第13話12 ハプニングです! 少尉さん
「ヴァッツ、あなたがこんな学園のパーティに来るなんて知らなかったわ」
レイルダーが発する雰囲気に、遠慮しがちな周囲の空気をものともせずに話しかける女性は、アンも写真で知っている社交界の有名人で、確か、二十歳も歳上の夫を持つ有名な貴婦人だ。
ガピラエル伯爵夫人……名前は確か……。
「……ミレイユ?」
レイルダーが喉の奥でつぶやいた。
「私だって来るつもりはなかったけど。身内の子がどうしてもっていうもんだから、今しがた着いたのよ。そしたらあなたが踊っているじゃない。びっくりしたわ」
女性はお辞儀するアンを、見事に無視しながらしゃべり続けた。
「知っていたらご一緒したのに」
「言ってないから」
「でも会えてよかったわ、ヴァッツ」
「俺の連れには挨拶はなしか?」
レイルダーの冷ややかな態度に、伯爵夫人はやっとアンの方へ視線を流す。
「失礼。えっと……どちらの方? 私は」
「アンシェリー・フリューゲルです。ガピラエル伯爵夫人」
アンは一歩出て名乗った。
「まぁ。それじゃあ、あのフュルーゲル閣下のお孫様? 可愛い方ね」
「娘ですわ。ガピラエル伯爵夫人」
「あら、ごめんなさい。私、そういうことに
口の中に蜂蜜を含んでいるような甘ったるい響き。男を
「失礼ながらお断りする。今夜はアンを頼むと言われているから。さぁアン、行こう」
「は、はい。それでは失礼いたします。ガピラエル伯爵夫人」
レイルダーは伯爵夫人にそっけなく会釈をすると、
通り過ぎる際にチラリと見えたミレイユの瞳は、はっきりと自分に敵意を浮かべていたが、アンにはどうしようもない。
あの人はきっと、少尉さんの恋人の一人なんだわ。
でも、今夜はお相手できないって、少尉さんは態度で伝えていたのね。
納得していらっしゃらないようだけど、私だって今夜だけは少尉さんを独り占めしたいの、ごめんなさい伯爵夫人。
ホールでは休憩を挟んで、後半のダンスが始まろうとしていた。
ようやく周囲が見えるようになってきたアンは、それまで遠巻きにしていたソフィやローリエと言葉を交わすことができた。二人はそれぞれ、身内と来ているので安心して交流できる。
「初めまして、お嬢様方」
「初めまして! ソフィ・モードントと言います。レイルダー様」
「私はローリエ・ハリスです。私たち二人ともアンのクラスメイトなんです。どうぞよろしくお願いいたします!」
ソフィもローリエも、頬を染めてレイルダーを見上げていたが、彼女たちは挨拶をして声をかけてもらっただけで満足したらしい。
その身内達も、近衛の働きやアンの父の健康についてレイルダーと僅かに話しただけで、お互いの仕事ぶりがわかったようで、他の人たちと交流するために離れていった。
「じゃあまたね! アン」
「お休み明けにね」
この人たちは安心できる。真っ当で常識的な人たちだわ。
──だけど。
再びダンスが始まったホールの中、再びレイルダーと踊りはじめたアンの背中にいくつもの視線が突き刺さる。
さっきまでは遠慮していたくせに、後半のダンスも踊ってもらえないと知った、年上の婦人達の敵意だ。無論その中にガピラエル伯爵夫人もいる。
関係ないわ。
私にはこの一瞬だけが全てなんだもの。
しかし、アンにも不安があった。
履き慣れない高いヒールのおかげで、両足の
靴ずれだ。
おそらく血が滲んでいるだろうが、ドレスのおかげで見えないはずだった。
「アン?」
「はい」
「動きが
「いいえ! ちっとも」
「だが、体の緊張が戻っている。あそこの椅子に座ろう」
アンの返事も待たずにレイルダーは、壁際の椅子にアンを座らせた。すかさずガピラエル伯爵夫人が現れる。
「あらあら、お嬢さんはお疲れのご様子ね。悪いけど、ほんの一曲だけヴァッツをお借りしたいんだけど、いいわよね?」
「俺は」
「少尉さん、私はここで見ていますから、その方と踊ってきてください。本当のダンスをここで勉強したいんです」
「さすがはフリューゲル閣下の御息女だわ。小さくても偉いのね」
伯爵夫人は小さいの部分を僅かに強調して微笑み、レイルダーの腕を取った。
「さぁ、私に恥をかかせないでね。このお嬢さんが勉強をお望みよ? ヴァッツ」
「……アン、ここから動くなよ」
猫がミルクを舐めるように甘い声で囁くのへ、レイルダーはしかめ面で応じ、二人はホールに進み出た。
確かに背丈とか、雰囲気とかとても釣り合っている。踊りもすごくじょうずだ。
お母様もそうだけど、華やかな人同士ってとても絵になるんだ。
レイルダーの白い隊服に、伯爵夫人の銀色のドレスが巻き付いた。
「ふてくされるなよ、不細工」
「え?」
ヨアキムだった。
「こんなことくらい覚悟してたろ?」
「ふてくされてなんかないし、覚悟もしてない。だって一夜のことだもの」
アンは前を向いたまま答えた。
実は足の痛みが限界で、座らせてもらえたのは幸いだったのだ。
「対抗して俺と踊るか?」
「え? あなたのパートナーは?」
「別の男と踊ってる」
「……そう」
「なんだ? 足がどうかしたのか?」
アンがそっとスカートの裾を持ち上げたのを、ヨアキムが
「別に。見ないで」
「見てねぇよ。ははん、捻挫だな、調子に乗って踊りまくってたから」
「そんなところよ。捻挫じゃないけど」
「じゃあ、俺が……」
「アン!」
いつの間にか曲が終わったのか、レイルダーが戻ってきた。いや、曲は終わっていない。パートナーを放り出してきたのだ。
「大丈夫か?」
「あ、はい。でもガピラエル伯爵夫人は」
「どうでもいい。見せてみろ」
レイルダーは自分の体でアンを隠すようにひざまづくと、そっと華奢な靴に包まれた足を取り、すぐに立ち上がった。
「おい、坊主、医務室はどこだ?」
そういうと、レイルダーはすばやくアンを抱き上げた。
「今すぐ案内しろ」
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