえ……いえ、少し……というか、かなり」

「やっと本音が出たな。アン」

 くっとレイルダーが笑い、もう一方の足も持ち上げる。

「そら、そっちも」

「うわぁ、痛そう。お前、よくこんなんで踊っていたなぁ」

 のぞき込んだヨアキムが呆れたように言った。

「鈍感で悪かったわね! 見ないでよ」

「なんだと! 心配してやったのに!」

「坊主、もう行っていいぞ。ここまで案内ありがとな。あとアンの足を見るな」

 レイルダーが、割って入る。

「さぁ、帰るぞ」

 布を当てて軽く包帯をしたレイルダーが立ち上がった。この状態ではもう靴は履けない。

「え? もう?」

「ああ。アンの足も心配だし、そろそろうるさい連中が近寄りはじめたからな。これ以上目立たないうちに車に戻ろう」

「……はい」


 もっとずっと一緒にいたいのに……。


 レイルダーはかかえられながらアンはうなだれる。

華奢な靴は彼の指先に引っ掛かっていた。言われもしないのに、ヨアキムが後から付いてきている。

 廊下にはまだ人が少なかったが、ちらほらと帰り始める客もいるようだ。もともと学校のパーティだから、夜遅くまではしないのだ。

「じゃあな、アン。早く治せよ」

 ぶっきらぼうにヨアキムが手を振るのへ、アンも力なく振り返した。

 休暇明けには学年中に言いふらされているかもしれないが、もうどうでも良かった。

「アン、寒くはないか?」

 レイルダーが自分の外套ですっぽり包んでくれる。

「大丈夫です。足も、もう痛くないです」

 駐車場にもまだ人は少なくて、レイルダーに助手席に押し込まれたアンは情けない虚勢きょせいを張った。ドアが閉められたが、レイルダーは直ぐには隣に乗ってこない。


 なんだろ? ヨアキムとなにか話してる?


 レイルダーは窓をふさぐように背中を向け、少年と何か言葉を交わしているようだ。しかし、それは直ぐに終わったらしく、運転席に彼が滑り込む。

 アンがヨアキムの方を見ると、彼は今までに見たことないような奇妙な顔をして立ち尽くしていた。

「じゃ、行くぞ」

「はい……」

 星あかりの中を車は走る。


 この夜が永遠に続けばいいのに。


 アンは強くそう望んでいた。こんなに一つのことを思ったのは初めてだった。

 しかし、レイルダーは前方を見ながら運転していて、アンの方を見ようとはしない。

 綺麗で冷たい横顔。

「あの……少尉さん」

 勇気を出して、話しかける。

「ん?」

「今日は本当にありがとうございました。踊っていただけて、すごくすごく楽しかったです」

「よかった」

 唇の端がわずかに上がった。

「だけど、少尉さんって、本当に女の人に人気があるんですね」

「つまらないことを言う。立場上、多少の付き合いがあるだけだ。閣下に迷惑をかけたくないし」

「ひとつ……伺ってもいいですか?」

「なに?」

「少尉さんは、両親を喜ばせたくて、私を誘ってくださったんですよね?」

「……」

「あ、別にひがむとか、拗ねてるとか、そういうんじゃないんです。純粋に嬉しかったし、楽しかったんですもの。本当に感謝してますし!」

「アン」

「はい?」

「確かに俺はフリューゲル閣下に恩義があるし、喜ばせたかったというのはある。でもな」

「……はい」

「俺はアンがどんなところで、勉強しているのか見たかったんだ」

「私の勉強?」

「俺は普通の学校を出てない。傭兵出身で閣下に拾われ、聴講生の立場で士官学校に入れてもらっただけだから、体系的な学問というものはあまり知らないんだ。だから今日、学校とはああいうところなんだって、初めてわかった」

「……学校を見たかったのですか?」

「アンが学んでいる場所を見たかった。学校とはいいところだな。あのくっついてきた少年もおかしなやつだったし」

「ヨアキム? なにか話されてましたけど」

「ああ、まぁ、ちょっと」

 レイルダーは曖昧に答えた。

「ずっと前にあいつと馬で競争してたろ?」

「覚えていらしたのですか?」

「もちろん。アンはいつ見ても面白い」

「私が面白い?」

「ああ。見飽きない。アン、よく学んで、たくさん友達を作りな」

「はい。でも……勉強は」

「苦手なんだろ? けど、学べるってことが幸せなんだよ。学べ、アン。賢くなって、父上や母上を支えるんだ」

「私が勉強したら、少尉さんは嬉しいですか?」

「うん」

「ではまた、私が学んだことを見にきてくださいますか?」

「うん」

「わかりました。なら私、勉強します! 実は今日、わかったことがあるんです」

「わかったこと?」

「今は内緒です。でも、私は将来人の役に立つ人間になりたい」

「いい考えだ」

「あれ? 道が違いませんか?」

「アンが楽しいって言ってくれたから、少しだけ遠回り」

 レイルダーは家とは別の方向にハンドルを切った。

「遠回り? どこかへ連れていってくれるのですか?」

「ああ。内緒だよ」

 車はどんどん街中から離れ、小高い丘へと登っていく。以前ヨアキムと競争した公園のある場所だが、馬場を通り越すと開けた場所に出た。

「寒いから、中から空を見てみ?」

 フロントガラスに広がるのは真っ暗な夜空。星が降るように輝く冬の空だ。アンはしばらく見惚れていたが、勇気を振りしぼって言った。

「車の外に出てはいけませんか? もっとはっきり見てみたい」

「だって怪我してるじゃないか……でも、まぁいいか」

 そう言うと、レイルダーは車を降りて、当然のようにアンを抱き上げてくれる。密かなアンの望みは叶えられた。

「ほら、アン」

「……」

 丘の上からは三百六十度の星降る夜空が見えるが、それだけではない。

今しがた登ってきた道を振り向くと、きらびやかな首都の灯りが宝石箱のように輝いていた。

 自然と人口の輝かしい光の海の中にアンはいる。そして最も輝ける人の腕の中だった。

「綺麗……」

「ああ、綺麗だな」

「ずっとここにいたいです」

「あ〜、それは無理だな。アンが風邪をひいてしまう」

「ひきませんよ、風邪なんて」

「じゃあ俺がひく。割と寒がりなんだよ」

「そうなんですか?」

「そういうことにしといてくれ」

 レイルダーはアンを抱いて丘の上をゆっくりと回って車に戻った。

「帰るぞ」

「……はい」

 観念したアンはそっとうなづいた。

 その拍子に一粒の涙がこぼれるが、レイルダーは気がつかない。それとも気がつかぬふりをしてくれたのか?

 夜の中を車が走る。

 やがて永遠に続けばいいと思った道の向こうに、見慣れた家の門が見えてくる。

 レイルダーは屋敷の少し手前で車を停めた。街灯から離れていて少し暗い。

 下りろということなのかと思ったアンは、思い切ってペーティ用のハンドバッグから小さな布を取り出す。

「あのっ! これ……ずっと以前にお借りして、お返しできずにいたものなんですけど!」

「……ん?」

 差し出したものは、以前彼から借りたハンカチだった。

「すみません。本当は、もっと早くに返さないといけなかったんですけど、お礼にどうしても刺繍がしたくて」

「ししゅう?」

 レイルダーにとってはあまり馴染みのない言葉だったのだろう、彼は黙ってハンカチを広げる。

 大きくて丈夫な白いハンカチには、Rの文字が翡翠色の糸で刺繍が施されていた。

「これが刺繍……アンがしてくれたのか?」

「は、はい。お借りした時は全然上手くできなくて、何度もやり直して……布が少し傷んでしまったんですけど、やっとなんとか少しは見られるものになって……お返しする機会を待ってたんです。長い間ありがとうございました」

「……」

 レイルダーはしげしげと、ややぼこぼこした文字を見つめている。

 その様子を見て、アンの頬に血が上った。人気のある彼のことだから、もっと素敵なものや、上手な手作りの品を女性たちから受け取っているに違いない。

 それなのに、長い間返さなかった上に、こんな下手くそな刺繍をしたハンカチを渡してしまったのだ。


 なんて、馬鹿なんだろうか? 調子にのってこんなものを渡してしまうなんて。大事な軍用のハンカチなのに。


 アンは膝の上で握りしめた自分の拳を見つめた。

「ごっ、ごめんなさい……せっかくのハンカチ、台無しにしてしまいましたね」

「……アン」

 その声は、今まで聞いたことがないほどかすれている。不思議に思って顔を上げると、体が急に傾いだ。

 肩を引き寄せられて、早口で囁く低い声。

「……のアン」

 額に触れたのは冷たい唇。湿った吐息が肌を滑る。

「……」

 何が起きたのかわからぬままに、アンがぼんやりしていると、レイルダーはハンカチを上着の胸ポケットに押し込んだ。

「ありがとう、お守りにするよ」

 そう言って彼は、再び車を発進させる。

 大きな車は滑らかに屋敷の門に滑り込んだ。玄関で待ち構えていたエレンが走り出てくる。

「お二人ともお帰りなさいませ!」

「すまん。靴ずれを起こしてる。応急処置をしたが、よく見てやってくれ」

「まぁ! かしこまりました! 人を呼びますわ。お嬢様、もう大丈夫ですよ」

 ぼうっとしたままの頭の上で、そんな会話がなされている。

 アンはすぐに明るいホールに運ばれ、夜が遠くなった。アンをそばの椅子に下ろすと、レイルダーはすぐに立ち上がる。

「おやすみ、アン」

 レイルダーは指の背でアンの頬を撫で、胸ポケットを叩いた。それが別れの挨拶。

 車は夜に向かって、門から通りへと消えていく。

 それが夢のような今夜の終わりだった。

 アンはしばし一人でホールに座り込んでいた。


 少尉さんの最後のささやきはなんと言ったのかしら?

 声が低すぎて聞き取れなかった……でも、もしかして?

 いえ、まさか……まさかね。


 彼が触れた頬が熱い。

 アン、十四才。

 その夜、初潮を迎えることとなる。


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